第一章 七話目「終わってしまったもの、始まりつつあるもの」
もう、目から流れる涙は昨日魔王城についてから、ずっと泣き続けていたせいで枯れきってしまった。
あの時メビウスは魔王を倒そうとしたが、メビウスの体とメビウスの大事な生命線、メビウスを魔王の前にまで導いた「勇者の力」を奪われて、五年前、メビウスの旅が始まったあの日に戻され、そしてあの日の、そしてそれからの出来事を書き換えられた。
あの日、何度も繰り返してようやく助けた妹を殺させられた。
ドレイクと初めて出会ったあの日を、メランコリーと初めて出会ったあの日を、ティナと初めて出会ったあの日を、みんなと笑い合ったあの日を、仲間と仲違いして口も聞かなかったあの時を、みんなと苦労して困難を乗り越えたあの日を、みんなと共に魔王を倒すと誓ったあの日を、みんなと強力な魔族を倒したあの日を。
そして、みんなと最後の決戦に向けて改めて魔王を倒そうと誓った一昨日の夜を。
あの時のみんなの顔はよく覚えてる。最後の戦いを前にしてみんながそれぞれの決意に満たされていた。
でも、それが正しいはずなのになんだかおかしくて全員が突然笑い出して。この三人となら、メビウスの魔王との決戦のやり直しがどれだけ酷い経過を辿ってもきっと乗り越えられると確信して。
今思えば、それはたった五年だけの出来事だ。人生の四分の一ぐらいの時間しか経っていない。
でも、メビウスは何度も何度でも同じ時間を繰り返した。もし、メビウスが「勇者の力」で世界をやり直しても巻き戻らない時計があるのなら、きっとその五年間は二十年以上の時を刻んだだろう。
そんなメビウスの過ごした時間が、何度も経験した死が、それらを全て犠牲にしてようやく手に入れたメビウスの望んだ結果が、救った命が。
それらは全て、たった一人の魔族の手によって水の泡となった。
一体、メビウスがやり直し続けた意味は何だったんだろうか? 何をどうやったとしてもこうなるのなら、あの日魔王を倒すと誓うのではなく、ずっと妹を失った悲しみの中に溺れてそのまま死んでしまえば良かった。
なら、きっと今感じている悲しみを感じることは絶対になかったのに。
ふと、メビウスの虚ろな目は何かに吸い込まれるように顔を上げて、魔王の部屋に飾られている花瓶に入っているシオンの花と、
短剣を見つけた。
大きさは果物を切る時に使うような包丁とほとんど変わらない。あの憎いヴァニタスが非常時のためか、それとも単に飾りたかったから置いただけなのかはわからないが、メビウスは座っていたベッドから立ち上がりその短剣を手に取った。
この包丁は短すぎて決して戦闘向きではない。しかし、今メビウスの首を切ったりして「殺す」には十分な長さだった。
「……」
メビウスはその短剣の刃の部分を、不思議な力に誘導されるように自らの心臓の上に当てた。もちろん、さすがに力を入れていないのに肌を傷付けはしなかったが。
試しに少しだけ力を入れてメビウスの肌を食い込み破った短剣を引き抜いてみる。すると、メビウスの血がその銀に輝く短剣を赤く染ていたのだが、不思議と痛みは感じない。
そして、メビウスは今までしようとしても無理だったこと、「自殺」が出来ると確信を持った。
今までは何度自殺をしても「勇者の力」が誘発して時間が巻き戻るだけだった。しかし、今この短剣を心臓に突き刺してしまえばもうメビウスはこれ以上辛い時間を過ごす必要はない。
別に五年間の壮絶な旅の終わりが、たとえ誰にも知られず何も結果を出さずに死ぬだけだとしても、もうそれよりマシな終わりはメビウスに待っていないのだから、もうメビウスに命を惜しく思う必要なんて無い。
でも、これ以上力を入れることはメビウスの生物としての生きようとする本能が躊躇っていた。
たとえ痛みを感じなくても、今メビウスがしている行為は確実にメビウスの命を奪うと頭も体も理解している。
自殺して全てを終わらせようとする気持ちと、生きたいという本能が葛藤してメビウスが持っている短剣が震える。
その葛藤はお互いの力に差がないせいで際限なく続いていた。が、
「ウアァァァァァ!」
メビウスがやけになって叫ぶと狂おしいほどの自殺願望が勝り、そのままの勢いでメビウスの体に致命傷になりうる傷を刻みつけた。
「……」
メビウスが静かにゆっくり短剣を引き抜くと、当然のことだが血が勢いよく溢れ出して、傷口を中心に服に赤い汚れがだんだん広がっていって――、
それは、ちょうどその時と同じ時間だった。
「失礼します魔王様……今入ってもよろしいでしょうか……?」
魔王の部屋と廊下を繋ぐたった一つの扉がノックされ、弱々しいフィルモアの声が向こうから聞こえた。
おそらく、なんらかの用事かこの時間に魔王の部屋でやらなくてはいけない何かがあってやって来たのだろう。
だが、今目の前に広がっている光景に精一杯のメビウスはその音には気づかない。だからフィルモアに返事が返ってくることは一生なかった。
もし、この時フィルモアがその返事がない理由を魔王が落ち込んでいるから返事をしないからと思ったのなら、フィルモアはこのまま部屋には入らずにまた別の機会に魔王のところに訪れようとしただろう。
しかし、レイン村に魔王が戻ろうとした時に体力が落ちて、本来なら倒せる敵でも倒せないことを考慮して魔王を転移させなかったフィルモアはそのことを不審に思い、
「魔王様?」
魔王様の身に何かが起きたのではないかと心配したフィルモアは扉を開けてそして、血のついた短剣を心臓の近くに向けていた魔王が倒れる光景を目の当たりにした。
「魔王様!」
フィルモアが慌てて駆けつけて魔王の容態を確認すると、魔王の鼓動はまだ動いているが意識はなく今すぐ止まってもおかしくはない状況だと理解した。
「どうしてこんなことに……」
見てみればどうやら心臓から少しずれた位置に短剣が刺さったらしい。
心臓を直撃していないことがせめてもの救いだと思いながらーーフィルモアは知るよしもないが、心臓の直撃を免れたのはメビウスが心臓を刺す際に手が震えたせいで場所がずれたからだったーーフィルモアは部屋から出て助けを呼ぶために走り出した。
「……どうして初代魔王様はこんな奥に部屋をお作りなったのでしょうか? 何か意図がございましたのでしょうが、正直なところこういった時に不便だと思われなかったのでしょうか……?」
魔王の部屋は、魔王城の最上階の一番奥にある部屋に向かう時の、最後の廊下の途中の分かれ道を通ったところにあるので、魔王の部屋に用事があったりよほど酷く道を間違えたりしなければ誰も通ることはない。
だから、急いで魔族のいる場所まで戻らないと魔王の傷が手遅れになる可能性は十分あった。
そして、残念ながらフィルモアは回復系の魔法が使えないし、魔王城の中にも使えるのは魔王城専属の治癒師と後は――、
「誰か、誰かいらっしゃいませんか! はやくしないと……!」
フィルモアの頭の中には今死にかけている魔王を助けることしか無い。フィルモアは誰もいない廊下を走りながら、フィルモアの声が廊下に消えていくことに焦りを感じる。
だから、走る速度を上げたというのもあってか曲がり角で別の魔族とぶつかってしまった。
「危な――!」
しかし、ぶつかってしまったがその反動でフィルモアとその相手が床に倒れることはなかった。なぜなら、相手の魔族の毛深い肌がまるでマシュマロのようにフィルモアを受け止めたからだ。
「大丈夫、フィルモアちゃン?」
ぶつかった相手がフィルモアの両肩を持って、もたれかかったままだったフィルモアを立ち上げた。
そしてかなり大きな灰色の毛と白色の毛を持つ獣の魔族がフィルモアの目を見る。
そんな魔族が魔族に住んでいた記憶はないが、フィルモアにはもうこの魔族が誰かはもうわかっていた。
「アンカウンタブル様! 大変です魔王様が……! いち早く魔王様に回復魔法を――」
「流石に何度も別の姿になってればもう直ぐにバレちゃウ、なんて冗談を言ってる場合じゃないということはわかっタ。わかった直ぐに行くヨ」
アンカウンタブルはフィルモアの態度からことの重要性を理解して、想像でしかないが遅そうなその体から速いことで有名な魔族の体に変えて魔王の部屋に向かい始めた。
これでひとまず安心かもしれないが、だが治癒師でないアンカウンタブルは回復魔法の中で強いものは使えない。
もし魔王の容態が急変してやり強力な魔法が必要になる場面に出くわした場合に備えて、フィルモアは魔王城にいる治癒師の中でも特に優秀な治癒師を数人呼んで魔王の部屋に戻った。
「アンカウンタブル様! 魔王様は――」
「大丈夫だよフィルモアちゃん、なんとか死なない程度には回復させといたから」
今度は魔族の中で一番回復魔法が上手いと有名な魔族に変身して魔王の治癒にあたっていたアンカウンタブルが、その姿からフィルモアとぶつかった時の姿に戻った。
「その……アンカウンタブル様。その姿は一体なんなんでしょうか……」
確かにたまにアンカウンタブルはあの緑のローブ姿から別の姿になる時がある。が、それは一日経ったり何かがあって別の姿になったりしたら必ず元のローブ姿に戻るのだ。だから、フィルモアにはアンカウンタブルがこの謎の魔族の姿にまたなったのがとても不思議だった。
「ん、これ? ぼくが子供のころに出会った魔族なんダ。一緒に空を飛んだり雨宿りをしたリ……まあ、この話はまた別の機会にネ。今は魔王様を」
「は、はい! 治癒師の皆様お願いします!」
フィルモアの指示で、治癒師の全員がそれぞれが出来る最高の回復魔法を魔王にかけ始める。
それを見て、ようやくフィルモアは安心して胸を撫で下ろすことが出来た。
そんなフィルモアに、アンカウンタブルは変身している影響で少し大きな足音を立ててフィルモアに近づいた。
「それにしても、この傷をつけたのって魔王様自身だよね。なんで自殺なんて……」
「……アンカウンタブル様、どうして魔王様が自殺されたと思われたのですか? もしかしたら魔王様は魔王城の監視の目をくぐり抜けた誰かによって襲われたかもしれませんのに……」
アンカウンタブルが変身している魔族の声なのかやけに低い声で呟いたその言葉に、フィルモアは魔族でありその中でも四天王であるアンカウンタブルを疑うなんて、と思いながらもそのことがとても不思議に思った。
フィルモアは落ち込んでいる魔王様のために、しばらくは魔王様を一人にさせようと魔王城に住む全ての魔族たちに提案して、みんながそれを受け入れている。
そんな中、一応魔王様に用事のある時だけは例外としてフィルモアは朝食を運んできて部屋にやってきたのだが、そこで目にしたのは魔王様が血を流して倒れている光景であり目撃者もフィルモア一人である。
それなのに、どうして魔王様が自殺を図ったなんて――、
「魔王様の部屋を見てみなヨ」
「魔王様の部屋ですか? ほとんどいつもと変わっておりませんが……」
変わっているのは魔王様の血で汚れた床だけで、それ以外は特に荒らされた様子もなくいつもの魔王様の部屋で――、
「荒らされた様子がないから、もし魔王様が襲われたとしたら戦った形跡があるはず……?」
「そう、ぼくはそれが正解だと思うよフィルモアちゃン」
アンカウンタブルの言葉でフィルモアは納得して、今度は魔王様がなぜ自殺なんかをする必要があったのかを考える。
「それはあの人間が関係しているのでは……」
「いや……それもあるとは思うんだけド……」
フィルモアの独り言だけで何を考えているのか理解したアンカウンタブルはフィルモアの方を見て、
「あの時魔王様の身に何があったかはわからないけど、たかが人間の田舎の村を襲撃だヨ? たかがそんなところの襲撃で心が壊れるどころか自殺なんてする決断をさせるなんて、おかしいにも程があル……フィルモアちゃんの魔王様を疑わない忠誠心もわかるけどネ」
アンカウンタブルは変身しても変わらないくせで手を動かしながら考え始めて、
「……ねえフィルモアちゃン、一つ頼まれてくれなイ?」
「はい……何、でしょうか?」
普段見慣れない獣の顔ではあるが、その顔に隠れてるアンカウンタブルの真剣さははフィルモアにでもわかった。
だからフィルモアは、アンカウンタブルが耳打ちした内容を一言一句逃さず聞き取って、
「では、その名前の魔族が昨日あの村に襲撃した魔族の中にいらっしゃるかどうか確認すればよろしいんですね?」
「うん、それにその三人の中で一人でもいイ。だからその名前を探して欲しいんダ」
「わかりました。それでは早速探して参ります」
そして宣言通りにフィルモアは廊下の奥に消えていき、アンカウンタブルはすることがなかったのでその背中を見送り、今度は魔王に回復魔法をかけている治癒師たちを見守っていた。
ある程度自身で回復魔法をかけていたものの、治癒師たちに任せた時点でまだ魔王の傷口はまだ目立っていた。
しかし回復魔法を専攻している治癒師たちの腕は、魔王城を任されているだけあってやはりその実力は素晴らしくあっという間に傷があったのかどうかもわからない。
その実力を羨ましいと思っていると、廊下の先から足音が聞こえてきた。
「おいアンカウンタ……ブル? 魔王様は無事なのか?」
「うん、治癒師のみんなのおかげでもう傷がどこかわからないくらい治ったヨ。でも……まだ意識はないみたいだけどネ」
「魔王様はしばらく安静にしていればきっと目を覚ましますワン」
「んー、ありがとありがト。メグミちゃんがそう言ってくれるなら安心だネ」
今駆けつけてきて、先にいるはずのアンカウンタブルに事情を聞こうとしてあの獣の姿に驚いてしまった魔族、アシュラはアンカウンタブルと魔王城の治癒師の中で、一番回復魔法の上手いメグミの会話を聞いて安心して荒れた息を整えた。
「フィルモアに教えてもらって来たが、本当に魔王様が自殺をしようとしたのか?」
「確かな証拠はないけど、魔王様が他の誰かに襲われたのではないのは確実だと思ウ。だって魔王様がこの魔王城の中の誰かに負けることなんてないでショ?」
「確かにそうかもしれないが……」
と、ここまで話したところで今度は別の、アシュラのものより小さな足音が聞こえてきた。
二人が黙ってその誰かがやって来るのを待つと、巨大な蛇を連れたイヴがアンカウンタブルを見てアシュラと同じように驚いたものの、もう一度、今度は何かを訴えるようにアンカウンタブルを見つめた。
「うん、イヴちゃン。魔王様は無事だヨ」
アンカウンタブルの声を聞いてイヴも他の二人の様に安心した態度を取り、そして走ってきて体力がきれたのかその場でペタと座り込んだ。すると、それをイヴの蛇が支えて嬉しそうにイヴの頬を舌で舐める。
その行為にイヴが感謝して蛇の頭を撫でている間、アンカウンタブルとアシュラの二人は一度中断したことについて話し始めた。
「でも、なぜ魔王様は自殺なんてする必要があったんだ? あの人間の村を攻めた時に何かあったのは知っているが、でもいくらなんでも自殺はやりすぎだ」
「それは珍しくぼくも君と同じ意見だネ。だからそれ関連で少しフィルモアちゃんに調べてもらってはいるんだけど――」
「ん、一体何を魔王様について調べることがあるんだ?」
アシュラには、仕える主人であり魔族の王である魔王を疑うことが今まで一度もなかったし、それは他の四天王だったり治癒師を始めとする他の魔族も同じで、だからアシュラはアンカウンタブルのその行為を不思議に思った。
「残念ながらぼくより弱い君には言う必要がないーーのは事実だけど、今ぼくが考えている可能性が当たりなら、魔族にとってそれは前例のない大混乱が巻き起こることを意味しているから、不必要に広めたくないんダ」
「おい、それはどういうことだアンカウンタブル! お前は何を言いたい!」
アンカウンタブルの意味深な発言にアシュラは一人の魔族として、一人の四天王として腰に刺していた剣を抜きアンカウンタブルに向ける。が、アンカウンタブルは慌てることなく、
「……そんなの僕には意味ないってわかってるよネ?」
「そんなこと知るか。俺は魔王様に仕える四天王としてお前を――」
「ダメ!」
一触即発の二人の間に立ち塞がったのは、なんとあのイヴだった。
ビクビクしてばかりのイヴが今回はアシュラの方を向いて何度も首を横に振るのを見て、さすがのアシュラも驚かざるを得ない。
「なあ、イヴ」
「ダメ……ダメ! ダメェ……!」
アシュラが何か声を掛けようするが、イヴが泣き出してしまったせいでアシュラは困惑してしまう。すると、
「――!」
アンカウンタブルがその毛で覆われた体でイヴを抱きしめ、イヴは突然抱きしめられた驚きで泣き止んだ。
「ごめんねイヴちゃン、今回はぼくが悪かっタ。だから泣かないデ」
すると、イヴは今度は安心のあまりまた泣き出してしまい、アンカウンタブルが慌ててイヴの背中をさする。
「泣かないでって言ったのにナァ」と言うアンカウンタブルに、イヴは小さな声で爪が少し痛いということを頑張って訴えた。
「はあ……もういい、頼むから魔王様を裏切るような真似はしないでくれよ」
「そんなこと……出来るわけないじゃないカ」
小さな女の子を慰める光景を見たアシュラは、すっかり毒気が抜けてその場から立ち去る。
そして、残されたアンカウンタブルがイヴを泣きやませようとするといつの間にかイヴが寝てしまい、小さなな寝息が廊下に消えていった。
そんな眠る彼女に蛇が近づいてくるのを見ながら、アンカウンタブルはイヴにも蛇にも聞こえないように呟いた。
「……魔王様、馬鹿なことはしてないですよネ?」