プロローグ
「……やっぱ来たか」
東京、湾岸の倉庫街。
そう呟きながら、静かな倉庫にカチリと火種の音が響く。
オレンジ色の火が指先に灯ったかと思えば、細く巻かれた煙草の先にそれは移り、じわりと赤く燃え上がる。
男は吐いた煙で空気をゆらせる。
肺の奥まで吸い込んで吐き出した煙が、吐息に混じって夜の冷たい空気に溶けるのを遠い目で見つめた。
静かな倉庫街とは不釣り合いな銃声が響く中で、これだけは変わらず彼の心を落ち着かせてくれた。
「ずっと俺たちを“処理”するタイミングを狙ってたってことかよ」
隣の男が薄笑いを浮かべる。
血まみれの拳銃を足元に落としながら、煙を吸い込む相棒の肩にもたれかかる。
俺たちは裏切られた。盃を交わした同志に。
組長だった親父が殺されたあの日から三ヶ月。組はほぼ解体状態、生き残ったのはこの二人だけだった。
拾われたとき、親父は言った。「腐った眼が気に入らねえ」って。
笑える話だ。
人に好かれるような眼じゃなかったし、自分でも鏡を見るたび吐き気がしてた。
どうしようもなく乾いて、どこを見ても何も映らなかった——そんな目を気に入った、なんて言うヤツは、後にも先にも親父だけだった。
あれから何年経った?
血の雨をくぐって、膝まで泥に浸かって、それでも俺たちは、生きてきた。
本当はただの捨て駒だったのかもしれない。
誰かの盾にされて、都合よく扱われるためのコマ。
そんな風に笑うヤツも、実際いた。わかってる。
でも、それでも——俺たちにとって、あの人は本物だった。
守られてた。育てられた。信じられた。
この腐った世界での、信じられる光だった。
「なあ、俺たち……なんでこんな世界で必死になってたんだろうな」
咥えた煙草が灰に変わっていくのを、隣で朧げに見つめながら男は問う。
「知らねえよ。だけど……親父が拾ってくれたからだろ」
「……だな」
傷だらけの体で、笑い合う二人。
背中にはそれぞれ刺青。片方は昇る龍。片方は咲き誇る牡丹。
義理と絆の象徴だったこいつらは、いまやただの標的である。
「……俺さ、夢があるんだ」
「夢?」
「明るい世界で生きること」
倉庫に流れる潮風は冷たく、明るい世界の話には似合わなかった。
それは、今は切り捨てた選択で、拾われる前の俺達には存在すらしなかった選択。
「捨て駒覚悟で選んだこの道に後悔はない。でも、明るい世界で、普通の人生を歩んでたらって思う時はあった」
それは後悔とは違う、たらればの夢の話。
俺たちが自ら選んだ選択は、気が付いた時には闇の世界でしか生きられないという枷として在った。
進めば戻れない道。分かって進んだはずだったが、それでも別の未来の自分を考える機会は少なくなかったようだ。
「生まれ変わったらよ、もう少し明るい世界で生きてみようぜ」
「……ああ」
ふと風が止み、大半が灰となった煙草を男は吐くように捨てる。
吸いきる頃には、口の中にあった血の苦みはニコチンの苦みへと変わっていた。
これでまだマシになった。
追手ももう近くまで来ている。そんな状況でなければ逃げ場のない海端の倉庫になんか隠れない。
「もう行くか」
「上等」
二人は立ち上がり、倉庫の屋上に向かった。
丁度屋上についた頃、下で裏切者の荒げた声が聞こえる。
追手は下まで来ていた。逃げ道はない。生き残る術もない。
だから、最期に彼らは選んだ——“自分たちで終わらせる”ことを。
「俺たちは、この世界じゃもう生きられねえ。でも……」
「生まれ変わったら、今度こそ誰かを守れる人間になりてぇな」
言葉を遮って、御伽噺のような妄想を語る。
確かに、誰かの為に動くのは嫌いじゃなかった。
自分が役に立てた実感と、こんな自分が人として受け入れられたように感じられたから。
それが自分の人生に光を灯した人間であれば尚更だった。
「腕一本でいい、足一本でもいい……今度は正義の力になりたい」
「なら来世は——二人で世界でも守ってみるか?」
「……笑えないぜ。一人の親父も守れなかった奴が世界を守るなんて」
銃を突きつけ合う二人。
「だからこそ、次は”守れる自分”でいたいんだろ」
「……確かに、それは否定できねえな。んじゃ、生まれ変わったらお互い頑張るか」
最後の話は終わった。
話したいことなんて、共に茨の道を歩んだ彼らの中には今更存在しなかった。
「せーの、で行くぞ」
「おう。じゃあな、くっそたれ」
「あばよ、馬鹿野郎——せーのっ」
——パン。
光が爆ぜた瞬間、重力が消えた。
そうして彼らの人生は幕を下ろした。