身の切り売りには限度がある
ノンフィクション等の作品は身の切り売りだと思う。自分の人生という材料を切り、見せる為加工が入る。
人生が材料なのだ。その点私は引きこもりでもある為材料が少ない。
(しかし脚色は否である)言葉という枠組みに入れる際の添削があると思う。
でもそれも限度がある。添削をし過ぎるとテセウスの船になる。
身を売るを考えると何度も何度切り売りすりと切る部位が無くなるのでは無いか?そうして切った部位をまた切り、それを繰り返しみじん切りみたいなチタタプにするのではなかろうか・・・
野球の名監督の著書のようだな・・・
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この1個前にあげたゲボのように気持ち悪いやつだが今頓服で落ち着いてる。
改めて見ると恥ずかしく、気持ちわっるい。
だが、残す価値のある物だと自画自賛出来てしまうものだ。なかなかいないだろう?狂った時を残す。それも昨今流行りの動画、生放送ではなく“文”でだなんて我ながら『よう書いたなーこいつ』ってnowで思います。
こうやって書いてて思いますが、私はタイトルに書いてある一つの題材で話すのは苦手だ。それよかこうやってほんまの会話見たく話題が飛んだり、変わる方が書きやすい。でもそれは“努力”してると言えるのだろうか・・・
そこが疑問である。よく言えば自分の得意を、やりやすさを見つけたと言えるが、逆に言うと挑戦してない、開拓しようとしてないと言える。
今、この言葉を書き胸に刺さった以上はそうなのだろう。
悲しい話だ。出来るだけ何もしないで生きたいが今の私の夢であり、願望だ。こうやってうんこみたいな文の寄せ集めを書くだけで生活できればほんまに楽だなーー
さてそんなことを言っとるがいつものように今日を抗おう




