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波の向こうから来た人 玉依姫(たまよりひめ)

波の向こうから来た人


 玉依姫は、その朝、自分の胸の奥に小さな寂しさが広がっていることに気づいていた。


 理由は分かっていた。


 姉の豊玉姫が海の国へ帰ってから、ずいぶん月日が流れていたからだ。


 海辺に立つたびに思い出す。


 優しく笑う姉の顔。


 黒く艶やかな髪。


 貝殻を拾いながら話した他愛もない会話。


 潮風が吹くたびに、その記憶が胸の奥で揺れた。


 初夏の朝だった。


 浜辺には白い波が寄せては返し、潮の香りがあたり一面に広がっている。


 遠くでは海鳥が鳴き、空は雲ひとつない青色だった。


 玉依姫は薄い水色の衣をまとっていた。


 海を思わせる色だった。


 袖口には小さな真珠が縫い付けられ、陽の光を受けてきらきらと輝いている。


 彼女は素足で砂浜を歩いた。


 砂は朝露を含み、ひんやりとして気持ちよかった。


「お姉さまは元気かしら」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 すると後ろから声がした。


「今日も海へ来ていたのですね」


 振り返ると、若者が立っていた。


 鵜草葺不合命うがやふきあえずのみこと


 姉の忘れ形見だった。


 豊玉姫が残した大切な子であり、玉依姫が育ててきた少年である。


 今では背も高くなり、肩幅もしっかりしてきた。


 鹿革の帯を締めた白い衣姿がよく似合う。


 玉依姫は自然と笑顔になった。


「おはようございます」


「おはようございます、叔母上」


 その呼び方に、少しだけ胸が痛む。


 当たり前の呼び方だ。


 けれど最近は、それを聞くたびに妙な気持ちになる。


 なぜなのか、自分でも分からなかった。


 二人は並んで歩いた。


 波の音だけが静かに響いている。


「今日は朝餉に何を作るのですか」


 鵜草葺不合命が尋ねる。


 玉依姫は少し考えた。


「昨日獲れた鯛がありますから、塩焼きにしましょう。それから海藻のお吸い物と、栗を混ぜたご飯も」


「それは楽しみです」


 嬉しそうな笑顔を見ると、自分まで嬉しくなる。


 その感情に気づき、玉依姫は少し戸惑った。


 昔から可愛いと思っていた。


 大切だと思っていた。


 だが最近は何かが違う。


 胸の奥が落ち着かないのだ。


 家へ戻ると、さっそく支度が始まった。


 炭火で鯛を焼く。


 皮がぱちぱちと音を立てる。


 香ばしい匂いが立ち上り、空腹を刺激した。


 鍋の中では海藻が静かに揺れている。


 昆布の出汁の優しい香りが広がった。


 食卓に料理を並べる。


 木の器に盛られた栗飯。


 黄金色に焼けた鯛。


 青菜の和え物。


 梅を添えた漬物。


 どれも質素だが温かい食事だった。


「いただきます」


 二人は向かい合って座る。


 鵜草葺不合命は鯛を一口食べると目を輝かせた。


「美味しい」


「本当ですか?」


「叔母上の料理はいつも美味しいです」


 その言葉に胸が熱くなる。


 褒められたからではない。


 彼が喜んでくれたことが嬉しかったのだ。


 玉依姫は自分の箸を止めた。


 その瞬間、はっきり理解してしまった。


 私はこの人が好きなのだ。


 家族としてではない。


 一人の男として。


 気づいた瞬間、顔が熱くなった。


 だめだ。


 そんなことを思ってはいけない。


 自分は叔母なのだから。


 心の中で何度も言い聞かせる。


 しかし感情は言うことを聞いてくれなかった。


 それからの日々は苦しかった。


 彼が笑えば嬉しい。


 怪我をすれば心配になる。


 帰りが遅ければ不安になる。


 まるで心が彼に結びつけられているようだった。


 ある夕暮れ。


 玉依姫は海辺に一人座っていた。


 空は茜色に染まり、波頭が黄金色に輝いている。


 潮風が頬を撫でた。


「何を悩んでいるのですか」


 突然声がした。


 振り返ると鵜草葺不合命が立っていた。


 玉依姫の胸が跳ねる。


「どうしてここに」


「探していました」


 彼は隣へ腰を下ろした。


 しばらく沈黙が続く。


 波の音だけが聞こえる。


 やがて彼が言った。


「最近、私を避けていますね」


 図星だった。


 玉依姫は答えられない。


「嫌われたのかと思いました」


「違います!」


 思わず大きな声が出た。


 彼が驚く。


 玉依姫は唇を噛んだ。


 言ってはいけない。


 そう思うほど涙が出そうになる。


「嫌いなはずありません」


 震える声でそう言う。


「それならなぜ」


 夕陽が海を赤く染めている。


 玉依姫は目を閉じた。


 そして覚悟を決めた。


「好きだからです」


 言葉が零れた。


 もう止められなかった。


「あなたを見るたび嬉しくなります。帰りを待ってしまいます。笑ってくれるだけで幸せになります」


 涙が頬を伝う。


「こんな気持ちになってはいけないと思いました。でも無理だったのです」


 沈黙が落ちる。


 波の音だけが響く。


 玉依姫は俯いた。


 嫌われるだろう。


 軽蔑されるかもしれない。


 そう思った。


 すると温かい手がそっと重なった。


 驚いて顔を上げる。


 鵜草葺不合命が優しく微笑んでいた。


「私も同じです」


 玉依姫は息を呑んだ。


「え……」


「私もあなたを慕っています。ずっと前から」


 胸の奥で何かがほどけた。


 苦しさが涙となって溢れ出す。


 気づけば泣いていた。


 鵜草葺不合命は何も言わず、その涙を受け止めてくれた。


 海の向こうでは夕陽が沈もうとしている。


 空は紫色へ変わり始めていた。


 潮の香り。


 波の音。


 彼の温かな手。


 そのすべてが愛おしかった。


 玉依姫は静かに思った。


 姉を失ったあの日から続いていた寂しさは、今日ようやく終わるのかもしれない、と。


 寄せては返す波の音の中で、二人はしばらく並んで海を見つめ続けていた。



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