森の手前で
夕食後、片付けを終えた頃だった。
俺とカイルが縁側で涼んでいると、リリがそっと近づいてきた。
手に持った濡れた布巾を握りしめたまま、少し言いにくそうに視線を落とす。
「ねえ、ソーマ、カイル……ひとつ、お願いしてもいい?」
その声に、思わず背筋が伸びる。
その間にカイルが言葉を返す。
「どうした?」
少し間を置いて、リリはぽつりと口を開いた。
「……その、最近ずっと、お肉が足りなくて。小さい子たちも我慢してて……」
「……そうだな」
今日の夕食が脳裏によぎる。
パンとスープ、それに少しばかりの肉。
献立だけ見ればいつも通りだが、肉の量は明らかに少なかった。
成長期なんて言葉がこの世界にあるかはわからないが、それでもあの量ではまともな栄養すら取れないだろう。
「最近、お肉屋さんの値段が上がっちゃって。どうしても手が出なくて……。だから、もし迷惑じゃなければ……明日、森に行って、少しだけ狩りをしてきてくれない?」
リリの目は、不安げだった。
頼むことに慣れていない。そういう雰囲気が滲んでいた。
リリは獣人だが、戦うことが苦手だと前に言っていた。
相手が動物であっても、誰かが傷つくのを見るのがつらい、と。
孤児院では狩りに出る者もいるが、リリがそれに加わったことは一度もない。
いつも台所に立ち、子どもたちの世話をしながら帰りを待っていた。
血の匂いのしない場所で、自分にできることを黙々とこなす。
だからこそ、自分ではできないことを、俺たちに勇気を出して頼んできた。
恐らく、俺たちが冒険者になるつもりだと思っているからこその提案なのだろう。
ただ生憎と、森で魔法を使って獣を狩るなんて経験まではまだ積んでいないわけで。
「悪いけど、まだ森に行けるほど――」
「いいぜ。行ってくる、明日」
俺が断りの言葉を言い切る前に、カイルが了承の返事を返す。
「おまっ――!」
「どうせいつかは行くつもりだったんだ。今行っても変わらねえよ。それに、これ以上肉減るの嫌だ」
「それが本命だろ」
こいつの食い意地には恐れ入る。
しかしまぁ、不可能と言えるほどでもないだろうと同時に考える。
この世界では森に入ったことすらないが、前世では何度か山に入り銃の練習がてら獣を仕留めた経験があった。
銃の代わりに魔法になったとはいえ、大物は仕留められずとも野兎何匹かくらいなら捕まえられるだろう。
無論大物と遭遇すれば危険はあるだろうが、経験上小物がいるのは森の手前辺り。
そう考えれば、危険も少ないはずだ。
「まぁいいか、行ってくるよ」
そう答えると、リリははっと顔を上げ、すぐにぱっと笑顔を咲かせた。
「ありがとう。……助かる!」
「肉は食えりゃなんでもいいんだろ?」
「うん! 料理の腕なら自信あるから、何でもさばけるよ!」
その声は、確かに自信に満ちていた。
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翌朝。
まだ太陽が森の縁を照らすかどうかという時間に、俺たちは孤児院を出た。
いつもは賑わっている大通りは早朝だからか静けさが漂っていた。
人もいない大通りを特に避ける理由はない、そう考えて気にせず大通りを歩く。
「……思ったより、人がいないな」
周囲を見回すカイルも、同じ感想を口にした。
早朝とはいえ、ここは屋台が並ぶ大通りだ。
果物のような素材そのものを売る店はもちろん、ひと手間かけた料理を出す店まで、どこにも人影がない。
昼にはそこそこ賑わうはずだし、朝のうちから仕込みをする屋台も多いと思っていたがどうやら違うらしい。
そんなことを考えながら歩いていたその時、肩にぐっと強い力がかかる。
「――待て。動くな」
カイルが急に手を伸ばし、俺の肩を押さえた。
そのまま俺の肩を引きずって物陰へと身を隠す。
「おい、急にどうし――」
「あれを見ろ」
俺の口に人差し指を立てて大通りの先へと指さす。
その指の先――まだ朝早い大通りには異様な光景が見えた。
獣人が手を縄で繋がれ、首輪をつけられた状態で一列に並ばされていた。
――奴隷だ。それも、多分違法の。
年端もいかない子供、痩せ細った女、顔を腫らした老人。
どれもやせ細っていて栄養が足りていない事が見て取れる。
この世界は奴隷という文化こそあるが、生活を保障したうえでの労働力としての提供が多い。
飯がまともに与えられない等の非人道的行為までは、許容されていないはずだった。
「キャッ……!」
その中のひとりがふらつき、足をもつれさせて倒れた。
「チッ、立てやクソが……」
男の荒々しい声が響くと、倒れた女の背に鞭が容赦なく振り下ろされる。
「ギィッ……!」
苦痛を押し殺して口を閉ざす。
甲高い音とともに、皮膚が裂ける乾いた音が静かな大通りに響いた。
肉が開き、背中に赤黒い線が走っている。
そこからじわりと血が滲み、地面にぽたりと落ちる。
それでも男は表情ひとつ変えず、吐き捨てるように言った。
「泣くな、歩け。死にたくなきゃな」
カイルが、静かに舌打ちした。
その手が無意識に、腰のナイフへと伸びている。
「……胸糞悪ぃな」
俺は何も言えなかった。
できたのは、せいぜい目で『やめろ』と訴えることだけだった。
仮にあいつらを助けたとしてその先どうするのか。
俺たちには食わせる口も守れる場所もない。
この国じゃ獣人への差別は骨の髄まで染みついてる。
鎖を断ち切ったところで、待っているのは“自由”じゃない。
もっと冷たい現実だ。
だから――今の俺たちには何もできなかった。
森のほうへと遠ざかっていく奴らの背を、息を殺して見送るしかなかった。
「……何もできなかったな」
誰の声ともつかない独白が、重く空気に溶ける。
あれから、奴隷の一行も森の方へ向かっているのが見えたため、俺たちは大通りを避け少し遠回りになる脇道を選んで森へと向かった。
森に入っても足取りは重いままだ。
木々のざわめきが、後ろめたさをそのまま形にしたように耳に残る。
「今ここで暴れりゃ、レティシアに……いや、みんなに迷惑がかかる。それだけは絶対に避けなきゃならねぇ」
「わかってる……」
低く押し殺したカイルの声には、妙な確信があった。
受けた恩は必ず返す。
腐った裏の世界でもあった、濁らない一本の掟。
それを果たす前に、俺たちは何も失うことはできない。
「……わかってるんだ。でも、それって結局、自分に都合のいい言い訳でしかないみたいで……」
言葉にした瞬間、カイルの表情がわずかに曇り、その胸の奥の痛みが伝わってくる気がした。
それを振りほどくようにカイルは黙って歩く。
けれど、その拳がわずかに震えている。
恩を裏切らなかった誇りと、助けられなかった後悔――。
そのどちらも帳消しにできるほどの力なんて、今の俺たちにはなかった。
草を踏み分け、木の根を避けながら慎重に進む。
葉を揺らす風。かすかに動く木の影。
森は静かだった。……静かすぎる。
湿った土の匂いすら薄れ、風の流れさえ途絶えているように感じる。
「……なんか、思ってたより静かじゃねぇか?」
低くつぶやく。
カイルが肯定してあたりを見回す。
森に入る前は、鳥やら獣やら、うるさいくらいの音がするもんだと思っていたが――そうじゃない。
足跡や糞の痕跡を探してみるが、見つからない。
草は寝ておらず、地面も荒れていない。
まるで“何も通っていない”かのような、沈黙。
そんなときだった。
「……あそこ、見ろ」
カイルが指差した先。
木の根元に、何かが倒れていた。
近づくと、それは痩せた小型の鹿のような獣だった。
呼吸は浅く、身体を震わせている。
左腹には深く抉られたような傷。牙か、爪――だが、裂け目の縁は黒く焦げ、肉が焼けた匂いが漂っていた。
まるで高熱を帯びた刃で一気に断たれたような痕跡。
「……これ、逃げてきたな」
「追ってきたやつは?」
周囲に意識を集中させ、魔力で聴覚を補強する。
身体強化を応用した五感の強化がそれを可能にする。
息を潜めた獣の気配すら探知できるはずのこの感覚に、何も引っかからない。
「気配はない……けど、周囲が不自然すぎる」
傷ついた獣がいれば、それに群がる小動物や別の捕食者がいるはず。
なのに、それがまったくいない。
まるで、森全体がこの場所を避けているようだった。
「……魔物、にしか不可能だよな。こんな傷跡」
カイルが息を呑む。
獣の体には、まだ微かな体温が残っていた。
襲われてから、そう時間は経っていない。
俺はそっとナイフに手を伸ばし、できるだけ苦しまないように獣の命を絶つ。
今更命を奪う行為に迷いはない。
だが本能が告げていた――「ここは危険だ」と。
血抜きや解体をこの場で行いたいところだが、それは帰ってからにする。
この一匹だけで、今日の森に“何かある”と確信するには十分だった。
「……やめとこう。これ以上奥に入るのは」
「……賛成だ。今日の分くらいはあるだろ。持ち帰って、これで飯の足しにしてもらうか」
帰り道。
空はすっかり明るくなっていたが、森の奥から吹き抜ける風は、不自然なほど冷たかった。
あの奥に何かが潜んでいる――そんな予感が、背筋から離れなかった。