転生?
——冷たい。
頬を濡らす感触と、鼻を突く悪臭。
意識が戻ってきた瞬間、全身を襲ったのは、凍えそうな寒さと、ひどい吐き気だった。
「っげ……」
視界がぼやけていた。
目の前には、黒ずんだ壁と濡れた石畳。どこかの路地裏らしい。
けれど、ただの裏通りじゃない。
周囲には悪臭を放つ食べ残し、割れた瓶、泥水、そして血が混ざっていた。
こんな場所、まともな人間が近づくはずもない──まるで、捨て場だ。
喉は焼けるように乾いている。
胃はきしむほど空っぽ。頭もズキズキと鈍く痛んで、何もかもが最悪だった。
怒号が聞こえた。笑い声も。
誰かが瓶を割ったのか、ガラスが砕ける音が耳の奥に響く。
「……ここは、地獄の続きか?」
自分の声が聞こえた──けれど、やけに高い。
かすれたその声は、まるで子どもみたいだった。
ゆっくりと手を見た。
小さい。細い。まるで少年の肌のように。
しかし腕は骨ばって、傷だらけで、爪の先まで泥まみれだった。
そして、肌にこびりついた赤黒いシミは……血だ。
本来の肌色は、血と泥に覆われてどこにも見えない。
俺は目を見開いた。
「……なんだ、これ」
その声が届いたのか、隣に転がっていた男が、呻きながらゆっくりと体を起こす。
フードを被っているが、背丈はさほど高くなく、呻くその声はまだ声変わりも終えていないような若さが感じられた。
少年?も同様に状況が呑み込めていないのか、あたりを見回す。
そしてフードから覗く鋭い目が、俺をとらえた。
俺はこいつを見たことがない──けれど、その目つきだけは記憶にあった。
「おい、生きてるか」
「……一応、生きてるぞ」
その言葉の端々には、長年を生き抜いてきた重みと貫禄が滲んでいる。
それだけだ。断言なんてできない。俺の知るあいつとは体格も声も、似ても似つかないのだから。
でも、それだけで確信できた。
──こいつは、あの夜、俺と一緒に死んだ馬鹿野郎だ。
そしてこの理解の追いつかないような状況で一つ、言葉として表せるものを思い出した。
転生。
大人だった俺たちが、少年のような幼い体で意識を持っている。
俺の持つ辞書の中に、それを説明できるのはこんな非現実的な言葉だけだった。
しかしその転生先は、生の火が今にも消えそうな、瀕死の肉体だ。
「……チビじゃねえか、俺たち」
「そうだな。どう見ても、ガキだ」
「転生ってやつか……こんな死にかけの体に?」
「まだ生きてる。死ぬよりゃマシだろ」
耳に届くのは、日本語でも英語でもない──けれど、不思議と意味は理解できた。
聞き慣れないはずのその言葉が、まるで昔から知っていた母語のように脳に染み込んでくる。
会話は成立する。言葉が通じる。
だが──状況は、最悪だ。
体は震えている。ボロ切れのようなシャツは肩が破け、足にはサイズの合わないサンダルの片方しかない。
どう見ても、スラムの捨て子だ。まるで「助ける価値もない」と言われているような。
このまま居ても在るのは『死』だけ。どうにかして、原因の寒さと飢えを凌ぐ必要があった。
「……寒いな」
「水も欲しい。あと……何か食えるもん」
そんな願いすら、叶いそうにない。
動けば痛みが走る。話せば喉が焼ける。
目を開けていても、何も変わらない。
あの頃と同じ、灰色の世界。
──そのはずだった。
ふと、風が吹いた。
その刹那、鼻先をかすめたのは……温かい、小麦とバターの香り。
「……パン、か……?」
かすれた声が漏れる。
誰からともなく、顔を上げた。
「……なあ、お前、あれ見えるか」
路地の隙間を指さす。
石畳の向こう、人が行き来する大通りを挟むように、屋台のパンが陽に照らされて蒸気を立てていた。
「見えるが……見るだけで腹が鳴る」
フードで顔は見えないが、苦笑いしていた。
その苦笑いの声もかすれていて、声を出すのも辛い状態なのだと理解できた。
「あれのゴミに、食い物がないか探してくる」
パンを作るのには最低でも小麦と水が必要だ。
水がごみ箱にあるかはともかく、例えカビが生えていようとも食べ物が出てくる可能性は低くない。
形の不器用なパンがでてくる可能性もあった。
「俺も行く」
かすれた声でそう言って、重そうに体を起こす。
立ち上がった足はフラフラで、いつ倒れてもおかしくはなかった。
俺も重い体を無理やり起こし、壁に手をつきながら歩きだす。
目的は、パン屋の裏手にあるゴミ箱。
人通りの多い大通りさえ抜ければ辿り着く――そう思っていた。
路地裏を抜けて明るい通りに足を踏み出して歩みを始めた時、ざわりと空気が揺れた。
視線が突き刺さる。
なんだ?
汚い恰好とは言え、ただの子供になぜこんなにも視線が集まるのか。
それも日本であり得た慈悲や同情のような優しい視線とは違う、無慈悲な敵意ばかり。
気にしている場合じゃないのに――それだけは、やけに胸に刺さった。
そして、沈黙を破る声が飛ぶ。
「……あれ、影持ちじゃねぇか」
「子供のくせに、不吉だ!」
「もう一人もどうせ仲間だ!」
怒声が飛んだ次の瞬間、俺たちの足元で石が弾けた。
乾いた音がやけに大きく響く。
見上げれば、商人も主婦も、皆が歪んだ顔でこちらを見ている。
理由はわからない。
言葉はわかるのに、言われた言葉の意味はわからなかった。
ただ、今の俺たちの手には到底負えない負の感情が向いていることは理解できた。
「――戻るぞ!」
だから反射的に踵を返した。石が背中に当たる前に。
相棒もそれを察していたのか、俺の声とほぼ同時に体の向きを変えていた。
互いに歩くだけでも辛い体に、鞭を入れて走る。
狭い路地へ飛び込み、泥の匂いにまみれた暗がりを駆け抜けた。
胸が焼けるように痛む。
「……くそ、これじゃなにもできねぇ」
足音を殺し、壁に背を押しつけて相棒と向かい合って愚痴をこぼす。
遠くでまだ罵声が響いていた。
――俺たちはただ、生きたかっただけなのに。
「わりぃ、俺もう無理だ」
ズボンの脚をまくりながら、相棒がそう言った。
まくられた脚には、酷い痣がいくつも走っていた。
今できた傷もあるのかもしれない。
しかし、それが霞むほどの酷い傷と痣もあった。
俺と会う前からできていたのか、歩み始めて気が付いたのか。
どちらにせよ、もう歩けないことだけは明らかだった。
言葉を失う。
何も、思いつかない。
返す言葉も、今後の行動も。
今いる路地に居続けても意味がない。
しかしまた表に出たらあの敵意が向くだけ。
理由もわからない以上、対処のしようもない。
八方塞がりだった。
「お前も、正直意識保つのもきついだろ」
優しい声だった気がする。
普段は能天気な馬鹿のくせに、こういう時だけはやけに鋭い。
「……ばれてたか」
苦笑いしかでてこない。
こいつの言う通りだ。
正直、この体で意識が芽生えた時からそうだった。
少しでも気を抜けば意識が抜けそうで。
でも、それが俺の、せっかくの新たな人生の終わりを意味しているのは直感できていて。
だから必死に保ってきたが、もう限界だ。
「転生してすぐに、また死ぬのかよ……」
「まぁ、地獄の前の別れの挨拶とでも考えようぜ」
「……それなら、もう済ませたつもりだったな」
ふっと緊張が抜ける。
そして、限界が襲ってきた。
どちらともなく、地面に崩れ落ちた。
石畳が冷たい。世界が遠ざかる。
──あぁ、また闇か。




