第四章:因果の果て
馬車が次の目的地である活気に満ちた交易都市へと到着した頃には、陽はすでに中天を過ぎていた。宿屋の一室を確保し、ようやく一息ついた一行の空気は、どこか張り詰めたままであった。
「それでは、私は少し教会へ顔を出してまいりますわ。新しい街での『ご挨拶』ですもの」
エレナはいつも通りの完璧な聖女の微笑みを浮かべ、薄手のドレスの裾を揺らしながら部屋を出て行った。その瞳の奥にある、新たな権力を欲するぎらついた光を、レンは見逃さなかった。
「あ、じゃあ私も街の市場を見てくる。新しいトラップの材料とか、物色したいしね」
ニナもまた、レンの頬に軽いキスを落とすと、弾むような足取りで部屋を後にした。残されたのは、部屋の隅で頑なに心を閉ざしたまま佇むミュシャと、ベッドに寝そべるレンの二人だけだった。
ミュシャが、静かに自分の杖を手に取り、部屋を出ようと扉へ足を向ける。その背中に、レンの低く、傲慢な声が突き刺さった。
「待てよ、ミュシャ。お前はどこへ行くつもりだ?」
ミュシャの身体が、びくりと強張る。
レンは立ち上がり、音もなく彼女の背後に忍び寄ると、その細い肩を容赦なく掴んでベッドへと押し倒した。
「嫌そうな顔をするな。お前が生き残るために俺の力が必要なんだろう? だったら、その分の支払いはして貰わなきゃな」
「……っ」
ミュシャの口から、拒絶の言葉は出なかった。ただ、深く、深い諦めの混じった瞳がレンを睨みつける。
レンは容赦なく彼女の衣服を剥ぎ取り、その白い肌を貪り始めた。
部屋の中に、押し殺した、悲痛な喘ぎ声が響き渡る。それは彼女の快楽の証などではなく、己の無力さと、清廉な英雄を嵌めた罪悪感に押し潰されそうな悲鳴だった。
レンはその痛々しい抵抗の声を、極上の優越感と共に脳内で処理していく。行為は、窓の外の陽が赤く傾き始めるまで、執拗に、淡々と続けられた。
やがてすべてが終わり、満足したレンは、心地よい疲労感と共に深い眠りへと落ちていった。
静寂が戻った部屋で、ミュシャはゆっくりと、擦り切れた身体を起こした。
その瞳から、先ほどまでの諦めの色は消え失せていた。あるのは、ただ一つの歪んだ確信。
彼女は震える手で自分のカバンを探り、その奥底から、鈍く光る一本の短刀を引っ張り出した。刃を握る手が、恐怖と決意で激しく震える。
ベッドで無防備に寝息を立てるレンの胸元へ、ミュシャは音もなく近づいた。
(……これで、終わりにする)
彼女はありったけの力を込め、短刀をレンの胸へと突き立てた。
「――あ?」
肉を切り裂く鈍い感触。
レンは唐突な激痛に目を覚まし、信じられないものを見る目でミュシャを見上げた。
「ごふっ……!」
喉の奥から大量の鮮血が溢れ出し、レンの視界が急速に赤く染まっていく。
その時、タイミングを計ったかのように、部屋の扉が開いた。用事を済ませたエレナとニナが戻ってきたのだ。
「レン! どうしたの!?」
血の海と化したベッドを見て、ニナが悲鳴を上げて駆け寄る。彼女は取り乱した様子でレンの身体を支え、その血を止めようと必死に手を当てた。そして、血塗られた短刀を握りしめ、呆然と立ち尽くしている少女へ、鋭い視線を向ける。
「ミュシャ……! 貴方がやったの!?」
しかし、ニナの隣を歩いていたエレナは、全く動じる様子がなかった。それどころか、その顔には、これまでレンに見せたこともないような、心からの、慈愛に満ちた美しい微笑みが浮かんでいた。
エレナはゆっくりとミュシャに近づき、その小さな頭を優しく撫でた。
「ミュシャ……やっと出来たんですね。おめでとう」
「……え?」
呆然としてエレナを見上げるミュシャ。短刀が手から滑り落ち、床に高い音を立てた。
ベッドの上で、レンは口から血を泡立たせながら、必死にエレナへと手を伸ばす。
「エレナ……っ、俺を、直せ……! スキルを、使え……!」
レンを支えるニナも、必死な形相でエレナを振り返った。
「そうよ! エレナさん、早く回復を! このままだとレンが死んじゃう!」
だが、エレナはレンの哀れな姿を見下ろし、冷酷に、しかしどこまでも愉しげに微笑んだ。
「嫌ですわ。か弱いミュシャが、初めて自分の意思でやった最高のお仕事なんですもの。それを邪魔するなんて、お姉様として無粋というものですわ」
エレナの口から、ケラケラとした高い笑い声が部屋に響き渡る。
「てめぇ……」
レンの瞳に、初めて恐怖の混じった憎悪が宿る。
「そんな……エレナさん、どうして……!」
ニナは絶望に目を見開いた。
「そんな怖い顔しないで下さいな、レン。貴方の【美人局】のスキルは確かに便利でしたわ。でも、お互いの弱みを握り合うだけの関係なんて、いつか誰かが裏切るに決まっていますでしょう?」
エレナの言葉を聞いたニナは、ハッと息を呑んだ。
そして、ニナはレンを支えていた手を、そっと、躊躇いなく離した。レンの身体がベッドにどさりと倒れ込む。
ニナは立ち上がり、エレナの元へと歩み寄った。
「……どうしても、だめなの?」
「ええ」
エレナは即答した。
ニナは小さく溜息をつき、首を振った。
「そっか。じゃあ、しょうがないね」
「ニナ……?」
レンの掠れた声が、信じられないというように響く。
ニナは振り返り、床に転がるレンを一瞥すると、いつも通りに、しかし完全に温度の消えた声で微笑んだ。
「バイバイ、レン。楽しかったよ。貴方の用意してくれた舞台、結構お気に入りだったんだけどね」
「てめぇら……っ!」
レンの喉から出たのは、血を混ぜた呪詛の声だけだった。
エレナは、精神的な限界を迎えて崩れ落ちそうなミュシャの肩を優しく抱き寄せ、その身体を支えた。ニナもまた、ミュシャの反対側の手を引き、優しく背中をさする。
「さあ、行きましょう。新しい街、新しい旅の始まりですわ」
三人の女たちは、ベッドの上で悶絶するレンに二度と視線を向けることなく、静かに部屋を後にした。パタン、と扉が閉まる。
薄暗い部屋に残されたのは、ドス黒い血の海と、自分が信じていた「イージーモードの楽園」が、最初から脆く崩れ去る砂上の楼閣に過ぎなかったことを知った、一人の男の断末魔の静寂だけだった。
「……」
誰もいない空間に、レンの最後の呼吸が、虚しく溶けて消えていった。




