人道への敬意
近づいてみれば、赤檮望はその神々しさの中に、腐臭を纏わせていた。
「すまない、目が良くないんだ。少し、顔を触らせてくれないか」
形を視たいからと、彼は私にその大きな手をかざした。
――――咄嗟に、私はその手を振り払った。一瞬、かつての恐怖が頭を過ったのだ。大きく厚い実父の手が、私の顔に迫るそれと、重なった。
一人、身勝手にも、息が上がった。過去と今の違いは理解している。けれど、首から下は言うことを聞かない。
「大丈夫? 怖がらせたかな。ごめんね、お茶を淹れようか。アレルギーは無い? そうだ、深呼吸をしよう」
望の狼狽える姿は、小清水君を想起させた。立ち上がった彼を見れば、身長も近しいように思えた。ただ、目の前の彼の方が一回りは高身長で、百九十には達している。それに、肉は酷く薄く、手足も男らしくはあるものの細長く感じた。
「大丈夫。問題ない。アンタには関係のないことよ」
「そう、それなら良いのだけど……お茶くらいは淹れても良いかな」
「好きにすれば。アンタの家でしょ」
私の善意を押し戻す様に、彼は困ったように笑う。決して、不快になるような態度ではない。寧ろ、好青年という言葉が似合う。ただ、良くも悪くも、毒気が無さ過ぎて、対話をしているという歯応えが無かった。
「一応、ここは僕というか、豊の部屋なんだ。僕はちょっと借りてるだけ。前住んでた部屋は、何だか寝付けなくなってしまって」
望の巨躯に隠れていた日比野が、そういうこと、と高らかに言った。
「今は眠れているの」
「前よりは、時間は増えた気がする」
「その割には、隈は酷いようだけど」
そうかな、と再び彼は笑った。白い肌の、その薄い目元は、血管を透いて仄かに赤い。鮮紅色と暗褐色が二重になって、彼の儚さを際立たせる。その仄暗い美貌は、ハラヤのそれと同じだった。
「……触っても良いわよ」
自然に、口からそう漏れた。貧血の伺える爪先になら、多少は肉を千切られようとも"善い"と思ってしまった。
「うん、じゃあ、少しだけ」
戸惑いつつも、望は私の顎に親指を添える。それを起点に、少しずつ皮膚の上に、手指を這わせた。粘膜部を避け、私の顔の九割に触れた頃、ポツリと、彼が言った。
「匡香……義妹の、匡香ちゃん?」
名を唱える。けれど、私は彼に名前を教えていない。
「僕は言っていないよ」
一足早く私の目線を察した日比野が、素直に言った。では何故、と、私の口が開くより前に、望は私の肩を掴んだ。
「君、歳の近いお義姉さんはいないかい。ハラヤというんだ。そう何人もいる名前じゃない」
柔らかなまま、彼は焦燥感に酔っていた。
これも、伝えていないらしい。日比野は目を反らしていた。どうも彼の考えが分からなかった。ハラヤの私に対する苛立ちを、ほんの少し理解出来た気がする。何もせずに、その場を眺めながら、当事者に考えろ、察せと望む。我ながら、腹の立つことだ。
「すぐにでも会えるんじゃないかしら。今、向かってきているらしいから。まあ"義姉"ではないけれど」
何かを信じている彼に、私はそう予言する。彼とハラヤの関係を私は知らない。
「本当に? なら、お茶とお茶菓子を用意しないと。君も、豊も一緒に」
嬉しさを隠そうともせずに、彼は小躍りしていた。主人のそれに気付いてか、イドも私の膝から落ちて、彼の足元を回っていた。
「お義姉さんじゃないなら、従姉妹? それとも、本当は君の方が義姉?」
興奮気味の息がわかった。弱い視界を補うように、彼は再び私の顔に触れていた。
「家族なら、顔も、性格も良く知っているよね。どんな人? お化粧をした姿は見たことある? 好物は? 恋人はいる?」
立て続けに漏れ出る言葉。その姿に、既視感があった。彼の行動の一つ一つは、ストーカーのそれに類似していた。
「待って」
私は望の唇に指を置いた。キョトンと目を丸くする彼を前に、私は息を吸った。
「そういうことは本人から聞いて」
「あぁ、そうだね、そうするよ」
「わかってくれれば良いわ。まあ、アレが会話をしてくれるかは、微妙な所だけど」
客観的に、ハラヤは対人関係が最悪の部類に入る。話を聞いているかどうかも分からない態度。返答してくれたと思えば、上から否定的にものを言う。これで頭の悪い論理展開をしてくれるならまだ良いものを、ハラヤはその反対を行っていた。正論で、非の打ち所がない。故にこちらが惨めでしかない。そんな、澱みのない汚点があった。
その上、きっと望はハラヤの地雷を踏みぬくだろう。アレが感情を昂らせる程、珍しいことは無い。特に他人に対して声を荒げるなど、私は一度しか見たことが無い。まだ私達が家族になって間もない頃、兄がサイズが無かったと言ってハラヤに女性モノの服を買ってやった時。アレは小さな体を震わせて、何の躊躇いもなく、兄を罵倒し、その腕を蹴り上げて、綺麗に折って見せた。
「あの子が気難しいのはよくわかるよ。昔から、気に入らないことには苛立っている。けれどそれを表面に出すのが苦手だから、ずっとモヤモヤしているんだ、彼女は」
望は考え込みながらも、そう笑った。
「でも、きっと理解し合えると思うんだ。僕達、似ているから」
大丈夫だよと言って、部屋の隅にあったカウンター裏、キッチンと思われる場所に回った。食器同士がぶつかる音がして、その傍からは湯気が立ち始める。
「僕は紅茶が好きなんだ。ハラヤも昔はよく飲んでいた。お母さんと一緒に」
私の知らないハラヤの話を、彼は紡ぐ。それが妄想か、或いはまた別の何かはわからない。
「だからきっと、お茶会くらいは一緒に楽しめると思うんだよ」
望はそう言って、嬉しそうにテーブルをセットしていく。茶葉の軽い甘さが香った頃、彼はティーポットを置いた。それを皮切りに、カップやら小皿やらが並べられていく。
そうして、最後に添えられたのは、皮膚を丁寧に剝いだ、冷たい人間の脚だった。




