第四十五回 さらば定信
治済「そなたの父は、そなたを許したいと思うておられる。」
「だから、そなたも父上を許してやってくれ・・・。互いに心の底を見せ合って、解り合うのじゃ・・・。」
斉宣「はい・・・。」
重豪「わしはそなたの話も聞かず、藩主の座から下ろし、斉興に後を継がせた。」
斉宣「あの時、何故あの者達の言うことを聞いてしまったのだろうと、何度も己を恥じました。」
重豪「わしは、そなたを幼き頃から育ててきた。にも関わらず、そなたを一人にしてしもうたのじゃ。すまなかったな。」
斉宣「父上・・・。」
喬子「わたくしは、間違えておりました。」
「母上様も、わたくしのことを心の底から思って下さっていたということ、今やっと分かった気が致します。」
茂姫「喬子様が、わたくしに心を開いてくれたのは、わたくしの母のお陰かもしれませんね。」
乗寛「幕府禁制の地図を持ち出すなど、不埒千万!これは、重い処分を下すべじゃ!」
「幕府としては、許すまじ行いです!」
大久保「いよいよ、鎖国しか選ぶ道はなくなりましたか・・・。」
乗寛「鎖国か、開国か・・・。」
茂姫「日本地図を?」
家斉「あぁ。シーボルトが、隠し持っておったそうじゃ。」
茂姫「戦・・・、異国と戦になるようなことがあれば・・・。」
家斉「今は、何とも申せまい。」
浄岸院(異国に対し、敵意を抱く者達は、この時から急速に増え始めていたのです。)
第四十五回 さらば定信
浄岸院(シーボルトの船から日本地図が見つかってから一月余り。幕府では、日に日に空気が重くなっておりました。)
幕府では、老中達の間で議論が交わされていた。大久保が、
「鎖国を貫き通さずして、この国を守ることなどできますでしょうか。」
と言っていると植村家長が、
「しかし、あちらは日本に戦を仕掛けるつもりはないそうです。あくまで、友好的に交わりたいと。」
そう言った。すると乗寛が、
「あれは、こちらの目を誤魔化すうわ言にすぎませぬ。隙が見えれば、いつでもこちらに刃を向けてくることでしょう。」
と言うと、大久保もこう言った。
「これで、今まで開国を唱えてきた者も、考えが変わったことでしょうな。」
すると乗寛は、
「今国開けば、相手の思うがままじゃ。今の内に、新たな手を打ちませねば・・・。」
と言うのを、植村も心配そうに見ていたのだった。
その頃、茂姫は部屋で考え込んでいた。
「何故人は・・・、人を疑うのであろう・・・。」
それを、横でひさや他の女中、前から花園が見ていた。茂姫は続けて、
「わたくしの父やその家族は、皆異国を好きであった。それ故、此度のことが少しばかり気にかかる。この国外国と渡り合う日が、更に更に遠くなるような気がしてな・・・。」
そう言うのを、ひさ達も心配そうに見つめていた。すると茂姫は花園に、
「上様は・・・、今どうしておられる。」
と聞いた。すると花園は、こう答えた。
「老中の方達に、決断を迫られておいでだそうにございます。罪を犯した異人を、どう処罰すべきかと。」
それを聞いた茂姫は、
「そうか・・・。」
と言い、続けてこう言った。
「いつか、異国と戦になれば、思い知るであろう。このままでは、この国は叶わぬことを。」
茂姫はそう言った後も、真剣な顔で前を見据えていたのであった。
浄岸院(翌月、老中の植村殿が死去すると、幕府の中でも攘夷論が挙げられるようになっていったのでございます。)
茂姫は、家斉と話をしていた。茂姫が、
「見返りとして地図を?」
と聞くと家斉は、
「シーボルトと交友があった高橋作左衛門は、樺太などの資料を求めていたらしい。そこで、シーボルトはその男に世界地図を贈る代わりに、日本地図を贈られたというわけじゃ。」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「そうでしたか・・・。」
と、言った。家斉は続けて、
「後もう一人、最上徳内と申す男も、シーボルトに北方領土の地図を与えている。この男も、同罪というわけじゃ。」
そう言うので茂姫は、
「その者達も、やはり処罰を・・・。」
と言うと、家斉は言った。
「投獄された。」
それを聞き、茂姫は顔を曇らせた。家斉は、
「幕府禁制の地図を持ち出すほどじゃ。それなりの、相当な覚悟があったのかもしれぬ。」
と言った。それを聞いていた茂姫は、
「幕府と・・・、いえ。日本と、繋がりたいと。」
そう言うと家斉は、
「そうかもしれぬ。」
と言うのだった。すると茂姫は、こう言い出した。
「いっその事、打払令を廃止なさっては?」
「打払令を?」
家斉は聞くと茂姫は、
「将軍であるあなた様が動けば、どうにかすることが叶うやもしれませぬ故。」
そう言うと家斉は向こうを向いて、
「それはどうであろうな。」
と言うと、茂姫は言った。
「されど、このままでは納得がいきませぬ。出来ることからやってみるのも、大切にございます。」
それを聞いて家斉は振り向くと、茂姫は頷くのだった。
乗寛は話を聞いて、
「無理にございます!」
と、言い張った。家斉の横にいた茂姫は、
「それは何故じゃ。」
そう聞くと乗寛は、こう言った。
「あの一件以来、更に異国船は打ち払うべしと、皆いきり立っております。今令を廃止すれば、それこそこの国は混乱の渦に飲み込まれるは必定。何卒、お考え直されませ。」
それを聞いて家斉は、
「そちに一つ聞きたい。」
と言うと乗寛は、
「はっ。」
そう言い、顔を上げた。そして家斉は、こう聞いた。
「まことの打払とは、何じゃ。」
「まことの、打払、にございますか?」
乗寛は聞き返すと、家斉は立って部屋の中を歩き始めた。そして、こう語った。
「船の一つや二つ、沈めるのは容易いであろう。しかしそれを続けると、やがてはその打ち払われた国が、この国に対し憎悪を抱く。さすれば、この国は敵うはずがないであろう。」
そして家斉は乗寛を見て、こう言った。
「まことの打ち払うべきは、この国の古い政治ではないか?」
それを聞いていた乗寛は、
「は、はぁ・・・。」
と言い、少し困っていた。家斉は再び座に着くと、
「このこと、心の隅にでも留めておくがよい。」
そう言った。すると乗寛は、
「は、はぁっ!」
と、返事をしていた。茂姫は、家斉を横から嬉しそうに見つめていたのだった。
薩摩藩邸で、斉宣が斉興と話していた。斉興が、
「では、解り合えたのですか?」
と聞くと斉宣は、
「あぁ。父上がわたくしにあのように接してこられたことが、何より嬉しくて。」
そう言うと、斉興がこう言った。
「お祖父様は、ずっと後悔しておられました。父上と、早く腹を割って話をしたいと。」
「父上が?」
斉宣が聞くと斉興は続け、
「それで、ずっと悩んでおられたみたいです。あのように冷たく突き放してしまったと、ひどく悔いておられました故。」
そう言うのを聞き、斉宣は父との会話を思い出した。
『わしは、そなたを幼き頃から育ててきた。にも関わらず、そなたを一人にしてしもうたのじゃ。すまなかったな。』
『父上・・・。』
『許してくれとは言わぬ。されどこれが、わしの今の気持ちじゃ。』
斉宣が思い出していると、斉興もこう言った。
「しかし、お祖父様の気持ちを奮い立たせてくれたのは、一橋様かもしれません。」
それを聞いた斉宣は、治済に言われたことも思い出した。
『そなたの父は、そなたを許したいと思うておられる。』
『だから、そなたも父上を許してやってくれ・・・。互いに心の底を見せ合って、解り合うのじゃ・・・。わしは、そのことだけを願うておる。』
すると斉宣は微笑し、
「そうかもしれぬな・・・。」
と言った。すると斉宣は顔を上げ、
「斉興。」
そう言うと斉興は、
「はい。」
と答えた。すると斉宣は、笑顔でこう言った。
「これからの薩摩を、宜しく頼む。」
それを聞いた斉興も笑顔で、
「はい。わかっております。どうか、お任せ下さいませ。」
そう言うので、斉宣は安堵の笑みを浮かべ続けていたのであった。
江戸城でも、茂姫は家慶の所へ行っていた。家慶が笑いながら、
「そうですか、喬子が。」
と言うと茂姫は、
「わたくしは、喬子様の本音を聞けたような気持ちでした。何にせよ、勇気がいたことと存じます。」
そう言った。家慶は、
「あの者も、きっと母上に深く感謝しているはずですから。」
と言うと、茂姫は言った。
「いえ。一番に感謝しておられるのは、やはりあなたではないですか?」
それを聞いて家慶は、
「わたくしに?」
と聞くと、茂姫はこう言った。
「子や父君を亡くし、暗闇から抜け出せなかった喬子様を、光りある場所へ連れ出して下さったのは、他でもない、あなたなのですから。」
それを聞いて家慶は微笑し、
「そのような。そのようなたいそれたこと、わたくしはしておりませぬ。喬子が、己の意思で、したことだと思います。わたくしも、何度もあの者に救われております故。」
と言うのを聞いて茂姫は、
「互いに助け合って、仲を深めているのですね。」
そう言うと家慶も嬉しそうに、
「はい。そうかもしれませんね。」
と言って、笑っていた。すると家慶は思い出したように、
「そう言えば、政之助の様子は?」
と聞くと茂姫も笑顔で、
「ご心配いりませぬ。たいそう元気に育っております。」
そう言うのを聞き、家慶も嬉しそうにしていた。すると、その部屋に子供が駆け込んできた。それを追って、側室の美津と大奥女中の歌橋が入ってきた。美津が、
「なりませんよ、政之助。」
と言い、政之助を抱えた。歌橋も、
「失礼致しました。」
そう言った。その様子を見ていた茂姫は家慶の方を向き、
「この通りにございます。」
と言った。すると家慶も嬉しそうに頷き、
「ではわたくしも。」
そう言うと政之助の所に行き、政之助を抱き上げた。政之助も、喜んでいる。家慶は美津らと共に、政之助を抱えたまま部屋をぐるぐると回り始めた。茂姫もそれを、笑って見ていたのだった。
浄岸院(その後、お城にある人物が召し出されていたのでございます。)
家斉の前には、ある男が平伏していた。家斉が、
「面を上げよ。」
と声をかけると、その男は顔を上げた。
「そなたが、水野越前守か。」
家斉が言うと、老中・浜松藩主の水野忠邦は言った。
「此度、老中に就任させて頂くこと、誠に光栄に存じ奉ります。」
すると家斉は、
「今日は、そなたに頼みがあって呼んだ。」
と言うと忠邦は、
「はっ。」
そう言って畏まった。家斉は続けて、
「わしの嫡男、家慶の補佐役を、そなたに頼みたい。」
と言うので忠邦は、
「そのような大役、わたくしに務まりますでしょうか。」
そう言うと、家斉は言った。
「心配いらぬ。これからは家慶を補佐しつつ、他の者と協力して幕政改革に務めるのじゃ。」
「ははぁっ!」
忠邦はそう言い、頭を下げていた。
家慶から話を聞いた茂姫は、
「補佐役を?」
と聞くと、家慶は言った。
「何故今なのか、わたくしにはわからぬのです。」
すると茂姫は、
「それは、あなたに将軍の座を譲るお気持ちが芽生えつつあるのでは?」
そう聞いた。すると家慶は、
「そうとは思えませぬ。父上はきっと、己が死ぬまでわたくしに家督は譲らぬおつもりでしょう。」
と言うのを聞き、茂姫は言った。
「それは・・・、お父上とよくお話になればわかることなのではありませぬか?」
すると家慶は、こう答えるのだった。
「いえ。わたくしは近頃、父上が何を考えているのかさえも、わからぬのです。」
それを、茂姫は心配そうに見つめていた。
浄岸院(そして文政一二年になり、シーボルトは訊問や家宅捜索の末、国外追放の上、再度渡航を禁止され、投獄されていた高橋作左衛門は獄死。一方、シーボルトは幕府からの訊問において、科学的な目的だけに情報を求めたと述べました。それだけではなく、自ら日本の民になるとまで主張。残りの人生を日本で過ごし、人質となるとまで言ったのです。)
一方、桑名藩松平家では定信が文を読んでいた。その横で定永は、
「鎖国は、これからも長く続きそうですか?」
と聞くと、定信はこう答えた。
「仕方なかろう。これ程の騒ぎに発展したのじゃ。それに、幕府禁制の地図を持ち出すとは、異国が送り込んだまわし者かもしれぬ故な。」
定永は少し不安そうに、
「この先・・・、この国はどうなるのでしょうか・・・。」
と言うと定信は文を折り畳みながら、
「暫くは、あちらの様子見かの。」
そう言い、立ち上がろうとすると急に咳をした。すると定永は、
「父上!?」
と言って定信を支えた。定信は、
「大丈夫じゃ・・・。」
そう言って、また咳き込んだ。定永も、必死にその背中をさすっていたのだった。
浄岸院(その数日後より、定信殿は高熱を発し、更に運の悪いことに、三月二一日、神田佐久間町川岸から出火した火が日本橋から芝まで広がり、多くの建物が焼失するという大惨事が起こったのでございます。この時、死者は二八〇〇人余り。松平家の上屋敷も、焼けたのでございました。)
定信は燃えさかる町を、大きな籠に乗せられ、家来たちに運ばれていた。この時、道は大変混雑していた。逃げ惑う子供もいれば、混乱状態にある女性もいる。定永は、籠の先頭を歩いていた。定信が乗った籠が通ると、それに向かって大声で、
「邪魔じゃ、邪魔じゃ!」
と、叫ぶ者もいる。
「お前のおかげで、わしらがどれ程貧しい暮らししとるかわかっておるのか!」
「そうじゃ、そうじゃ!」
町にいる一部の人間が、そう籠に向かって騒いでいる。それを、定信は籠の中で仰向けになりながら聞いていた。定永も先頭を歩きながら俯き、やるせない表情を浮かべていた。
難を逃れた一行は、伊予松山藩に身を寄せていた。定信は横になりながら、
「わしは・・・、皆に嫌われておったのじゃな・・・。」
と言うと定永は、
「そのようなことありませんよ。中には、父上に救われたという者もいるはずです。」
そう言うと定信は苦笑いし、
「もうよい・・・。」
とだけ言った。それを定永は、ずっと見つめていたのだった。
一方、家斉の所には清茂が呼ばれていた。家斉は、
「そなたに、聞きたいことがある。」
そう言うと清茂も、
「聞きたいこと?」
と聞くと、家斉は言った。
「己の娘のことを、どう思う。」
「お美代・・・、のことにございますか?」
清茂が聞き返すと家斉も、
「そうじゃ。」
と答えた。清茂は笑い、
「あ、いや・・・。急にどうと言われましても・・・。」
そう言っていると家斉は、こう言うのだった。
「まことに娘のことを思うておるのであれば、重荷を背負わせるようなことはせぬであろうな。」
それを聞いた清茂は顔を曇らせ、
「そ、それは・・・。」
と言った時、
「失礼致します。」
そう言う女性の声が聞こえた。清茂は不意にその方を見ると、戸が開き、美代が入ってきた。そして美代は、家斉の隣に座った。清茂はそれに動揺していると、家斉はこう言った。
「今日は、親子水入らず、ゆっくりと話をするがよい。」
それを聞いた清茂は、
「はっ、ははぁ!」
と言い、頭を下げていた。
その後、二人は一室で話をした。清茂は気まずそうに、
「どうじゃ、末の様子は。縁組が、決まっておるそうじゃが。」
と言うと美代は、こう答えた。
「変わりございませぬが。」
清茂は、
「そうか・・・。」
と言い、俯いている美代にこう話した。
「そなたは、その・・・。わしの養女となったことを、どう思うておる。」
すると、美代は顔を上げて清茂を見つめた。清茂も美代を見つめ、
「そなたの気持ちを・・・、聞かせてはくれぬか。」
と言った。すると美代は、
「わたくしはもう、決めました。父上様に、従い続けます。それが間違っていようと、誰になんと言われようと、父上様が仰せの通りに動いて参ります。」
そう無理に笑みを作った。それを見た清茂は、
「まことの、気持ちなのか?」
と聞くと、美代から笑みが消えた。清茂は続けて、
「そなたの、まことの気持ちを、聞かせてもらえぬか。」
そう言うので、美代は俯いた。そして美代は、
「わたくしも、実を申せば母として、溶を送り出しとうございました。父上様の野望の道具としてではなく、己の娘として、そしてわたくしも、母として・・・、あの子を送り出しとうございました。」
そう言って顔を上げた。その目には、数え切れぬほどの涙が滲んでいた。清茂はそれを見て、
「そなた・・・。」
と言うと、美代の肩に手を置いた。
「すまなかった・・・。」
すると、美代もまた、清茂の肩に自分の額を託した。清茂は、手を美代の背中に回し、ゆっくりと軽く叩いていたのだった。
浄岸院(そして四月一八日。定信殿らは、松山藩三田の中屋敷へと移っておりました。)
そして数日後、そこでは宴会が開かれていた。病床に座っている定信のところに家臣の六兵衛が来て、
「定信様、お具合の方は。」
と心配そうに尋ねると定信は、
「あぁ、大丈夫じゃ。」
そう笑顔で答えた。その様子を、定永も見ていた。すると同じく家臣の為五郎が来て六兵衛に、
「ほら、こっちに来んね。」
と酔っ払ったように言って誘うと六兵衛も、
「何じゃ!」
そう言って、嫌々向こうに行った。すると今度は定永が父の隣に座ると、
「このような賑やかなお席は、久しぶりにございますね。」
と言うので定信も、
「そうじゃの。」
そう言い、皆の様子を眺めていた。すると、
「失礼致します。」
と言い、若者が家来を連れて入ってきた。その男は定信の前に座ると、
「松平定信様の、お見舞いに上がりました。」
そう言った。定信は、
「あなたは・・・。」
と言っていると、その男、松山藩藩主の松平定通はこう言った。
「お久しぶりです、叔父上。気にかかったもので、参りました。」
すると定信は、
「今は、藩主であったな。」
と言うので定通は、
「あ、はい。」
そう答えた。定信は定永に、
「この者は、わしの兄上の息子じゃ。」
そう言うので定永は定通を見ると、定通も礼をした。定信は、
「よく参った。今日は、ゆっくりと飲んで行ってくれ。」
と言うと定通は、
「有り難きお言葉、痛み入りまする。」
そう言い、再び定信に礼をしていた。定永も、父の穏やかな表情を見つめていたのだった。
皆が帰った夜。定信は、部屋で定永と話していた。定信は、
「これから、桑名は街の立て直しに入らねばならぬ。」
と言うと定永も、
「はい。後のことは、わたくしに全てお任せ下さい。」
そう言うと定信は定永の方を向き、
「その言葉が聞けただけで、わしは嬉しい。」
と言うと定永も、微笑んでいた。そして定信は再び前を向くと、
「わたくしに出来る事は、全てやった。」
そう言い、何も思い残すことはないといった顔をしていた。定永もそれを見て嬉しそうに、
「父上・・・。」
と、呟いていた。定信は、それからずっと前を見据えていたのだった。
浄岸院(定信殿の容態が急変したのは、それから一月も経たない頃にございました。)
病床に着いていた定信は、天井を見つめながら定永にこう話しかけた。
「定永・・・。わしは、この世に何かを残せたのであろうか・・・。」
それを聞くと、定永はこう言った。
「何を仰せですか。父上は、老中として、藩主として、立派にやってこられたではありませぬか。」
すると定信は、
「そうじゃ・・・。」
と言い、こう呟いた。
「わしは、あの方との約束を守れたのであろうか・・・。」
それを聞いて定永は、
「約束、ですか?」
と聞くと、定信は茂姫に言われたことを話した。
『いつか、必ず自分自身を許すと。確かに、あなたのやったことは城に仕える者として許されぬ罪です。されど、いつまでも過去にとらわれていては前に進めませぬ。いつの日か己を許し、またこの城に戻って来て下さい。』
定永に話し終えると、定信はこう言った。
「わしは愚かじゃ。未だに己を許せぬまま、死のうとしておる・・・。あの方に、会わせる顔がないのじゃ・・・。」
そして、更に大崎の言葉も頭を過った。
『幕府は、あなたのご活躍を願っております。あなたは、徳川幕府にはなくてはならない御方なのです。』
すると定永は、
「あの方なら、わかって下さいます。そのようなお方にございました。」
と言うと定信は、
「定永・・・。今度お会いしたら、宜しく伝えておいてくれ。約束は、守ったと。」
そう言うので目に涙を溜めていた定永は声を震わせながら、
「はい。」
と答えた。定信は再び天井を見ると、
「良き人生であった・・・。」
そう言い、ゆっくりと目を閉じた。定永は、
「父上・・・、父上!!」
そう泣き叫んでも、定信の目が再び開かれることはなかった。定信の目からは、涙が溢れているようであった。
そして薩摩藩邸でも、その知らせは届いた。斉宣が驚いたように、
「松平様が!?」
と聞くと、重豪は言った。
「あぁ。例の火災で、伊予の国、松山に身を寄せておられたようじゃ。」
それを聞くと斉宣は、
「そうですか・・・。」
と言うと、重豪はこう言った。
「また、一つの時代が終わってしまったようじゃ。」
それを聞いて斉宣も、
「松平様は、父上にとって、生涯の友にございました。されどそれだけの業績を、この世に知らしめてくれたお方だったと存じます。」
と言うと重豪は立ち上がり、背を向けると掛け軸を見ながらこう言った。
「天下の楽に後れて楽しむ・・・、か。」
「えっ?」
斉宣がそう言うと重豪は笑いながら振り向き、
「いや、何でもない。」
と言い、また座った。それを、斉宣も見ていたのだった。
茂姫はその頃、縁側の廊下で花を活けていた。すると花園が来て、
「御台様。お客人がお見えです。」
と言うと茂姫は、
「誰じゃ。」
そう聞くと、花園はこう言った。
「桑名藩の、松平定永様と仰せです。」
それを聞き、茂姫は不意に手を止めていた。
茂姫は部屋に入ると、定永が平伏していた。それを見た茂姫は座ると、
「定永殿、面をお上げ下され。」
と言った。それを聞き、定永は顔を上げた。茂姫は、
「今日は、どうされたのですか?」
そう聞くと、定永は言った。
「父が・・・、亡くなりまして。」
すると穏やかな表情だった茂姫の顔が急変して、
「えっ・・・。」
と呟いた。定永は、続けた。
「今日は、その父から遺言を預かって参りました。」
「遺言・・・。」
「はい。約束は、守ったと。」
「約束・・・。」
定永の話を聞き、茂姫もそう繰り返した。定永は更に続け、
「御台様が以前、父上に自分を許すよう、約束されたと聞きました。父は、そのことを深く気にかけておいででした。それ故、わたくしにとっても他人事ではないような気がして・・・。確かに父上が行ったことは、許し難きことかもしれません。でも父上は己の行いを恥じ、そして己を許されました。だから、その、御台様にも・・・。」
と言っていると茂姫は、
「わかっております。定信殿のお気持ちは、とうに気付いておりました。」
そう言うので定永も、嬉しそうにした。茂姫は続けて、
「されど定信殿は、なかなか己を許せなかったのですね。」
と言うと、定永もこう言った。
「父の敵は、自分にございますから。」
それを聞くと茂姫は笑い、
「ほんに、そうですね。」
と言うので、定永も笑っていたのだった。
その夜、茂姫は家斉にそのことを話した。家斉が、
「そうか、定信が・・・。」
と言うと、茂姫は言った。
「あの者は、本当に幕府のため、国のためによく働いてくれましたね。」
すると家斉は、
「あの男は、わしの父と正反対の男であった。」
と言うと茂姫が、
「父上様と?」
そう聞くと、家斉がこう言った。
「贅沢三昧の父と比べて、自ら貧しい道を選ぶ。進んで苦汁をなめる、そんな奴であった。民のことを一番に考え、そして誰よりも理解しようとした。わしが、心の底から信頼しておったくらいだからな。」
それを聞くと茂姫も、
「はい。」
と言い、笑っていた。家斉もその後、酒を飲みながら庭を眺めていたのだった。
そして別の部屋では、家慶と喬子が話していた。家慶が、
「父上が家督を譲ってくれぬ以上、わしの世継ぎを決めるのはまだ早い。」
と言うと喬子は、
「父上様は、家慶さんのことがお嫌いなんやろか。」
そう言うと家慶も、
「そうかもしれぬ。とにかく、今わかっておることは、父上に譲る気が全くないことじゃ。」
と言うのだった。それを聞いた喬子は、
「しかし、それやと政之助が少し可哀想に思います。父上様とじっくりお話になっては如何ですか?」
そう言うので、家慶はこう言った。
「無駄であろう。今の父上に、何を言っても聞く耳を持たれぬ。」
それを聞いて喬子心配そうにすると家慶が、
「安心せよ、そなたに苦労はかけぬ。」
と言うので喬子も、顔を上げて少し表情を緩めた。家慶もそれを見ると、笑顔で頷いていたのだった。
その数日後、帰った定永は父の仏壇を拝んでいた。そして目を開けると、定永は希望に満ちた表情をしていた。
一方、江戸城では家慶の部屋にこの男が来ていた。家慶が、
「世継ぎを決めよじゃと?」
と聞くと、水野忠邦は言った。
「はい。今からお世継ぎをお決めになれば、後々楽にございます故。」
すると家慶は、
「父上が家督を譲ってくれる目処も立っておらぬというのに、世継ぎなど決められぬ。」
と言い切った。それを、家慶の部屋に戻ってきたたきも、偶然聞いていた。たきは、部屋の中へ何気に耳を傾けた。忠邦は、
「陰では、諸大名の子を次のお世継ぎにしようと企む者もいると聞きました。」
と言うので家慶は怪訝そうに、
「何?」
と聞いた。忠邦は、
「公方様の側近である、中野清茂様は、公方様と娘の間に生まれた子を前田家に嫁がせ、さらにそこの当主との間に儲けた子を、次の将軍に推すつもりだとか。」
そう言うので家慶は、
「それならば、そちらでその者達を取り締まればよいではないか。」
と言うと、忠邦はこう言った。
「しかし、事はそう簡単ではございませぬ。」
「どういう事じゃ。」
「一回や二回の失敗では、引き下がらぬ者達にて。そのような輩は、何をしてくるかわかりませんぞ。一番手っ取り早いのは、自らが将軍になる前にお世継ぎを決めておくことにございます。」
それを聞き、家慶は考えていた。それを聞いていたたきは、驚いたような表情をしていた。
たきはその後、茂姫のところに行った。縁側で花を活けていた茂姫は手を止め、
「まことに、そう申しておったのじゃな?」
と、少し身体の向きを変えながら聞くと、たきは言った。
「はい。この耳で、しかと聞きましてございます。」
それを聞くと、茂姫は怪訝そうな顔で庭を見ていた。
その後、茂姫は部屋にお万を呼んだ。お万は、
「まことにございます。」
と言うと、茂姫は言った。
「やはり、下心あって公方様に溶を前田家へ嫁がせたと。」
お万は、
「それだけでなく先日、お美代は父君と対面していたそうにございます。」
そう言うと茂姫は、
「何という・・・。」
と、呟いていた。するとお万は、
「これは、ちょっとした事件にございます。」
そう言うので、茂姫は顔を上げるとこう言った。
「いや、違う。これは、戦じゃ。」
それを聞き、その部屋にいた全員が茂姫の方を見た。茂姫は、決意を固めているようであった。
その頃、美代は自室の縁側に出て庭の花々を眺めていた。そして、実父・日啓の言葉を思い出した。
『そなたの、思うようにすればよかろう。』
その後も美代は、黙っていたのだった。
茂姫も、縁側に立ってこの後のことを考えていたのだった。
浄岸院(揺れ動く心は、溝を深めていったのでございました。)
次回予告
茂姫「唐橋が・・・、不貞?」
峰姫「わたくしは、あの者が許せませぬ!」
家斉「女子にしかわからぬものが、あるのかもな。」
家慶「わたくしには、どうしてよいか・・・。」
重豪「そなたなら、どうする。」
茂姫「密通じゃと!?」
峰姫「わたくしは・・・、ずっと母上の側におりとうございます。」
茂姫「何かできる事を、知っているのであれば・・・。」
登勢「あの子を、助けてあげて下さいませ。」
家斉「そなたにかかっておる。」
会沢正志斎「斉昭様こそが、次のお世継ぎに相応しいと!」
茂姫「そなたを・・・、許す。」
次回 第四十六回「愛の罠」 どうぞ、ご期待下さい!




