第55話
街歩きの日から四日が経った昼下がり、私はプラッシュ工房の作業台で、蜂蜜色の起毛生地と向き合っていた。窓から差し込む冬の日差しは薄く、それでも布の上に落ちると、毛並みの一本一本がやわらかく光る。型紙はもう三枚目。一枚目は頭が大きすぎて、二枚目は逆に小さすぎたのよね。
(おかしいわ。カイル様のぬいを作った時は、一晩で型紙が決まったのに。どうして自分の頭の丸さひとつ、こんなに分からないの……!)
鋏を持ったまま唸っていると、奥の棚で糸巻きを整理していたアンナが、振り返りもせずに言った。
「リゼット様。さっきから、鏡を三回見ていますよ」
「数えなくていいのよ、そんなこと」
「数えずにいられないほど、見ていますから」
作業台の端には、手鏡が一つ伏せて置いてある。自分の顔の輪郭を確かめようと覗き込むたび、映るのは眉間に皺を寄せた令嬢の顔で、とても可愛らしいぬいぐるみの手本になりそうにない。
私は三枚目の型紙を生地の上に置き、待ち針で四隅を留めた。今度こそ、と息を詰めて鋏を入れる。しゃり、しゃり、と起毛の生地を断つ音が、静かな工房に響いた。切り出した髪の部分を手のひらに載せて、窓の光にかざしてみる。
「……これなら、いけるかもしれないわ」
「今日はそこまでにしましょう。日が傾いてきましたよ」
「まだ明るいじゃない」
「カイル様から、夜なべは禁止と言われているんですよね。日が落ちてから針を持ったら、私が報告に行きますよ」
アンナは澄ました顔で、私の手元から鋏を取り上げた。
(いつの間に、アンナとカイル様が手を組んでいるの……! 私の味方はどこ)
その時、扉の鈴が賑やかに鳴った。
「リゼットさん、いる? 近くまで来たから寄ったの」
入ってきたのはフィオナ様で、後ろからマリーが小さく会釈をしながら続いた。二人とも頬を寒さで赤くして、外套の肩に冷たい外の空気をまとっている。フィオナ様は作業台の上に目を留めた途端、足を止めた。
「あら。その金色の生地、何?」
「な、何でもないわ。新しい見本よ」
「見本にしては、随分と見覚えのある色ね」
フィオナ様は作業台に身を乗り出し、切り出したばかりの髪の部分と、私の髪とを交互に見比べた。マリーも隣から覗き込み、口元に手を当てる。
「リゼットさん、それ……ご自分の?」
隠しきれないと観念して、私は街歩きの日のことを話した。茶屋でカイル様が蜂蜜色の生地を卓に置いたこと。自分の一体を作ってほしいと言われたこと。話しているうちに、なんだか自分で惚気を並べているような気がしてきて、最後の方は声が小さくなってしまう。
「まあ……!」
マリーが両手を胸の前で組んだ。フィオナ様は一度天井を仰いでから、作業台に肘をついた。
「あの団長様が、自分で生地を選んで、自分で買ったの? 殿下に話したら、きっと三日は笑っていらっしゃるわ」
「話さないでちょうだい」
「無理よ。こんな面白いこと、黙っていられるわけがないもの」
フィオナ様は容赦なく言い放ち、それから少し首を傾げた。
「それで、進みはどうなの。顔はもう描けた?」
「そこなのよ」
私は作業台に広げた刺繍糸の束を指さした。茶色、灰色、青、緑。色味の違う糸が十本以上並んでいる。
「瞳の色が決まらないの。自分の目なんて、鏡で見ても光の加減で違って見えるし、どの糸を当てても、何か違う気がして」
「リゼットさんなら、どの糸でも可愛く仕上がると思うけれど」
マリーが遠慮がちに言うと、フィオナ様が首を振った。
「駄目よ、マリー。これは団長様の懐に入るものなのよ。適当な色じゃ、職人の名折れだわ」
「フィオナ様、それを言われると余計に手が止まるのよ」
「だったら、本人に聞けばいいじゃない。毎日見ている人が、一番よく知っているでしょう?」
フィオナ様はさらりと言って、アンナが淹れてくれた茶を受け取った。私は返事に詰まって、糸の束を指先でいじる。
(毎日、見ている……。そういえばカイル様って、話す時にいつもまっすぐこっちを見るのよね。あの目で、私の目の色まで覚えられているのだとしたら――だめ、考えただけで針が持てなくなる)
マリーが隣で小さく笑った。
「エドガー様もね、この間わたしの目の色を、榛の実みたいだっておっしゃったの。木の実に例えられるなんて、思ってもみなかったわ」
「エドガー様らしいわね」
「でも、理由を聞いたら、子どもの頃から見慣れている実だから、一番よく分かる色なんですって」
はにかむマリーの横顔を見て、フィオナ様が肩をすくめる。私は三人分の笑い声が工房の中に響くのを聞きながら、刺繍糸の束をそっと箱に仕舞った。
◇
騎士団の詰所を出た足で、俺は目抜き通りの織物商へ向かった。四日前、リゼットと二人で立ち寄り、蜂蜜色の生地を切ってもらった店だ。一人で扉の前に立つと、あの日より通りの人波がやけに騒がしく感じられた。
扉を押すと、上に吊るされた小さな鐘が鳴った。奥から顔を出した店主の老人が、前掛けで手を拭きながら目を丸くする。
「これは、団長様。今日はお一人で?」
「刺繍糸を一本、見せてもらいたい」
「刺繍糸でしたら、こちらに」
老人は反物の棚の奥にある、低い引き出し棚の前へ案内した。引き出しを一段ずつ開けると、色ごとに分けられた刺繍糸が、細い木枠に巻かれて整然と並んでいる。似た色の糸が、わずかずつ濃淡を変えて何本も続いていた。
「先日の生地に合わせるものでございますか」
「瞳の色だ」
短く答えて、一本を手に取った。窓の光にかざし、隣の一本と見比べ、また元の一本に戻す。茶屋の窓際で、蜂蜜色の生地を見下ろしていた時の彼女の目。焼き栗を受け取って顔を伏せる直前の目。通りで躓きかけて、俺を見上げた時の目。光の加減で違って見えるのは確かだが、その奥にある色は、どの時も変わらなかった。
「これを」
差し出すと、老人は糸を受け取って、しげしげと眺めた。
「迷われませんでしたな」
「毎日見ている」
老人は一拍置いてから、皺の多い顔をくしゃりとほころばせた。糸を薄紙で包み、紐を結ぶ手つきが、先ほどより心なしか丁寧になった。
「店主様には、何かと贔屓にしていただいております。どうぞ、よろしくお伝えください」
「伝えておく」
包みを受け取り、懐に収める。いずれここに、もう一つ小さな重みが加わることになる。
◇
夕方、アンナが先に屋敷へ戻り、私が作業台の片付けをしていると、扉の鈴が鳴った。振り返ると、団服の上に外套を羽織ったカイル様が立っていた。外はもう薄暗く、彼の肩越しに、通りの灯りが一つずつ点っていくのが見える。
「お疲れ様。今日は早いのね」
「書類が早く片付いた」
カイル様は作業台の上に目を向けた。片付けかけのまま広げてある、蜂蜜色の髪の部分と、顔を縫う前の丸い布。そして、蓋を開けたままの刺繍糸の箱。
「進んでいるか」
「髪までは、ね。顔が……瞳の色が、どうしても決まらないの」
白状すると、カイル様は黙って懐に手を入れた。取り出したのは、薄紙で包んだ小さな包みだった。紐を解くと、中から刺繍糸が一巻き現れる。
「これを使え」
「……え?」
受け取った糸を、ランプの明かりにかざしてみる。今日一日、あれこれ当てては首を振っていたどの糸とも違う色だった。けれど、手鏡を開いて自分の目の横に並べてみると、驚くほど馴染む。
「どうして、分かったの」
「毎日見ている」
さらりと言われて、私は手鏡を取り落としそうになった。
(毎日……見ている……。フィオナ様、あなたの言った通りだったわ。でも、本人の口から聞くと、破壊力が違いすぎる……!)
「わざわざ、買いに行ってくれたの?」
「この前の織物商だ。糸も扱っていた」
「あのご主人、また目を丸くしていたでしょう」
「そうだな、丸くしていた」
真面目な顔で言われて、私は思わず吹き出した。あの老主人が、今度は一人で現れた騎士団長を前に、前掛けの皺を慌てて伸ばす様子が目に浮かぶ。カイル様の口の端も、わずかに上がっていた。
私は窓の外に目をやった。空の端にはまだ、ほんのりと明るさが残っている。
「今から縫ってもいい? 瞳だけ。これは夜なべじゃないわよね?」
「俺が見ている間なら、構わない」
「見張り付きなのね」
「そうだ」
カイル様は作業台の向かいに椅子を引き、腰を下ろした。私は丸い顔の布を刺繍枠に張り、渡された糸を針に通す。ランプの炎が小さく揺れ、布の上に私の手の影が落ちた。
一針目を刺すと、糸が布を抜ける、かすかな擦れる音がした。向かいからの視線を感じて、指先が少しだけ固くなる。
「……そんなにじっと見られると、手元が狂いそう」
「なら、目を閉じている」
「それはそれで気になるから、見ていていいわ」
カイル様は何も言わずに、頬杖をついた。執務室でも詰所でも、きっと誰にも見せない格好だ。
瞳の縁を刺し、内側を埋め、最後に白い糸で小さな光を一つ入れる。カイル様の一体を作った時と同じように、糸の太さを少しずつ変えながら重ねていく。ただ一つ違うのは、あの時は記憶の中の目を思い浮かべながら縫ったけれど、今は、手を止めて顔を上げれば、その目がすぐそこにあることだった。
左の瞳を刺し終え、右に取りかかる頃には、向かいからの視線も気にならなくなっていた。工房の中には、針が布を通る音と、ランプの芯がじりじりと燃える音だけがある。
最後の一針を留め、糸を切る。刺繍枠から布を外して、手のひらに載せた。
「……できた」
丸い顔に、小さく結んだ口元と、あの糸で刺した二つの瞳。まだ髪も体も縫い付けていない、顔だけの布なのに、ランプの明かりの下で見ると、確かにそれらしく見えた。
「どう?」
差し出すと、カイル様は受け取った布を、しばらく黙って見下ろしていた。それから長い指で、刺したばかりの瞳の縁を、糸を崩さないようにそっとなぞった。
「似ている」
「本当に? 自分ではよく分からないの」
「俺には分かる」
カイル様は布を作業台に戻した。ランプの下で、刺したばかりの瞳が小さく光る。
「残りは」
「髪を縫い付けて、体を作って、服を仕立てて……明るいうちに少しずつやれば、十日くらいかしら」
「十日」
「夜なべ禁止なんでしょう?」
言い返すと、カイル様は小さく息を吐くように笑った。
「待つのは慣れている」
その一言に、私は思わず手を止めた。落とし物のぬいぐるみを懐に、名前も知らない持ち主を捜していた人。正体を知ってからも、私が自分の気持ちに向き合えるまで、急かさずに工房へ通い続けてくれた人。
(待たせてばかりだったわね、私。……ううん、今回は、ちゃんと間に合わせる)
「十日よりは、早くするわ。昼間に、うんと集中して」
「無理はするな」
「しないわよ。約束する」
カイル様は私の顔をじっと見て、それから目の下の辺りで視線を止めた。四日前、往来で咎められた時と同じ位置だ。
「影は、消えたな」
「言いつけを守ったもの。アンナが見張っていたし」
「そうか」
カイル様は椅子から立ち上がり、作業台を回ってこちらへ来た。何をするのかと見上げると、私の顎に指先を添え、わずかに上向かせる。
「なら、お仕置きは要らないな」
「そ、そうよ。今日は良い子だったでしょう」
「ああ。だから――」
言い終わるより先に、カイル様が唇を重ねた。ランプの炎が揺れて、壁に映る二人の影が一つになる。触れていたのはほんの短い間だったはずなのに、離れた後もしばらく、何を言おうとしていたのか思い出せなかった。
(お、お仕置きじゃなくて、これ……? 何が違うの……! 全然違わない、というか、どっちも身がもたない……!)
カイル様は何事もなかったかのように姿勢を戻した。
「十日後に、ちゃんと仕上げて渡すわ」
「待っている」
◇
それから八日後の朝、私はいつもより少し早く工房に着いた。吐く息が白く曇る。冷えた指先をこすり合わせてから扉の鍵を開け、ランプに火を入れると、作業台の上に置いた小さな包みが、明かりの中に浮かび上がった。
包みの布をそっとめくる。中にいるのは、蜂蜜色の起毛の髪をした、手のひらほどの一体だ。紺の地に白い縁取りの外套は、街歩きの日に着ていたものを、ぬいぐるみの寸法に縮めて仕立てた。丸い顔には、あの夜に刺した二つの瞳がある。
(できちゃった……。自分のぬいなんて、恥ずかしくて見ていられないと思っていたのに。こうして見ると、ちゃんと可愛い、気がする。気がするだけ、かもしれないけど)
昼間だけ、と決めた約束は、一日も破らなかった。アンナが毎晩、燭台を取り上げに来たせいでもあるけれど。
扉の鈴が鳴った。振り返ると、朝の冷気をまとったカイル様が立っていた。その後ろから、レイフ様がひょいと顔を覗かせる。
「おはようございます、ヴァランタイン嬢。団長が、今朝はやけに早く詰所を出たものですから、つい」
「ついて来いとは言っていない」
「来るなとも言われてませんよ」
しれっと返したレイフ様は、入り口の脇で足を止め、それ以上は中へ入ってこなかった。カイル様は小さく息を吐いて、作業台の前まで歩いてくる。
「できたと、アンナから聞いた」
「アンナったら、わたくしより先に報告しに行ったの?」
「昨日の夕方、詰所に言付けが来た」
(アンナ……! 本当に、いつの間にそんな連絡網ができていたの)
私は包みごと両手で持ち上げ、カイル様の前に差し出した。
「約束より、二日早いわ」
カイル様は包みを受け取り、中の一体を作業台に座らせた。私は手提げから、今朝枕元から連れてきた黒髪の一体を取り出して、その隣に並べる。紺青の瞳と、あの糸の瞳。黒髪と蜂蜜色の髪。あの日、街角で私の手から転がり落ちた一体に、ようやく隣ができた。
「どうかしら」
「悪くない」
「それだけ?」
「……よくできている」
言い直したカイル様の声は低く、少しだけかすれていた。彼は蜂蜜色の一体を手に取ると、外套の内側へ収めた。仕舞い終えてから、その上に一度だけ、手のひらを当てる。私は黒髪の一体を、そっと手提げに戻した。
入り口の方で、レイフ様がわざとらしく咳払いをした。
「団長、懐がちょっと膨らんでますよ。外套の仕立て、直してもらった方がいいんじゃないですか」
「このままでいい」
「でしょうね」
レイフ様は笑いながら、私に向かって片目をつぶってみせた。
(推しの懐に、私のぬいが……。だめ、今日一日、仕事にならないかもしれない)
私が顔を覆いかけたところで、カイル様が身を屈めた。耳元に、低い声が落ちてくる。
「今夜、迎えに来る。遅くまで店を開けるなよ」
「……分かってるわ」
短く答えると、カイル様は満足したように姿勢を戻し、レイフ様を促して扉へ向かった。扉の鈴が鳴り、二人分の足音が石畳の上を遠ざかっていく。
私は大きく息を吐いてから、表に出て看板を裏返した。「営業中」の文字が表を向くと、通りの向こうから、もう小さな包みを抱えた令嬢が二人、こちらへ歩いてくるのが見えた。
扉の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ。プラッシュ工房へようこそ」
振り返って迎えた声は、自分でも驚くほど弾んでいた。
◇
日が落ちきる少し前、私は最後のお客様を見送って、看板を裏返した。扉の鍵を閉めてランプの火を落とすと、工房の中にはあっという間に冬の薄闇が忍び込んでくる。
手提げを腕にかけて外へ出ると、ちょうど通りの角から、見慣れた背の高い影が歩いてくるところだった。
「時間どおりね」
「遅くまで開けるな、と言ったからな」
「守ったわよ。ちゃんと、日が落ちる前に閉めたもの」
胸を張って言うと、カイル様は小さく頷いて、何も言わずに外套のポケットの口を少しだけ開けてみせた。……これ、入れってことよね?
(街歩きの日の、あれ……! 今度は、私から入れるの?)
一瞬だけためらってから、私はそっと、その中に手を滑り込ませた。待っていたみたいに、大きな手が指ごと包み込んでくる。
馬車を待たせてある通りの入り口まで、並んで石畳を歩く。家々の窓に、ぽつりぽつりと灯りがともり始めていた。吐いた息が白く、灯りの手前でほどけて消えていく。
「リゼット」
「なあに?」
「式の日取りを、伯と相談したい」
あまりにさらりと言われて、私は危うく石畳の継ぎ目につまずきかけた。
「し、式……」
「披露目は済んだ。次は、それだろう」
当然のように言う横顔を見上げながら、私の頭にふと浮かんだのは、コーデリア様の顔だった。フィオナ様と殿下を象った、対のぬいぐるみ。婚約のお祝いに、と頼まれた、あの依頼。
(前世でいう、ウェルカムドール……。今度は、私たちの番なのね)
手提げの中で、黒髪の一体がことりと揺れた。カイル様の外套の内側には、蜂蜜色の一体がいる。
「じゃあ、この子たちにも婚礼衣装を仕立てなきゃ。白い花嫁衣装と、騎士の礼装と……」
「夜なべは禁止だ」
「式までは、まだ時間があるでしょう?」
「ああ。急がなくていい」
カイル様は、外套のポケットの中で私の手を握り直した。
「これから先、いくらでも時間はある」
ポケットの中で、私も指に力を込めて、その手を握り返した。
「ええ。これから先、ずっとね」
53話が抜けていたので追加しました。
教えてくれた方、ありがとうございます。
本作はこれにて完結です。
つたない小説でしたが、最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
ブックマークや評価が書き続ける大きな力になりました。
またどこかの物語で、お会いできたら嬉しいです。




