第30話 母
退役騎士であるシスティーに任務が下るのは、現役騎士の力量を考えれば異例中の異例だったといえる。若くて強い騎士が多くいるのに、既に退役して運動不足になっているであろう元騎士に命令する利点がない。
だからシスティーも、報せを受けたときには悪い想像ばかり巡らせた。極秘事項ということで、書面には残したくないからと王城にくるよう伝えられただけだったため、任務内容はまったくの不明だったから、よほど誰もやりたがらない仕事なのだろうと思った。あまりにも危険で、生きて帰ってこられる保障がないとか、敵に捕まったら拷問の嵐だとか、そんなところを想像した。
(まあ、せめて髭を剃って、制服は着ておくか)
退役してから外見には無頓着だった。騎士として清廉さも求められないし、堕落した生活を送っていても咎める上司もいない。後ろ指さしてくる後輩もいないとなれば、昼夜逆転の生活に墜ちるのはなかなか早いものだった。
濁った鏡を拭き、伸びた髭と髪をまじまじと見つめる。うん。ひどい。
自分が太りにくい体質でよかったと思った。太鼓っ腹になっていないのが救いだ。もしも見る影もないほどに太っていたら、かつての後輩達に恥ずかしくて会えもしない。
いや、退役になった理由を考えれば、今でも会いたくはないのだが。
髭を剃って髪を整える。なんだか、すーすーする気がして落ち着かない。とにかく久しく着ていなかった騎士隊服に袖を通して王城に向かった。
挨拶をしてくれるのは、やはり後輩達ばかりだった。
自分が現役だった頃に入隊してきた新人ピチピチボーイがなかなかの中堅どころにいて、威厳みたいなものを醸し出しているのが時の流れを感じさせる。けれど、そういった元新人達が敬礼をしてくれると、自分も自然とあの頃に戻って返礼していた。
案内されたのは、謁見の間だった。
入ると、既に玉座に王が座っている。
(王をお待たせするとは)
慌てて玉座の前で跪くと、待ってましたとばかりに、命令を言い渡された。
セリンを守ること。
(セリン……? セリンって、誰だ? そんな有識者がいただろうか)
顔を伏せながら、思考はセリンについて考えていると、控えていた大臣が補足してくれた。
セリンは、リジンという死刑囚の母親らしかった。
リジンというのは、とある公爵家に仕えていた若いメイドで、ひょんなことから死刑を宣告された。ところが処刑寸前で処刑人に見初められ、処刑人に嫁いだことから刑を免れた。今は処刑人の屋敷で暮らしている。
つまり、セリンは処刑人の姻族に当たる。
処刑人一家と姻族は、その生命と地位を強く守られる立場にある。
だからセリンを生涯、守り抜けと、要はそういう命令だった。
そんな大事件が起きていたのか。まったく知らなかった。
いや、それよりも──
なぜ俺なのだ。
騎士を辞めて、もう10年になる。
退職金でほそぼそと暮らす中年の男に下すには、やや荷が重過ぎる任務だ。
しかもリジンが処刑人の妻になったことは、一部の大臣と処刑人の護衛達、そしてリジンが仕えていた公爵ひとりしか知らないというのだから極秘どころの話ではない。
双肩にプレッシャーが圧し掛かる。
自分が、そんな任務を完遂できるとは思えなかった。どうして退役したのかを王は知っているはずなのに、なぜ自分を選んだのだ。
常に護衛をするという役どころからして、現役の騎士では難しいのはわかる。騎士というのは他にも業務がたくさんあるし、家族がいるものもある。四六時中、護衛をするというのは無理な話なのだ。システィーはあいにく、独身だ。
だが、ならば交替制にすればいいものを。
そこまで考えて、自分の考えが間違っていることに気が付いた。
セリンは姻族と知られていないのだ。
傍から見れば一般人なのに、現役の騎士がこぞって護衛をするとなると悪目立ちする。逆に狙われる理由を作ってしまうから、隠密に動ける護衛が欲しいのだ。もう、騎士とは関わりがないと一目瞭然で、なおかつ腕の立つ、家族のいないものが。だから自分が選ばれた。
それでも、正直、システィーは気が進まなかった。
自分の力の衰えは自覚しているし、なにより騎士という地位を失っている自分が、なんで働かなくてはならないのだという不満もある。
現役のころはそれこそ誰もやりたがらない任務を押し付けてきて、仕事が出来なくなると守ってくれもせずにポイ捨てにしたくせに、なんで俺が。
それに、俺は──。
◇◆◇◆◇◆
「あら、今日から働いてくれる人ね? 話は聞いてるわ。ここのダイヤといいます。よろしくね。セリンさんが色々と教えてくれるから、奥に行ってくれる? 男手があると、とても助かるわ」
仕方なくくぐったのは、服の修繕をする店だった。持ち込まれた衣服の修繕をし、代金を貰う。セリンはいわゆるお針子なのだ。
護衛のみならず、職場にまで潜入させて実際に働かせるのかと辟易したが、退職金没収をちらつかせられたら従う以外にない。汚い奴らだ。
(やれやれ、元軍人の俺が針仕事とは)
やるせなさを覚えながら奥に向かうと、背の高い椅子に腰掛ける背中があった。長い茶の髪を緩くひとまとめにした背中は華奢で、痩せぎすで、どこか儚さが漂う。
振り返ったセリンを見て、ああ、だから俺が選ばれたのかと納得した。
彼女の顔の左半分は痣だった。
青い蛇が瞼や頬、額の上で畝りながら休んでいるみたいに見える痣の濃淡。初対面の人は少なからず驚いてしまうほどの濃い痣だった。
これは生まれつきなのだろうとすぐにわかる。
きっと、苦労をしたのだろうな、とも。
セリンは優しげな笑顔を浮かべていた。
脇に立て掛けておいた杖を使って、ゆっくりと立ち上がる。
「システィーさんですね? お待ちしていました。セリンといいます。どうぞ、よろしくお願いします」
その笑顔に痣などは、なんら影響はないようだった。目尻に皺を作り、にっこりと微笑む彼女からは娘を処刑人に奪われたとは微塵も感じさせない穏やかさが溢れている。
もっと精神的に取り乱している女を想定していただけに、システィーは拍子抜けした。
とりあえず促されたとおり、セリンの隣の椅子に腰掛けた。
セリンは大まかな仕事内容を説明してくれた。
穴のあいた服、ほつれ、破れの修繕だけでなく、丈を長くしたり、短くしたり、肩幅、袖の長さを調整することも多い依頼なのだとか。そういった調整はなかなか難しいので、まずは破れの修繕から覚えていきましょうと、つまりはそういうことらしい。
のんびりとした口調は、騎士達の朗々快活なものと掛け離れていて調子が狂う。むず痒くて、首の後ろのほうをぽりぽりと掻いた。
それでもやっぱり痒いのは収まらない。
針と糸という、システィーが相棒としていた剣と盾に比べると、おそろしく小さな世界を相手にする。繊細すぎる。糸など、ほんの少し力を加えればぐにゃりだ。だから、針に糸を通すだけで一苦労だった。
何度も何度も格闘して、流れがわかり始めたところで、セリンが世間話を始めた。
「元騎士様でいらっしゃるそうですね」
「ええ。ご覧のとおり、怪我で戦うことができなくなり引退しました」
「火傷は、やはり戦う中で?」
「ええ、まあ」
しどろもどろになってしまったのは、セリンが意外にも気に留めることなくシスティーの怪我について訊ねてくるからだ。
システィーは顔に火傷をしている。
右半分は焼け爛れてしまって、右目の視力もほとんどない。眼帯をしていなければ、見た者に悲鳴をあげられるほどの顔をしているのだ。
さらに火傷は広範囲に渡り、体温を上げてしまうような継続的な運動は控えろと医者に言われてしまったのだ。
だから騎士でいられなくなった。
長時間、運動のできない騎士など、騎士ではない。
その事実を伝えられて以降、システィーと話そうとする人は、多くが傷について話題にもしない。触れてはいけない禁句なのだと信じて疑わないのだ。
けれどセリンはあっさり懐に飛び込んできて、訊ねてきた。初めての反応に、逆にシスティーが戸惑ってしまったのだ。
「国のために戦って下さり、ありがとうございました。どうか、気を悪くしないでください。私もこんな顔ですから、影で様々な言われようだったんです。だから、こそこそ言われるよりかは最初から『どうしたの?』聞いてくれればいいのに、って思うことも多くて。
そしたら、生まれつきなんですよ、感染するような病気じゃないですよ、痛くもないし、痒くもないですし、なにより治らないんですよ、だから気にしないでちょうだいねって、言えるのになあって思っていまして」
「はあ……」
「だって、仕方がないでしょう? 治らないんですもの」
うふふ、と笑うセリンは強い人だった。痣で苦労した過去を乗り越えてのこの明るさに、システィーは胸を打たれる。
自分はなにを打ちひしがれていたのだろう。
かつて、"処刑人の右腕"として働かされていた現役時代はその任務と待遇と、仲間内からの嫌がらせに不貞腐れて、誰とも良好な関係を築けず、いつも孤立していた。
なんで俺が処刑人なんかを。
なんで。
家族がいないからって。
強いからって。
なんでこんな悪党を?
そう思っていたのを、悟られていたのだろう。慣れが生じていたのかもしれない。疎かになっていた護衛の隙を突かれて、仲間に火だるまにされた。その間に、前代の処刑人夫婦は襲われ、死んだ。
燃え盛る自分の皮膚と髪の匂いを感じることもできなかった。猛烈な痛みで、のたうち回っていた。ただ、体が動いた。
護らなければ。
あの家にはまだ兄弟がいる。そのふたりは、せめて護ってやらないと。ここで負けたら、自分はなんのために騎士になったのだ。
そうして目を覚ましたときには、病室だった。
あとから聞いた話では、システィーはなんとか襲撃を撃破したらしかったが、なにも覚えてはいなかった。ただひたすら、体が痛くて堪らなかった。
──自分に土をかけて火を消したのは、いい判断だった
上司にそう言われたが、まったく身に覚えがない。その頃には自分が襲撃者の心臓を貫いた瞬間だけを思い出していたが、そのあとは力尽きて倒れてしまったはずだった。
兄弟だろうか。
彼らが、自分を助けてくれたのだろうか。いや、まさかな。自分は怠惰な護衛で両親を亡きものにした罪人だ。そんなことをしてくれるはずがない。
そう思って10年。
なんと奇異な運命なのか。
自分のせいで処刑人になった息子。
その男と結婚した娘の、実の母親の護衛だなんて。
なんて酷なことを、させるのか。
「セリンさんは、ご家族は?」
意地悪心が働いて、訊ねてみた。
本当は全部の事情を知っているのに、確かめたくなったのだ。嘘をつくならその程度の人間。どうせ、あんたもそういう奴なんだろうと、確かめたくなったのだ。
自分ばかりが汚い人間だとは思いたくなかった。
セリンは修繕のアドバイスをしてくれたあとで、ぽつりと呟いた。
「夫は早くに亡くなりまして、今は娘がひとり……いえ、娘夫婦といったほうがいいのかしら」
結婚したという認識はあるのか。姻族としての給金は来月からだから、まだ出ていないはず。それでも母はなにかを感じる力があるのかもしれない。
「その口ぶりでは、あまりお会いできていない?」
「ええ。嫁いだあの日が、多分、最後でした」
もう二度と、会えないとわかっているのか。
その割に、どうしてそんなに穏やかに笑えるのだ。
「いいんですか、それで。心配にはならないですか。だって──」
相手は処刑人ですよ、と喉まで出掛けて、なんとか押し込めた。
「──だって、不安じゃないですか」
言い換えてみたものの、不自然な会話になってしまった。
けれどセリンは意に介さず、天井に隠されて見えないはずの空を見上げるようにして天を仰いだ。
その横顔の美しさといったら。
その瞳にどんな記憶が写っているのか。とにかく、彼女にとっては輝いている思い出が見えているらしい。
「多分、大丈夫だと思います。旦那様のほうはチラッと見ただけですけど」
「……けど?」
「優しい目をしていました。大丈夫だから、自分が一緒にいるからと訴えかけてくるような力強くて、優しい瞳でした。それにリジンを馬から落とさぬよう、懸命に支えてくれていました。力を込めすぎてリジンを傷付けないように、けれども落馬させないように、悪戦苦闘しながら」
そのときの処刑人の試行錯誤を思い出したのだろう。また、うふふ、と笑った。
「優しくない人は、あんなふうにできません。だから、多分、私の娘は大丈夫です。そう思うんです」
「でも、相手は嫌な仕事をしているかもしれませんよ」
言い過ぎたと思った。
これではまるで、自分が裏事情を知っているように思われてしまう。リジンが誰に嫁いだのかを知っているのではないかと不審に思われたら、護衛がしづらくなる。それはいけない。
けれどセリンは疑わなかった。元から、あまり人を疑う人間ではないのかもしれない。純粋で、博愛主義者。
「そうですね。嫌な仕事をしているかもしれません。でも、完璧な人はいませんもの。それに、嫌な仕事をしているからといって、嫌な人とは限りません。ましてや、その嫌な仕事を誰かがしなくてはいけないのなら、どうしようもありませんもの。だから、仕方がないでしょう? うふふ」
口元を抑えて笑うセリンは、どこかあどけなくて、少女のようにも見えた。
「……そうですね、仕方がないですよね」
なぜ、自分はそう思えなかったのだろう。騎士を引退しなければならない自分の境遇を恨みっぱなしで、前を向こうとしていなかった。
処刑人も人なのだとは、思いもしなかった。
彼らにも感情があるのだとは、考えもしなかった。
人の首を喜んで切り落とすだけの、愉快犯だと信じ込んでいた。犯罪者。悪人。ならず者。
けれど、その実、彼らは法に従っているだけで、死が妥当だと判断しているのは司法だ。処刑人達は刑を執行しているだけで、刑を決めているのは処刑人ではない。執行人がいなければ、法の秩序は崩壊する。
逆をいえば、処刑人達こそ法の崇高な遵守者ではないか。
こんなことにも気付かずに護衛していたなんて。
システィーは項垂れた。
自分が恥ずかしくて、情けなくて、不甲斐ない。
「どうかされました?」
「……いえ、なんでもありません。ただ、今度こそ任務を成し遂げないと、と思いまして」
言うと、セリンは心からおかしそうに笑った。きっと針仕事のことを言っていると勘違いしたのだ。
「うふふ、じゃあ、しっかりと教えてさしあげないといけませんね」
「よろしくお願いします」
生涯、セリンを守り抜く。
最後に与えられた任務が、これで本当によかった。
システィーはセリンの笑顔に目を細めて微笑み返した。
「痛っ」
「あ、針で指を刺してしまったんですね。でも大丈夫。そんなの唾つけときゃ治りますから。うふふ」
「そこは豪快なんですね……」




