表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
47/51

第四十六回 愛の罠

浄岸院(水戸徳川家。それは、徳川御三家の一つであり、徳川家康公の時代から水戸藩を治めてきた家柄にございました。その八代藩主・徳川とくがわ斉脩なりのぶに嫁いだのが、家斉様の娘・峰姫みねひめにございました。そして、斉脩様が亡くなる数年程前からお世継ぎを巡っての対立が起こります。)

会沢正志斎「お二人の間にお子がおられず、他のご兄弟も他藩に出ておられる今、弟である敬三郎様が後を継がれるのが筋というもの。」

浄岸院(そしてその第一候補に上がったのが、敬三郎様、後の斉昭様にございます。)

藤田東湖「話によれば、敬三郎様の御長女を養女に迎え、清水家の恒之丞様を婿養子にしようとお考えとか。」

浄岸院(その一方で、そのような噂も流れていたのです。)

峰姫「わたくしもまだ子を産めぬと決まったわけではない。斉脩様のお世継ぎは、斉脩様ご自身でお決めになること。唐橋、その者らをちゃんと見張るのじゃ。」

唐橋「承知致しました。」

浄岸院(しかし間もなく、思いもよらぬ出来事が起ころうとしておりました。それは、大奥に入る茂姫にも影響を及ぼすことになるのでございます。)



第四十六回 愛の罠


一八二九(文政一二)年一一月。

浄岸院(文政一二年、秋。水戸藩藩主・徳川斉脩様がこの世を去られておりました。)

仏壇の前で、拝んでいる峰姫がいた。すると唐橋が来て、

「姫様、会沢様が。」

と言うと、峰姫はゆっくりと立ち上がって部屋を出て行った。その様子を、唐橋も振り返って見つめていたのだった。

その後、峰姫の前にいたのは、水戸藩士・会沢正志斎であった。会沢が、

「お殿様の遺書には、継嗣は弟の敬三郎様と仰せにございます。」

と言うので、峰姫はこう言った。

「わたくしは、あくまで斉脩様のお心に従うまで。斉脩様がそう仰せなのだとしたら、わたくしはそれを信じ、敬三郎様を指示しようと思う。」

それを聞くと会沢は、

「ははぁっ。」

と言い、頭を下げた。峰姫は、それを冷視しているような目で見つめていた。

浄岸院(そして間もなく、水戸藩の藩主の座に敬三郎様がお就きになり、名を斉昭様と改められました。)

水戸家では、徳川斉昭とくがわなりあきが藩主となる儀式が執り行われていた。

それを、江戸城にいる茂姫も聞いていた。

「そうですか・・・、峰の夫が。」

家斉から聞いた茂姫は、そう言った。その横には、登勢もいた。家斉は続けて、

「世継ぎを決めぬまま身まかったからの。その遺言が守られたらしい。」

と言うと、登勢はこう言った。

「わたくしは・・・、あの子の気持ちだけが案じられてなりません。若くして夫を亡くし、きっと今も、心を病んでおりましょう。」

それを聞いた茂姫はそれを見て、

「やはり大切な方を亡くすというのは、悲しくて辛い。時には、自分を責めてしまう。そのようなものなのかもしれぬ。」

そう言うと登勢も、

「はい・・・。」

と、答えていた。それを、家斉も見つめていたのだった。

浄岸院(しかし、それから二年数ヶ月余り後・・・。)

唐橋はある夜、水戸家の廊下を一人、照らしながら歩いていた。そしてある部屋の前まで来て立ち止まり、その場に座ると襖を開けて中に入っていった。入ると唐橋は、

「お呼びにございましょうか。」

と言った。中で待っていたのは何と、斉昭であった。斉昭は、唐橋を見つめていた。

数日過ぎた頃、誰かが廊下を激しく走っていた。茂姫の部屋に、花園が駆け込んできた。花園は文を差し出し、

「御台様、これを・・・。」

と言った。茂姫は、その文を手に取ると、読み始めた。そこには、『不貞』、『疑惑』などの言葉が連なっていた。それを読んで茂姫は、

「唐橋が・・・、不貞?」

と、呟いた。それを聞き、周りにいたひさや女中達は目を丸くした。花園は、

「お二人は以前より密通しており、懐妊してしまったとのことにございます。」

そう言うので茂姫は、

「密通じゃと!?」

と聞くと、花園は続けた。

「不可解に思った家臣が部屋を覗き見たところ、そのことが発覚したと。懐妊も、その家臣達の調べだということにございます。」

それを聞いた茂姫は、

「何ということじゃ・・・。」

と言っていた。

その後、家慶に相談に行った。茂姫は、

「唐橋に限って、そのようなことは・・・。」

と言っていると家慶が、

「何かの、間違いでは?」

そう聞くと、茂姫はこう言った。

「わたくしとて、信じとうはございません。されど、もしそれがまことなのだとしたら、峰のことが案じられてなりませぬ。」

家慶は黙ってそれを聞いていると茂姫は続けて、

「あなたの妹は、相当な決意を固めて嫁に行ったのです。それ故わたくしは、唐橋を信頼して、あの者を峰のお供として屋敷へ上がらせたのです。そのため、此度のことは、わたくしにも責任があります。」

と言った。すると家慶は、こう言った。

「母上が信じてやったのなら、此度もそのものを信じてやるべきでないですか?」

「此度も、信じて・・・?」

茂姫はそう聞くと家慶は、

「わたくしの知っている母上は、いつも一途に、誰かのことを思っておられます。それが、支えとなった者がわたくしを含め、この城にどれ程おりましょうか。いつも誰かのために尽くし、報われると信じて、頑張っておられる母上を、わたくしはずっと見てきました。それ故、今のようなお言葉は、母上には相応しくない気が致します。」

そう言うのだった。それを聞いた茂姫は微笑し、

「あなたも・・・、そうやっていつもわたくしを励まして下さいますね。」

と言うので家慶も苦笑いし、

「そのような。わたくしはただ、己の思うままに申しました。」

そう言うと茂姫は、

「感謝致します。」

と言い、礼をした。家慶も、微笑してそれを見つめていたのであった。

その頃、松山藩・中屋敷では斉宣が来ていた。斉宣は、定信の仏壇に手を合わせていた。それを、後ろから定永も見ていた。斉宣は座ったまま振り返ると、定永が言った。

「まさかこのようなところまで来て下さるとは、父も喜んでおりましょう。」

すると斉宣は、

「定永殿は、これからどちらに?」

と聞くと定永は、

「これから、一度国元に帰ろうと思います。例の火事で、住む所を失った者が多く出ました。早く帰らねば、また多くの命を犠牲にすることになります。」

そう言った。それを聞いた斉宣は、

「そうですか・・・。」

と、呟いた。すると定永は、こう言い出した。

「父は、死ぬ前にこう言っておりました。」

『わたくしに出来る事は、全てやった。』

そして定永は、

「今思い返せば、後は任せると言いたかったのかもしれません。父上は、誇り高きお方でした。そう言わなかったのも、それ故かもしれません。」

と言うので斉宣は、

「はい。」

とだけ言った。定永は、

「江戸に帰ったら、お父上様に宜しく伝えておいて下さい。父上は、己の誇りを汚すことなく、この世を去ったと。」

そう言うので斉宣も微笑み、

「はい。」

と、元気よく返事をした。それを聞いた定永も嬉しそうに笑うので、二人は暫くの間、笑い合っていたのだった。

戻ってある日の夜。茂姫は、家斉に相談していた。白髪のまた多くなった家斉が、

「峰を大奥に戻すじゃと?」

そう聞くと、茂姫は言った。

「上様は、前に仰せでした。わたくしに、できることをせよと。そして、思うたのです。何かできる事を、知っているのであれば・・・、やらぬ手はないと。」

すると家斉は、

「峰を、大奥にのぉ・・・。」

と言い、酒を飲んでいた。すると茂姫は、

「あの・・・。峰は、例の件を知っているのでしょうか?」

そう聞くと、家斉は答えた。

「あの文は、峰がそなたに出せと命じたものらしい。」

それを聞くと茂姫は、こう言った。

「では尚更、わたくしはあの子が可哀想にございます。一番信じてきた者が、罪を犯してしまったのですから。わたくしと同じようなことを、峰には感じて欲しくないのです。」

それを聞いた家斉は、

「定信と、大崎のことか・・・。」

と言った。茂姫は続けて、

「それだけではありません。大奥には、生みの母がおります。峰は今でも、共に暮らしたいと思っておりましょう。そのためにわたくしは、峰には一度この城に戻ってきてもらい、話を聞こうと思います。」

そう言うので、家斉は言った。

「そなたの好きにせよ。」

それを聞いた茂姫は、

「ありがとうございます!」

と言い、頭を下げた。それを、家斉は横目で仕方なさそうに見ていたのだった。

一八三二(天保三)年四月。峰姫は、江戸城に上がった。峰姫は、落飾して髪を下ろしていた。茂姫は峰姫を見て、

「上様は、唐橋に流産を命じ、回復次第京へ差し戻そうとお考えじゃ。」

そう言うと、峰姫は俯きながらこう言った。

「わたくしは・・・、あの者を許すことはできませぬ。」

それを聞くと、茂姫は言った。

「そうかもしれぬ。ただ、誰にでも間違いはある。」

すると峰姫は顔を上げ、

「それでは、わたくしの気が治まりませぬ。わたくしは、あの者が許せませぬ!」

と言うと、茂姫は考え込んでしまった。すると峰姫は続けて、

「わたくしはあの者に、それ相応の罰が下されるべきと存じます。今の藩主、斉昭殿はわたくしの弟に当たるお方。密会していた挙句、身籠るなど・・・。」

そう言うので、茂姫はこう言った。

「子を産めなかった自分が・・・、やはり悔しいのじゃな。」

すると、峰姫は涙を溜めながら素直に頷いた。それを見て茂姫は、

「わたくしにもわかる。わたくしには子はできたが、幼くして亡くなってしまった。それ故、元気に育ってゆく他の子を見ると、何やら胸が苦しゅうなるのじゃ。」

そう言った。すると峰姫は泣きながら、

「わたくしは・・・、斉脩様のことを思って、今まで生きて参りました。何故、あそこまでお慕いしていたのにも拘らず、天はわたくし達にお子を下さらなかったのかと、ずっと思い悩んでおりました。それ故、此度の騒動を聞いた時、他人事ではない気がして・・・。」

と言うので茂姫は、

「仕える者にとって、子を持つことはさだめではない。あの者は、その天命に背いてしまったのじゃ。一番悔いておるのは、唐橋本人なのかもしれぬ。」

そう言うのを聞いて峰姫も、

「はい・・・。」

と、答えていたのであった。

その話を聞いた家斉は、

「天命のぉ・・・。大奥には、女子にしかわからぬものが、あるのかもな。」

と言った。茂姫は、

「わたくしは、本当に峰の気持ちをわかってあげられているのか、自分でもわからぬのです。」

そう言うと家斉は、こう言った。

「わからぬなら、別にそれでよいではないか。」

それを聞いて茂姫は、

「されど、それでよいのでしょうか。」

と言うと、家斉は茂姫の顔を見た。茂姫は続けて、

「峰は、きっと助けを求めてきているのだと思います。ずっと信頼してきた者からの裏切りに対する怒り、そして自分に対する責めの気持ちの整理がつかぬ今、誰かの助けを必要としているのではないでしょうか。」

そう言うと家斉は、

「ならば、そなたの出番ではないか?」

と言うので茂姫は、

「出番?」

そう聞き返すと、家斉はこう言った。

「これから、峰が救われるかどうかは、そなたにかかっておる。わしは、そなたを信じておるからの。」

それを聞いた茂姫は嬉しそうに、

「上様・・・。」

と呟くと、家斉も茂姫を見つめ返していたのだった。

一方、峰姫は自分の部屋に入ると、登勢が入ってきた。登勢は後ろから、

「峰。」

と声をかけた。峰は振り返ると、

「母上・・・。」

そう呟いていた。登勢が峰の側に座ると、峰は登勢に抱き着いてきた。峰は泣きながら、

「母上・・・。わたくしは、此の先どうすればよいのでしょうか・・・。」

と言った。それを聞いて登勢も、

「大丈夫です。わたくしがおりますから。」

と言い、峰を抱き寄せていた。峰は続けて、

「わたくしは・・・、ずっと母上の側におりとうございます。もう、ここから離れとうございませぬ。」

そう言うのを聞き、登勢は同情したような表情になっていた。登勢は、暫く峰を抱いていた。

茂姫は縁側に出て、考えを巡らせていた。茂姫は後ろにいた花園に、

「唐橋は今、どこにおる。」

と聞くと、花園は答えた。

「はい。斉昭様の熱いご希望により、水戸本家に置かれているそうにございます。」

「そうか・・・。」

茂姫はそう言うと、

「峰に一度、会わせてみるかの。」

と言うので花園は、

「でも、それは・・・!」

そう言うと、茂姫は言った。

「何か、してみぬ限りは前に進めぬ。今は、わたくしにできることをやるまでじゃ。」

茂姫は、真剣な表情をしていたのだった。

浄岸院(そして・・・。)

一八三二(天保三)年一〇月。唐橋が、茂姫のところに呼ばれていた。茂姫は唐橋を見つめ、

「そなたのしたことは、何があっても許されぬことじゃ。」

そう言うと唐橋は、

「心得ております。」

と言うと、茂姫は言った。

「何故、そなたのような者があのような軽々しい真似をしたのか、わたくしには皆目見当がついておらぬ。情けなかった・・・。そなたを信じて、峰に仕えさせた己が。」

すると唐橋は、

「怖かったのです・・・。」

と言うので茂姫は、

「怖かったじゃと?」

そう怪訝そうに聞くと、唐橋は答えた。

「わたくしも、初めから間違っていることだとわかっておりました。」

「では、何故・・・。」

「初めて、斉昭様と言葉を交わしたのはご当主となられる前夜のことにございました。わたくしは斉昭様に気に入られ、個室へ呼ばれました。それからも、何度か隠れて合うようになりました。わたくしは、何度もそれを断ろうとしました。されどわたくしを慕い、迫ってくる斉昭様が、怖かったのです。誘いを断れば、次は何をしてこられるのかと思うと、怖くて・・・。」

唐橋は、涙ながらに語った。それを聞いた茂姫は、

「まことに・・・、反省しておると申すのじゃな。」

そう言うと唐橋は顔を上げ、

「はい。」

と言った。すると茂姫は暫く黙り、唐橋を見つめた。唐橋も、必死に懇願するように頭を下げた。すると茂姫は、

「わかった。」

と言うので、唐橋は顔を上げた。そして茂姫は、

「そなたを・・・、許す。」

そう言ったのだった。すると唐橋は驚いた顔で、

「まことに・・・、宜しいのでございましょうか。」

と聞くと茂姫も、

「あぁ。そなたの言葉に、嘘はないものと見た。」

そう言うのを聞いた唐橋は泣きながら、

「ありがとうございまする!」

と言い、また深々と頭を下げていた。すると茂姫は、

「そなたに・・・、会わせたいものがおる。」

そう言うので、唐橋は顔を上げた。茂姫も、それを見つめていたのだった。

そして峰姫も、茂姫に呼ばれた。茂姫が元気のなさそうな峰姫に、

「今日は、そなたに話がある。」

と言うと、峰姫は茂姫を見た。茂姫は横を向くと、ある女が入ってきた。それは、袖の擦り切れた着物を見にまとった唐橋だった。それを見て、峰姫は驚いて茂姫を見た。唐橋も、恐る恐る茂姫の側に座った。茂姫は落ち着いた様子で、

「この者は、深く反省しておる。だからそなたにも、話したいことがあるそうじゃ。」

そう言った。それを聞いた峰姫は、

「わたくしは、誰に何と言われようと、この者を許すわけには参りませぬ。」

と言った。茂姫は優しい表情で、

「そう言わず、聞くだけ聞いてやってもらえぬか。」

そう言うので、峰姫は唐橋を睨むようにして見た。唐橋はおどおどしつつも、こう言った。

「わたくしは・・・、姫様、いえ、水戸家の皆様に大変なご迷惑をかけたと思っております。わたくしは、水戸家にお仕えする身。されどあのような失態を犯してしまい、何とお詫びしてよいか・・・。簡単には許して頂けないとは存じますが、まことに、申し訳ございませんでした。」

そして唐橋は、頭を深く下げた。峰姫は、それを見つめ続けていた。茂姫は、

「どうじゃ?」

と峰姫に聞くと、峰姫はこう言った。

「わたくしの願いはただ一つにございます。この者を裁き、縁を切ること。その気持ちは変わりませぬ。」

すると茂姫は、

「間違っていることとわかっていても、乗せられることは誰にでもあることじゃ。」

と言った瞬間、

「そういうことではございませぬ!」

そう峰は立ち上がりながら叫んだ。峰は続けて、

「わたくしは、ずっとこの者を信用しておりました。できれば、生涯を通してわたくしに仕えていて欲しいと思うておりました。されど此度の話を聞いた時に・・・、そう思っていた自分が急に馬鹿らしゅうなった気が致しました。信じていた自分が、愚かであったと。」

そう言うのを、唐橋も悲しそうに見ていた。峰姫は座り直し、

「兎に角、わたくしは御台様からの願いであっても、お受けできませぬ。」

そう言うので茂姫も、

「峰・・・。」

と言い、峰姫を見つめていた。そこへ女中が一人走ってきて、

「一大事にございます!」

そう言うので茂姫は、

「何じゃ?」

と聞くと、女中は言った。

「あの、お登勢様が・・・。」

それを聞いて峰姫も、

「えっ?」

と声を挙げていたのだった。

その後、茂姫に続いて峰姫は廊下を走っていた。部屋まで来ると峰姫は、茂姫を通り越して中に飛び込んだ。

「母上!」

峰姫はそう言って中に入ると、そこには登勢が布団に寝かされていて側に医師がいた。峰姫は、

「母上・・・。」

と言いながら、登勢の側に座った。茂姫も来ると医師に、

「様子はどうじゃ?」

そう聞いた。すると医師は、

「今は、だいぶ落ち着いておられます。暫く安静にしていれば、回復も見込まれるかと。」

そう言うと茂姫は少し安心そうに、

「そうか・・・。」

と言った。すると、登勢が目を開けた。それを見て峰姫は、

「母上!」

そう声をかけ、登勢の手を握った。それを見た登勢は、

「峰・・・。」

と言い、嬉しそうな表情になった。峰姫も泣きそうになりながら、

「はい。」

と、答えた。そうすると登勢は、こう言った。

「峰・・・、人を恨んではなりませんよ。」

それを聞き、峰は黙って登勢を見つめた。登勢は続けて、

「ただ恨むのではなく、許す方法を考えるのです。」

と言うので峰は、

「許す・・・、方法・・・。」

そう小さく繰り返した。茂姫も、それを見ていた。登勢は峰の手を握り返し、

「わたくしは、あなたの心を、信じております。」

と言うので、峰姫は登勢の手を自分の額に当て、泣いていた。登勢も、それを愛おしそうな目で見ていた。茂姫も、ただ黙って二人を見つめていたのであった。

その頃、水戸徳川家では斉昭のところに会沢あいざわ正志斎せいしさいが来ていた。斉昭が、

「姉上様は、大層御立腹なのであろうなぁ。」

と呟くと、会沢はこう言った。

「されど今は、政の方が大事かと存じます。」

すると斉昭は、

「そなたは、どう思う。わたくしが、欲深き男だと知って、それでも当主にと推した甲斐があったと言えるか?」

そう言うので会沢は、

「それを聞いて、どうするおつもりにございますか?」

と聞くと斉昭は立ち上がり、縁側の方を向くとこう言った。

「わしなど、生まれてこなければよかったのじゃ!そうすれば、あの者を、苦しめずに済んだであろうに。」

すると、会沢がこう言った。

「わたくしは、初めから知っておりました。」

「何?」

斉昭が聞くと、会沢は顔を上げて言った。

「わたくしはそれでも、あなた様をこの水戸藩の御当主にしとうございました。いや、なるべきだったのでございます。あなた様は、どのようなことがあろうとも、乗り越えられる素質をお持ちにございます。わたくしはずっと思うておりました。斉昭様こそが、次のお世継ぎに相応しいと!」

斉昭はそれを聞いて薄く笑い、

「綺麗事を・・・。」

と言い、座り直した。その後、斉昭は黙っていた。それを、会沢もずっと見ていたのだった。

その後、会沢は他の藩士達と話をした。そこには藤田ふじた東湖とうこ安島あじま帯刀たてわきがいた。会沢が、

「水戸藩は今や、苦しい財政を抱えておる。」

と言うとや安島が、

「これからは、まずは民のことを優先的に考えましょう。」

そう言った。すると藤田東湖も、

「我々にできることは、斉昭様を補佐し、藩のために策を練ることにございます。」

と言った。すると会沢は、

「しかし、ちと気になることが・・・。」

そう呟いていると安島は気になったように、

「何ですか?」

と聞くと会沢は気がつき、

「あ、いや・・・。」

そう言っていた。それを、藤田も気になったように見つめていた。

ある日の夕方。峰姫は、江戸城の縁側に座っていた。すると近くに、紅葉が落ちてきた。峰姫はそれを拾い上げ、ただ見つめていた。

その頃、茂姫は登勢の見舞いに行っていた。茂姫は登勢に茶碗をもたせながら、

「わたくしの母も、そなたと同じ名前での。わたくしのことを、一番に考えて下さるお方であった。」

と言った。それを聞いて登勢は、

「わたくしも、峰のことを何よりも考えております。」

そう言い、茂姫を見つめて続けた。

「御台様に、一つだけお願いがございます。」

「何じゃ?」

茂姫は聞くと、登勢はこう言った。

「今の峰は、人を信じる心をなくしているのだと思います。自ら一人になり、己の心に誰も寄せ付けない。そのような峰を見るのが、わたくしは辛うございます。以前は、素直で、心の広い娘にございました。その峰を、もう一度見たいのでございます。」

それを聞いた茂姫は頷き、

「わかっておる。」

と言った。そして登勢は、

「御台様・・・。どうか、あの子を、助けてあげて下さいませ。そして、心の闇から連れ出してあげて下さい。」

そう言うのを聞いて茂姫は、

「わかった。わたくしに任せよ。」

と言うので、登勢は嬉しそうに笑った。茂姫も、それを見て安心したような表情を浮かべていたのだった。

浄岸院(しかし、その数日後。)

夜、茂姫は廊下を走っていた。茂姫は部屋に駆け込むと、登勢が寝ている隣に峰姫がいた。茂姫はそれを見て、ゆっくりと峰姫の隣に座った。登勢は、ゆっくりと目を開けた。峰姫は、

「母上!」

と言うと登勢は笑顔を作り、

「わたくしは、あなたを嫁に出す時、覚悟を決めました。二度と、あなたと会えぬと。しかし、こうしてまた会うことができました。それは上様、御台様のおかげにございます。」

そう言い、茂姫の方を見た。茂姫はそれを見て、頷いた。すると登勢は峰姫の方を再び見ると、

「それともう一つ。あなたが、最も感謝すべきなのは、唐橋なのです。」

と言った。峰姫は、

「えっ・・・?」

そう聞くと、登勢は残っている力を振り絞ってこう言った。

「此度の騒動がなければ、あなたは今頃、ここにはおりません。わたくし達を再び引き合わせてくれたのは、あの者かもしれません。考えようによっては・・・、憎い相手でも許せるのです。それを、あなたに・・・、伝えておきたかった・・・。」

「母上・・・。」

「峰・・・。わたくしは、ずっとあなたの側におります。それ故・・・、悲しんではいけませんよ・・・。これが、わたくしの、最期の願いです・・・。」

そして、登勢は目を閉じた。それを見た峰姫は、

「母上?母上!!」

と言い、泣き叫んだ。それを隣で見ていた茂姫は、いたたまれない気持ちになった。目を閉じ、安らかな表情をしている登勢の側では、峰姫が布団に顔を擦り付けながら泣いている。それを見て、茂姫は昔の自分と重ね合わせているようであった。

浄岸院(そして更に数日後。)

茂姫の前には、峰姫が来ていた。茂姫は、

「そうか・・・。水戸家へ帰るか。」

と言うと峰姫は、

「はい。それと一つ、お願いがございます。」

そう言うので茂姫は、

「何じゃ?」

と聞くと、峰姫はこう言った。

「唐橋を、京へお戻し頂きたいのです。」

それを聞いた茂姫は、

「罰は・・・、もうよいのか?」

と聞いた。すると峰姫は、

「はい。代わりに、京で自ら罪を償い、もう二度と同じことを繰り返さぬと、約束して欲しゅうございます。」

そう言うので、茂姫は言った。

「よかろう。そなたの思いは、通じておると思う。」

そして茂姫は、廊下の方を見つめた。すると峰姫は何かの気配を感じ、振り返ると、部屋の前には唐橋が立っていた。唐橋は、その場に座った。峰姫はそれを見つめ、

「唐橋・・・。」

と呟くと、唐橋は頭を下げながらこう言った。

「姫様・・・。このような唐橋を、どうかお許し下さい。もう二度と、二度とあのようなことは致しませぬ!それ故、此度の一件は、忘れずに己の胸に刻み付けます!」

すると峰姫は立ち上がり、唐橋の前に座った。唐橋は恐る恐る顔を上げると、峰姫はこう言った。

「もしも此度の件がなければ、わたくしは二度と母上に会うこともなかった。もしかしたら、わたくしが母上の最期を見送ることができたのは、そなたのおかげなのかもしれぬ。」

「姫様・・・。」

唐橋はそう呟くと峰姫も、笑いかけた。それを見た唐橋は俯き、すすり泣いた。そして峰姫も、唐橋を支えていた。それを見て茂姫も、微笑んでいたのだった。

茂姫は夕方、いつものように縁側に座っていた。茂姫は、

「誰かを愛しても、思わぬところで罠がある。されど、その罠を利用して、己の居場所を見つけられる。そのような気がするのじゃ。」

そう言うのを、後ろでたきとひさが見ていた。茂姫は続け、

「人を信じていれば、いつか裏切りに遭うこともある。それで、信じることをやめてしまえば、それで終わりじゃ。考え方を変え、許す方法を見つける。それでこそ、まことの愛情といえよう。」

そう言うのでたきも、

「大切なお方とは、生涯を共にしたいものですね。」

と言った。すると茂姫は、

「しかし、どれ程願っても、共に生まれ、共に死ぬことはできぬ。それ故に、今、共にいる時が愛おしいのじゃ。」

そう言うとひさは、

「わたくしも、御台様のお側にいられて幸せにございます。」

と言うのを聞いた茂姫も微笑して、

「わたくしもじゃ。たとえ傷ついても、わたくしは出会った者全てを信じたい。」

そう言いながら、夕日を眺めていたのだった。

薩摩藩邸では、斉宣が重豪に呼ばれていた。斉宣が部屋に入ると、重豪は振り向いた。重豪は、ガラス製の杯を出して言った。

「これは、異国の酒じゃ。」

「異国の?」

斉宣がそう言いながら、重豪の前に座った。重豪は赤黒い酒を杯に注ぎ、斉宣に手渡した。斉宣が、

「これは?」

と聞くと、重豪は言った。

「ワインというものじゃ。そして、これはグラスじゃ。」

そして、ワインの入った杯を掲げた。斉宣は怪訝そうな顔をしつつ、ワインを口に含んだ。すると斉宣は、

「美味しい・・・。」

と呟いた。それを見た重豪はニタリと笑い、話を変えた。

「時に、わしが死んだらそなたはどう思う。」

それを聞き、斉宣は吹き出しそうになり、少し咳き込んだ。

「何を、突然・・・。」

斉宣は言うと重豪は、

「聞いておきたいのじゃ。そなたなら、どうする。」

と言うので、斉宣はこう言った。

「わかりませぬ。それに、縁起でもない。」

それを聞いた重豪は笑い、

「そなたらしいのぉ。」

と言い、ワインを飲み干していた。それを見て斉宣は、

「わたくしも・・・、一つ聞いてよいですか?」

そう言うので重豪は、斉宣を見ていた。斉宣は、

「父上は、わたくしを子としてどう思いますか。わたくしは、生れてきてよかったのでしょうか。」

と聞くので、重豪は言った。

「そなたがおらなんだら、わしは最後まで苦しんでおる民の存在に気付かなかったかもしれぬ。今思うと、そなたのしようとしたことは間違ってはおらなんだ。」

それを聞き、斉宣は少し嬉しそうにしていた。重豪も、斉宣を見つめていたのだった。

その夜。家慶と喬子は話していた。家慶が、

「父上は、きっと死ぬまで身を退かぬであろうな。」

と言うと喬子は、

「やはり、一度お話ししてみては?」

そう聞くと、家慶が言った。

「近頃、わからぬのじゃ・・・。わたくしには、どうしてよいか・・・。」

それを聞いて喬子は、

「母上様も、きっと心配しております。どうか、父上様に自らお話し下さいませ。」

と言い、頭を下げた。家慶はそれを見て、

「喬子・・・、そなた・・・。」

そう言っていると喬子は顔を上げ、

「わたくしにできるのは、このくらいにございます。」

と言うのを、家慶も見つめていたのであった。

その頃、家斉も茂姫と話していた。

「もう、わたくしがあなた様に嫁いで四〇年以上になりますね。」

茂姫は言うと家斉も、

「もうそうなるかのぉ。」

と言っていた。すると茂姫は、

「そろそろ、家慶様のことも考えるようになったのではありませぬか?」

そう聞くと家斉は、

「いや、まだじゃ。」

と言うので、茂姫はこう言った。

「今のあの方であれば、きっと素晴らしい政をしてくれるはずです。ご自分の子を、信じては下さいませぬか。」

すると家斉は、こう言った。

「わしが信じるもの、それはつまり、己だけじゃ。」

そして立ち上がると、そのまま廊下を歩いていた。茂姫は家斉の変貌ぶりに動揺しつつも、心配そうにそれを目で見送っていたのだった。



次回予告

茂姫「わたくしの父上は、情の熱いお方。それ故、ずっといてくれるものと思っておりました。」

家斉「避けて通れぬ道・・・。」

斉宣「父上?」

昌高「父上!」

茂姫「避けて通れぬからこそ、己の生き方を全うできるのだと思います。」

重豪「わしは・・・、そなた達だけのことを、考えておった。」

茂姫「わたくしは、父から教わったことを、世に残したい。」

家斉「そなたの言う通りじゃと思うた。」

斉宣「わたくしは、父上のためを思うております!」

重豪「わしの、誇り故じゃ。」

茂姫「わたくしの生まれ故郷、薩摩の父が・・・。」




次回 第四十七回「父の死」 どうぞ、ご期待下さい!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ