表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/51

第十六回 母なる心

「わたくしは、この子を幸せにしとうございます。」

「そなたであれば、きっとできる。わたくしはそう信じておる。」

「御台様!?」

「わたくしにも、子が・・・?」

茂姫は目を覚ますと、目の前に家斉がいた。

「大事ないか?」

家斉が聞くと茂姫が起き上がり、

「はい。」

と言った。家斉が嬉しそうに茂姫を見つめて、

「良かったな。わしとそなたの子ぞ。」

そう言うので茂姫は、

「はい。」

と答えた。茂姫は自分のお腹をさすりながら、

「されど未だに信じられません。」

と言うので家斉も、

「仕方あるまい。突然であったからな。」

そう言った。すると茂姫は、

「上様。」

と言うと家斉は、

「何じゃ。」

そう答えると、茂姫は家斉を見つめながらこう言った。

「上様とわたくしのお子を、宜しくお願い致します。」

茂姫そう言って、頭を下げた。それを見て家斉も笑い、

「あぁ。」

そう答えるのを聞いて、茂姫も嬉しそうに顔を上げていたのであった。



第十六回 母なる心


一七九五(寛政七)年初秋。茂姫は部屋から庭を眺めていると、

「失礼致します。」

そう言って、部屋に宇多が入ってきた。宇多が座ると手をつき、

「おめでとうございます!」

と言い、頭を下げた。それを見た茂姫は、

「あぁ。そなたのお陰じゃ。」

そう言うので宇多は顔を上げ、

「そのような。」

と言うと、茂姫は言った。

「そなたの言うた言葉達が、いつの間にかわたくしに勇気をくれていたようじゃ。それが、此度のことにつながったと思う。」

それを聞いて宇多は、

「御台様・・・。」

と呟き、茂姫を見つめていた。茂姫は自らのお腹に手を当てながら、

「やっとわたくしにも上様のお子が・・・。」

そう呟いていたのだった。

浄岸院(その知らせは、父である重豪殿にも届けられたのでございました。)

重豪は文を読み終えると、顔を上げてこう言った。

「於篤が身ごもったそうじゃ。」

それを聞いて、重豪の前にいた斉宣とお登勢が笑みを浮かべ、

「姉上に、お子が?」

「それは、まことにございますか?」

と、順番に言った。重豪は、

「あぁ、喜ばしい限りじゃ。」

そう言って、嬉しさを露わにした。すると、お登勢が急に顔を覆った。それを見た重豪は、

「どうした?嬉しいのか?」

と聞くと、お登勢が涙を拭いながら、

「はい。」

そう言うと、斉宣はこう言った。

「母上様の長年の願いが叶うのですから。」

するとお登勢は、

「あの子が無事に産んでくれたら、この上ない幸せにございます故。」

そう言った。重豪も笑って、

「そうか。されど、一番嬉しいのは於篤本人であろうなぁ。」

と言うので斉宣とお登勢は、

「はい。」

「ほんに、そうですね。」

そう言っていた。そして重豪は、

「あやつも・・・、ついに母御となる、か・・・。」

と、呟いていたのであった。

そして、その話はこの人にも届いていたのだった。

「御台に、子じゃと?」

お富が聞くと、知らせに来たお楽は顔を上げて答えた。

「はい。」

するとお富は嬉しそうに、笑った。そして、

「そうか、御台所に子ができたか。」

と言うと、お楽が続けてこう言った。

「母上様、今一度お願いがございます。わたくしの子、敏次郎を次のお世継ぎお定めになるよう、公方様にお取り計らいを。」

するとお富の顔色が変わり、

「またその話か。」

と言った。するとその横から常盤が、

「将軍の母親となれば、この上なき誉れでございますから。」

と、補足した。それを聞いたお富は、

「そういうことか。」

と言い、立ち上がると縁側の前に立った。お楽はお富の方に体を向けると、

「どうか・・・。」

そう言いかけると、それを遮るようにしてお富はこう言った。

「近頃、病も多いと聞くしのぉ~。」

それを聞き、お楽は目を丸くした。お富は、

「あと、男子じゃと二、三人は欲しいかのぉ~。」

と、わざと呟くように言った。すると常盤が、

「ならば、側室を更に増やしてみては如何かと。」

そう言うのでお富が上座に戻ってきて座りながら、

「それはよき考えじゃ。そうじゃ、旗本や各藩の家老などの名門から、気立てのよい娘がおらぬか探して参るのじゃ。」

そう命じると常盤は、

「ははっ!」

と言って頭を下げると、駆けだすように部屋を出て行った。それを見て、お楽はお富の方を見るとこう言った。

「あの、母上さ・・・。」

言いかけるとお富は、

「お楽。何でもそなたの思い通りになると思うなと申したはずじゃ。」

そう言い、立ち上がって数人の女中達と部屋を出て行った。取り残されたお楽は、悔しそうに俯いていた。

翌朝、朝の参拝に家斉が来ると、茂姫がいないのに気付いた。家斉がお富に、

「御台は?」

と聞くと、お富はこう言った。

「御台様は、子をお産みになるまで安静になさるとのこと。」

それを聞いて家斉は、

「そうですか・・・。」

と言い、上座に向かった。家斉が参拝を始めると、その後ろでその様子をお楽が手を合わせながら見ていた。その後ろでも、宇多が嬉しそうに家斉を見つめていた。

その頃、茂姫は届いた箱の蓋を開けていた。そこには、様々な玩具が揃っていた。それを見てひさは、

「あの、これは?」

と聞くと茂姫は、

「父上から届いたのじゃ。思えば父上も、笑顔でわたくしをここへ送り出してくれた。父上の存在が、どれ程わたくしの支えとなったことか・・・。」

そう言った。ひさもそれを聞いて、

「お優しかったのですね。」

と言うと茂姫は、

「今もじゃ。こうして、早くにこのような品々を送って下さるのだから。」

そう言うとひさは笑って、

「申し訳ございません。」

と言った。それを見て、茂姫は笑っていた。すると、

「御台。」

と、男の声がした。茂姫は見ると、部屋の前に家斉が立っていた。

「上様・・・?」

茂姫はそう呟いて、家斉を見つめた。家斉は部屋に入ってくると、

「そなたが来んから、わしが来てやったぞ。」

と言い、茂姫の前に胡座をかいて座った。茂姫は、

「表は、大丈夫なのですか?」

と聞くと家斉は、

「あぁ。それよりそなた、この様子はどうじゃ。」

そう聞くので、茂姫は言った。

「はい。近頃になって、やっと動いているのがわかるようになりました。」

それを聞いて家斉は嬉しそうに、

「そうか。」

と言うと、茂姫のお腹を撫でながら、

「早う生まれてこいよ。」

そう言っているのを、茂姫も笑顔で見ていた。ひさも、その様子を隣でしかと見守っていた。

その頃、表の一室では本多ほんだ忠籌ただかず戸田とだ氏教うじのりが話をしていた。

「御台様にお子が?それはめでとうございますな。」

戸田がそう言うと本多は、

「されど、次のお世継ぎはお楽様の生んだ敏次郎様をとの声が広まりつつあります。」

そう言うので、戸田は続けてこう言った。

「もしも御台様が男子を産まれた場合、公方様はそちらをお世継ぎにお定めになるのではないかという噂もございますぞ。」

すると本多は腕組みをしながら、

「やはり、公方様のご決断次第ですな。」

と言うと、戸田はこう言った。

「しかしながら、島津家ので出ある御台様が生んだ子となると、反発する者も出てくるのでは?」

本多はそれを聞き、

「御台様はお輿入れの直前に、京の近衛家と養子縁組をされております故、それは考えにくいかと。」

と言うので戸田は、

「ならば、仮に御台様のお子が男子だとしても、三男にございます。長男であられる敏次郎様が継ぐのが筋かと思いますが。」

そう言った。すると本多は、

「しかし御台様は公方様の御正室。それだけで有力視されるのもわかりまする。」

と言うと、戸田がこう言った。

「されど、将軍家光公の時は長男であるが故にお世継ぎに定まったのですぞ。」

それを聞いて本多は、

「しかし、それはもう過去のことでござる。」

と言うのを聞いた戸田は、

「はぁ・・・。」

そう言い、下を向いていたのだった。

一方、重豪は治済と会っていた。治済が、

「いやぁ、めでたい!」

と言うと、重豪に酒を注いだ。重豪も嬉しそうに、

「ありがとうございます。」

そう言い、酒を飲んだ。治済は、

「それにしても、やっとにございますな。家斉も、今年で二三じゃ。御台様もそうであろう。」

と言うのを聞いて重豪は、

「あ、はぁ。」

そう答えていた。すると治済が、

「そう言えば、そろそろ次のお世継ぎについても考えなければなりませぬなぁ。」

と言うので、重豪は言った。

「それは、まだ気が早いのではござらぬか?」

「何を言われる。家斉とて所詮人間、何があるかわかりませぬぞ。」

そう言うのを聞いて重豪は、

「今の言葉をお富殿が耳にしたら、如何思われるかな?」

と言うので治済は一瞬固まり、こう言った。

「お頼み申す!今のは、内密にしてくれぬか?」

それを聞いて重豪は、

「わかっておりまする。」

と言い、治済に酌をした。重豪は酒を注ぎながら、

「されど、わしとて御台が男子を生んでくれたら、その子を推したいと思うております。しかし、あやつがそれを望んでおるとは思えませんでな。」

そう言うのだった。それを聞いた治済が、

「それは何ゆえでござるか?」

と聞くと、重豪は言った。

「於篤は、昔から真っ直ぐな子でした。きっと、生まれてくる子を幸せにできる子じゃと、わしはそう信じております。母になるだけで、喜ばしいであろうと。」

それを聞いた治済は感嘆したように、

「なるほど・・・。」

そう呟くと、続けてこう言った。

「さすがは、あのような肝の座った女子の父上様じゃ!まさか、屋敷を抜け出すとはな。」

それを聞くと重豪も笑い、

「あ、お恥ずかしゅうございます。」

と言うと治済は、

「いやいや、わしは好きであるぞ。あのような姫は。」

そう言い、二人は暫く部屋で笑い合っていたのだった。

その後、重豪は自分の部屋にいた。すると、部屋にお登勢が入ってきた。それを見て重豪は、

「どうした?」

と尋ねると、お登勢は座るとこう言った。

「あの子のことで・・・、少し気がかりなことが。」

「於篤のことか。」

重豪は聞くと、お登勢は頷いてこう言った。

「はい。わたくしは、心配なのです。あの子が、怖がっておるのではないかと。」

「怖い?」

重豪はまた聞くとお登勢が、

「お子ができたのは、あの子も嬉しいと思います。されど無事に生まれるか、怖いのではないかと気にかかってなりません。」

そう言うのを聞いて重豪は、

「大丈夫じゃ。於篤、昔から体は丈夫じゃ。それに、怖い気持ちよりも、希望の方が大きいのではないのか?」

と言うので、お登勢は繰り返した。

「希望・・・。」

「あぁ、希望じゃ。」

重豪もそう言うと、立ち上がって屋敷の庭を見つめるとこう言った。

「わしもそなたが於篤を身ごもった時、希望を感じた。ひょっとすると、何か人の役に立つことをしてくれるのではないかと。そして御台所行きが決まった時に、確信した。徳川家を、あやつなりに支えていってくれるとな。」

それを聞いたお登勢は少し笑みを浮かべて、

「そうですか・・・。」

と、呟いた。重豪はお登勢を見つめて、

「そなたも、安心して見守ってあげるがよい。」

そう言うのでお登勢は、

「左様でございますね。申し訳ございません。」

と言い、頭を下げた。

「詫びることはない。そなたの思いは、於篤にも届いておるはずじゃ。心配いらぬと、そう思っておることであろう。」

そう言うとお登勢は顔を上げ、重豪を見ると、重豪は笑っていた。それを見てお登勢も完全な笑顔を取り戻し、

「はい。」

そう答えていた。重豪も、また庭を見つめていたのであった。

その頃、茂姫は部屋から夕日を眺めていた。するとひさが来て、

「御台様、夕餉の支度が整いましてございます。」

そう言うと返事をしない茂姫を心配に思ったひさは、

「御台様?」

と聞くと、気がついたように茂姫は振り向いて、

「何じゃ?」

そう聞くとひさは、

「夕餉の支度が・・・。」

と言うので茂姫は笑顔で、

「あぁ、すぐに参る。」

そう言って、目を夕日に戻していた。するとひさが、

「どうかされたのですか?」

と聞くと茂姫は、こう言った。

「ちと、母のことを考えておった。」

「お母上様?」

「あぁ。一橋家からわたくしを送り出してくれた。大好きな母上じゃ。」

それを聞いてひさも微笑みながら、

「はい。」

と言い、茂姫を見つめていた。茂姫は暫くの間、西の空に浮かぶ綺麗な夕日を眺めていたのであった。

ある日のこと。家斉のところに、戸田が来ていた。家斉が、

「今日は何の用じゃ。」

と聞くと戸田は顔を上げ、

「はっ。そろそろ、お世継ぎについて正式にお定めになられた方がよいかと。」

そう言うので、家斉はこう言った。

「この間も申したであろう。まだはっきりと決めるつもりはない。」

すると戸田は家斉を見つめると、

「もしや、御台様のお子が男子であることをお確かめになりたいのでは?」

と言うので家斉は、

「だとしたら、何じゃと申すか。」

そう聞いた。戸田は、

「いえ。ただ、もしも公方様が御台様のお子をお世継ぎになされたいのであれば、それを機に薩摩以外の藩が動き出すやもしれませぬ。」

そう言った。家斉が、

「どういうことじゃ。」

と聞くと、戸田はこう言った。

「薩摩と敵対している藩は、多数おります。御台様は島津の出てある故に、島津家の娘が生んだ子が次の将軍になりますと、反発の声も否めませぬ。」

それを聞いて家斉は、

「それとこれとは、別の話ではないか。」

と言っても戸田は、

「公方様が島津家を気に入っておられることは、皆知っております。それ故に、それを望んでおられるのではないかと。」

そう言うのだった。すると家斉は、

「何を言っておるのかさっぱりわからぬ。第一、御台の子が男子であるかどうかもわからぬではないか。」

そう言っても戸田はニヤリとし、

「今一度、ご決断を頂戴したく、お願い申し上げ奉りまする。」

と言い、頭を下げていた。家斉は仕方なく、それを見つめていたのであった。

その後、部屋に戻った戸田の横には、何故かお楽がいたのだった。お楽は、

「どうでしたか、公方様は。」

と聞くと戸田が、

「図太いお人よのぉ。全く口を割られん。」

そう言うのでお楽はため息をつき、こう言った。

「ほんに・・・、使えないお方。」

「何?わしはそなたが言うから、公方様にお願いしたというのに。」

戸田が言うとお楽は、

「誰も頼んでなどおりません。わたくしは相談しただけです。あなたが勘違いしただけですよ。」

そう言うので戸田は、

「よくもまぁ、そのようなことを。ならば、自分で頼みにいけばいいであろう。私の子を、お世継ぎにして下さいと、そう申せばいいだけのこと!まぁ、無理であろうがな。」

と言って笑い、立ち上がると、部屋を出て行った。お楽は、それを鋭い目つきで見ていた。

浄岸院(そしてついに、茂姫の出産の日が来たのでございます。)

一七九六(寛政八)年三月一九日。部屋では、茂姫が布を加えて頑張っていた。その隣では、数人の女中が体を支え、

「あと少しでございます!」

「頑張って下さいませ!」

と、声をかけていた。そして暫くして、部屋には産声が広がった。

それが聞こえたのか、表にいて書を読んでいた家斉はふと書から目を離した。

疲れ切った茂姫の隣で寝ていたのは、敦之助あつのすけと名付けられた赤子であった。すると側にいた常盤は嬉しそうに、

「御台様、おめでとうございます!!」

そう言い、頭を下げた。それを聞いて、茂姫も嬉しそうにしていた。

その知らせを聞いたお富は立ち上がり、

「生まれた!?」

と聞くと、知らせに来た女中はこう言った。

「はい!それも、男児にございます。」

それを聞いたお富は更に嬉しそうにし、

「そうか・・・。男子か・・・。」

と言い、天井を見つめていた。

同じく知らせを聞いたお万は生花の手を止め、

「男の子?」

と聞くと女中も、

「はい。」

そう答えた。お万は、

「そうか。」

と無表情で答え、生花を続けていた。しかしその直後、お万の顔に笑みが出ていたのであった。

そして、肝心なお楽のところへも・・・。

「男子じゃと?」

お楽もそう聞くと女中は、

「はい。敦之助様でございます。」

と言うのでお楽は、

「男子か・・・。」

そう言い、切羽詰まったような表情をしていた。

浄岸院(そしてその知らせは城中どころか、早くもこちらにも届きました。)

重豪は、一橋家に足を運んでいた。

「御台様が、無事出産?」

治済が聞くと重豪は、

「はい。しかも、男の子であると。」

それを聞いた治済は声を上げ、

「まことか!やりましたなー!!」

と言い、重豪に近寄ってきた。重豪も嬉しさを隠しきれず、

「まことに、嬉しい限りでございます!」

そう言うと、治済は重豪の手を握ると、こう言った。

「これからも、わしらの景気が良くなるよう、尽くして参りましょう!これからの薩摩は、わしらの手で守って参りましょうぞ!」

それを聞いた重豪は、

「はぁ。」

と言い、治済の手を握り返していたのだった。

お登勢はその頃、部屋で一人、文を書いていた。

茂姫は、眠っている自分の子を抱きながら見つめていた。宇多はそれを覗き込むようにして、

「可愛らしゅうございますね。」

と言った。すると茂姫は、

「大丈夫なのか?そなたのお子は。」

そう聞くと宇多は、

「乳母に預けております。」

と言うのだった。宇多は続けて、

「わたくしは、あの子の母親であることが誇りなのです。それ故、何事にも邪魔されず、伸び伸びと育って欲しいと思います。」

そう言うので茂姫も優しい表情で、

「そうか・・・。」

と言った。茂姫は赤子を見つめながら、

「先日、母から祝いの文が届いてな、わたくしが無事に子を産むか心配しておったそうじゃ。」

そう言うので宇多は、

「子を心配するのは、母としての役目でございますからね。」

と言うので、茂姫は呟いた。

「役目、か・・・。」

宇多は、続けてこう言った。

「母として、御台様のことを心配しておられたのでしょう。

「母として・・・。」

茂姫も、そう繰り返した。そして茂姫は赤子に微笑んで、

「そうかもしれぬな。」

そう言った。赤子は、茂姫の腕の中で眠り続けていた。

一方、斉宣は重豪のところにいた。重豪は、

「於篤の子が、世継ぎになってくれると良いがの。」

そう何気に呟いた。すると斉宣は、

「しかし、長男である敏次郎様が最も有力と聞きました。いくら正室の子であるといっても、三男ではそれは難しいのではないかと存じます。」

と言った。重豪は、

「しかしのぉ、公方様がどのように思われておるかが鍵となってくるであろう。」

そう言うのを聞いて、

「公方様が・・・。」

と呟いた。そのすぐ後、斉宣は家斉から聞いた言葉を思い出した。

『そなたと、また話がしてみとうなった。』

『そなたは姉上に似て、面白いのぉ。』

すると重豪は話を変え、

「して、そなたの子はどうなっておる。」

と聞くと、斉宣は答えた。

「はい。日々、学問に励んでおります。」

それを聞くと重豪は安心したように、

「大事な跡継ぎじゃ。呉々も、教育には手を抜かぬよう伝えおくのじゃ。」

と言うと斉宣は笑い、

「はい。」

そう答えていた。重豪も、嬉しそうに二回程頷いていたのだった。

そして、大奥では・・・。お富が部屋にいると、お楽付の女中が走ってきた。

「大変にございます!」

と言うのでお富は、

「騒々しい、何事じゃ。」

そう聞くと、女中は言った。

「お楽様のお姿が、お見えにならないのです!」

するとお富は、

「そのようなことで騒ぐでない。」

と言うと、女中は続けて言った。

「さ、されど・・・。」

「何じゃ。」

「大奥中、何処を探しても見つかりませぬ故、表との堺の扉を開けさせたのではないかと。」

それを聞いてお富は、呟いた。

「まさか・・・。」

お富は背を向けると、

「すぐに表に知らせるのじゃ!」

と言った。それを聞いた女中は、

「はい!」

そう言って頭を下げ、部屋を出て行った。お富はその後、

「何たることじゃ・・・!」

そう、呟いていたのだった。

そして、表の家斉の前にお楽は頭を下げていた。家斉は、

「何の用じゃ。」

と尋ねると、お楽は顔を上げずにこう言った。

「お世継ぎの件にございます。」

それを聞いて家斉は、

「そのことについては、まだ決めておらぬ。」

と言うと、お楽は顔を上げて言った。

「ご無礼お許し下さい。されど、お世継ぎの件、お願い申し上げたいのです!」

家斉は、

「何故そこまでして、己の子を将軍にしたい。」

そう言った。お楽は、こう話した。

「わたくしの家系は、決して裕福ではございませんでした。父は・・・、死の間際にこう言いました。”楽をさせてやれずにすまぬ”と・・・。わたくしは、父と約束したのです。大奥に仕え、大事を成すと。わたくしは、父があの世で誇れるような者になりたいと、そう誓ったのでございます。父のために、側室となり、子を産み、公方様を支えて参りました。わたくしには、それぐらいのことしかできませぬ。されど、父上との約束が果たせたとはまだ言えません・・・。今一度、お願い申し上げます。公方様!」

お楽は、そう言って頭を下げた。それを見て家斉は、少し考えてからこう言った。

「相分かった。暫し、考えておく。」

それを聞いたお楽は顔を上げて、

「まことにございますか?」

と聞くと家斉は、

「あぁ。」

そう答えた。すると、

「公方様、騙されてはいけません。」

そう言う声が聞こえた。部屋に入ってきたのは、お富であった。それを見て家斉が、

「母上・・・。」

と言うと、お富は家斉にこう言った。

「今のは、この者の出まかせにございましょう。公方様にまでお願いしに来るとは、図々しいにも程がございます。」

お富は家斉に笑いかけ、お楽の襟を掴んで連れて行こうとした。お楽は必死に、

「違います!今の話は、まことにございます!お願い致します、公方様!」

と叫ぶようにして言った。お富はお楽を引きずりながら、

「ええい、黙るのじゃ!」

そう言い、部屋の外に連れ出していた。

「公方様、公方様~!!」

お楽は、引きずられながら何度もそう叫んでいた。家斉は、複雑な気持ちになっていたのであった。

茂姫はその頃、部屋で一人籠の中で眠っている敦之助を見つめていていた。そして、ゆっくりとその肌に触れていたのだった。

そして表の一室で、老中達が話していた。本多忠籌が、

「今おられるお世継ぎは、御台様の敦之助様、お楽様の敏次郎様、そしてお宇多様の敬之助様にとなっておりまする。」

と、説明した。すると三河・吉田藩主の松平まつだいら信明のぶあきらが、

「有力なのはやはり、長男の敏次郎様、そして正室であらせられる御台様のお子・敦之助様でございますなぁ。」

と言うと本多は、

「次男の敬之助様は、もう既に養子入りが決まっておりまする。」

そう言うと信明らは、

「だとすると・・・、世継ぎ争いはお二人に限られますなぁ。」

と言うと、信明らが目の前にいた戸田に聞いた。

「戸田様は、どうお考えでしょうか。」

二人の会話を聞き流していた戸田は不意をつかれたのようにハッとし、

「あ、あぁ。わたくしとしては・・・、長男の、敏次郎様を推したいかと。」

そう言った。それを聞いて信明らは、

「左様ですか・・・。」

と言い、系図を眺めていた。本多は、戸田の様子を不審な目で見つめていたのだった。

その夜、茂姫に家斉からのお渡りがあった。寝室で二人は話していると、家斉がこう言った。

「今日、お楽から世継ぎの話をされてな。」

「お世継ぎ、にございますか。」

家斉は続けて、

「そろそろ、決めねばならぬかの~。」

そう言うのを聞いて茂姫は、

「されど、まだ早いのでは?長男の敏次郎様も未だ幼く、敦之助も・・・。」

と言うと、家斉は言った。

「そなたは、どう思う。そなたの子を、世継ぎにしたいとは思わぬのか?」

それを聞いた茂姫は、

「わたくしは・・・、そうは思いません。わたくしはあの子に、重荷を背負わせとうはございませぬ。お世継ぎとなれば、様々なことがあの子を苦しめると思います。なので、わたくしは上様にあの子にあった生き方を選んで欲しゅうございます。」

と言うので、家斉は笑い、言った。

「そなたらしいな。」

それを聞いて茂姫も嬉しそうに、

「はい!」

と、答えていたのだった。茂姫は愛おしそうに家斉を見つめるので家斉が、

「如何した。」

そう聞いた。すると茂姫は笑い、

「いえ。ただ、上様とわたくしの間に子が出来たということが、嬉しゅうございます。これ以上の喜びは、他にございませぬ。」

と言うので家斉も、

「そなた、以前申しておったな。わしを支えると。」

そう言うので、茂姫は言った。

「はい。婚儀の時、わたくしはあなた様を守ると決めました。わたくしは、上様に出会えてほんにようございました。あなた様となら・・・、きっと色々なことできると思います!」

それを聞いて、家斉もこう言った。

「わしもそなたのような面白き女子に出会えてよかったと思う。」

その言葉を聞いて茂姫は涙ぐみ、

「上様・・・。」

と、呟いた。すると、家斉は茂姫に近づいたと思うと、抱きしめた。茂姫は目を閉じ、いつまでも家斉の温もりを感じていたようであった。

その後、お富の部屋にある女子が来ていた。お富は、

「面を上げよ。」

と言うと、その女子は顔を上げた。それは、おちょうという娘であった。お富は、

「そなた・・・、出は何処じゃ。」

そう聞くと、お蝶は答えた。

「はい。父は奉公人・曽根そね重辰しげときにございます。長年にわたり、徳川様にお仕えした旗本家にございます。」

お富は、

「そなた実家で、子供に生け花を教えておったそうじゃな。」

そう聞くとお蝶は、

「はい。子供の頃、母から教え込まれました。」

と答えた。それを聞いたお富は微笑み、

「そうか。ならば、このお城に上がることについて、どう思うておる。」

そう聞くとお蝶は、こう答えたのだった。

「全ては、公方様の御為に、尽くして参ります。この身を呈してお守りし、将軍職を補佐するのがお仕えする者の役目と心得ております。」

それを聞いたお富は嬉しそうにし、常盤と顔を見合わせた。常盤も、軽く頭を下げた。そしてお富は再びお蝶の方に目を戻すと、

「左様か。ならば、宜しく頼むぞ。」

そう言った。お蝶は手をつき、

「ありがとう存じ上げまする。」

と言い、頭を下げた。お富は、それを嬉しそうに眺めていたのであった。

浄岸院(このお蝶という名の娘はのちに、家斉様の側室となって七人の子を産み、この大奥の側室の中で、一番権力を担うこととなるのです。)

茂姫は、部屋で書を読んでいた。すると、

「ご無礼仕ります。」

そう言う声がするので、茂姫は顔を上げた。そこに入ってきたのは、お蝶であった。お蝶は座って手をつき、こう言った。

「御台様、お初にお目にかかります。」

茂姫は、

「誰じゃ?」

と聞くとお蝶は、

「先だって、大奥に御次として上がった、お蝶にございます。御台所であらせられる茂姫様には、ぜひお見知りおきをと思いまして。」

そう言うのを聞いて茂姫は、

「そうか。」

と言って書に目を戻そうとするとお蝶は続けて、

「それともう一つ・・・。」

そう言うので、茂姫は再びお蝶の方を見た。お蝶は、

「御台様は先日、子を授かられたとお聞き致しました。」

そう言うので茂姫は、

「そうじゃが・・・。」

と言った。お蝶は、

「お富の方様から、お伺いしたところ、御台様は子供の扱いに今一つ慣れておられないご様子。」

そう言うので茂姫は、

「それは・・・。」

と、声を上げていた。するとお蝶は続け、

「わたくしは以前より、幼き子供達と生花をしておりました。それ故、幼い子の扱いには少々慣れております。」

そう言い、手をついてこう言った。

「わたくしはお富様より、子供の扱いについて教えるようにと申しつかりました。その子が安心して巣立ちの日を迎えられるよう、わたくしが、御台様を教育致します。」

それを聞いた茂姫は目を丸くして、

「教育・・・?」

と呟き、お蝶を見つめていたのだった。



次回予告

茂姫「わたくしの敦之助を、次の将軍に定めて頂きたく存じます。」

本多「いよいよにござるか・・・。」

斉宣「何故、今決める必要があるのでしょうか。」

お楽「わたくしの願いはただ一つにございます!」

お万「あの者にはお気をつけ遊ばされませ。」

重豪「もはや、これは戦じゃ。」

お登勢「戦・・・。」

家斉「そなたを信じておった。」

茂姫「これが、わたくしの決意にございます!」

家斉「世継ぎを決めた。」

  「次の世継ぎは・・・・・・。」




次回 第十七回「世継の行方」 どうぞ、ご期待下さい!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ