第十五回 女の願い
茂姫は、夜中にふと目を覚ました。起き上がり、辺りを見渡した。すると、どこからか三味線の音が聞こえてきた。茂姫は部屋の中から、廊下を覗き込むようにした。
暫く歩くと、茂姫は足を止めた。向こうの宴などが行われる、大きな木がある休憩所で、一人の男が三味線を弾いていた。茂姫はその男に恐る恐る近づき、ある程度の距離まで来ると、茂姫の表情が変わった。そして茂姫は、男に声をかけた。
「上様・・・?」
その男は、振り返った。そう、三味線を弾いていたのは一一代将軍・家斉であったのだ。茂姫は、
「何をされているのですか?」
と聞くと、家斉は答えた。
「眠れぬでのぉ。」
そして目の前の木を眺めて、
「この木は、春になると満開の桜が咲くのじゃ。」
と言うと、茂姫もこう言った。
「わたくしも、それは存じております。でも、何故今宵なのですか?」
「綺麗な月じゃ・・・。」
家斉は、そう呟いた。それを聞き、茂姫も上を見上げた。そこには、丸い月が輝いていた。
「まことにございますね・・・。」
茂姫も、うっとりとしながらその月を眺めていた。すると、茂姫は家斉の横に腰掛けた。家斉もそれを見て少し笑い、前を見つめながら三味線を弾き、歌を口ずさんでいた。茂姫もそれを聞きながら、月を眺めていた。
第十五回 女の願い
一七九四(寛政六)年一〇月。
「父上!」
と言って、家斉に飛び込んできたのは嫁に出たはずの淑姫(六歳)であった。それを、茂姫とお万も見ていた。茂姫が、
「まさか、縁談の相手が幼くして亡くなられるとはな。」
と言うとお万は、
「今、次の縁談の相手を探して頂いております。」
そう言った。それを聞いて茂姫は、
「そうか。」
と言い、淑姫を見つめた。淑姫は、楽しそうに家斉と戯れ合っている。するとお万は茂姫の方を向いて、
「されどわたくしは、あの子を幸せにできるお方であれば、何方でもよいと思っております。」
そう言うので茂姫は、
「何方でも、のぅ・・・。」
と、呟いていた。お万は続けて、
「女子の願いはただ一つ、己のお子の幸せなのだと思います。」
そう言うのを聞いて茂姫も微笑みながら、
「そうじゃな。」
と言い、その後も二人は家斉と淑姫を見ていた。
薩摩藩邸では、重豪が部屋に斉宣を読んでいた。
「忠持殿ですか?」
斉宣が聞くと重豪は、
「あぁ、そうじゃ。佐土原藩の九代当主で、わしの義理の甥に当たる者じゃ。その者に、そなたの話をしたら意外に興味を示してな。会いたいと言うてきおった。」
そう言うと斉宣が、
「そうですか・・・。」
と返答した。重豪は続けて、
「そのものは以前、幕府に海防に関する意見書を提出しておる。」
そう言うのを聞いて斉宣は、
「まことですか?」
と聞いた。重豪は頷き、
「今後、この国がどう動くか、常に考えておる男じゃ。異国とどう向き合うか、そなたの意見が聞きたいそうじゃ。」
そう言うのを聞いて斉宣は、
「わかりました。わたくしも会うて話を聞きとうございます。」
と言うのだった。重豪もそれを聞き、
「相分かった。こちらから話しておく。」
と言うと斉宣は、
「ありがとうございます。」
そう言って、父を見つめていた。
そして、大奥では・・・。宇多、お万、ひさ、そしてもう一人の女性が菓子を囲って話をしていた。宇多は菓子を食べながら、
「わたくしは、御台様があのお方で良かったと思います。」
と言うのでお万が、
「何故じゃ。」
と聞いた。宇多は、
「今までの御台様は、話によれば側室を虐めておられたとか。されど家斉公の代の御台様は、お優しい、それに心が座ったお方にございます。あのようなお方が御台様なんて、わたくしたちは幸せです。」
そう言うのを聞いて、お万は言った。
「でも真面目すぎて、他の側室からは嫌われておられるやもしれませぬ。」
すると宇多は、こう聞いた。
「お楽様ですか?」
それを聞いていたひさが、
「お楽様は、ここへ呼ばれぬのですか?」
と聞いた。するとお万は、
「あの者が側におると、話を乱される故な。自分のお子を世継ぎにするよう公方様に勧めて欲しいと、毎日のようにお富様にお頼みしているとか。あのような者がおるから、公方様も動かれぬのじゃ。」
と、言った。宇多は、
「それに、密かに公方様とお会いしているとか。」
そう言うとお万は、
「わたくし達にお渡りの知らせが来ぬのは、お楽が邪魔しておるからだということは、側室は誰でも知っておろう。」
と言うのを聞き、宇多はこう言うのだった。
「しかも、それを御台様のせいにしているそうです。許せない!」
すると聞いていたひさが話を変え、
「お宇多様は、お子は欲しゅうないのですか?」
と聞いた。すると宇多は、
「欲しいに決まっておるではないか。」
そう言うとひさは、
「申し訳ございません。」
と言い、引っ込んだ。すると宇多は、
「そうだ・・・。今夜、久々に公方様からお渡りの知らせが参ったのです!」
と言うのでお万は、
「良かったではないか。」
そう言った。ひさも、
「おめでとうございます!」
と言い、宇多がこう言った。
「公方様も、わたくし達側室のことも、ちゃんと見えておいでなのですね。」
そう言うと宇多は、
「ねぇ、お志賀殿。」
と、隣にいる側室・お志賀の方を向いて言った。お志賀は戸惑いつつも、
「あ、はい。」
そう答えていた。宇多はその後、またもや菓子に手を伸ばしていた。
浄岸院(それから数日後・・・。)
斉宣は、ある人物に会っていた。
「いやぁ、そなたが斉宣殿か。一度会うてみたいと思っていたところじゃ。」
そう言ったのは、佐土原藩第九代藩主・島津忠持であった。斉宣も、
「はっ。」
と言い、軽く会釈していた。すると部屋に一人の娘が入って来て、茶と茶菓子を差し出した。
「どうぞ。」
そう言うので斉宣も、
「どうも。」
と言い、軽く御辞儀をした。忠持は、
「妻の雅じゃ。わしが重豪様の息子に会うと言ったら、どうしてもついて行きたいというて来てな。」
そう説明した。すると雅姫が顔を上げ、
「雅と申します。」
と言うと忠持は、
「元々は、重豪様の養女であった。」
そう言うので斉宣が、
「父上の?」
と聞くと忠持が、
「御台様にもお城へ上がる直前、お会いしておるそうじゃ。」
そう言った。斉宣は、
「そうでしたか・・・。」
と言い、雅姫を見ると雅姫は軽く頭を下げた。雅姫が出て行くと、忠持はこう言った。
「そなたは、薩摩藩主になって何年程になる。」
それを聞いて斉宣は、
「はい。間もなく八年になります。」
と答えた。すると忠持は、
「以前、お城に意見書を送られ、儒学者の林殿と対面し、意見されたそうじゃが。」
そう言うので、斉宣は少し恥ずかしそうに言った。
「あ、はい。」
「何を話されたのじゃ?」
忠持がそう聞くと、斉宣はこう言った。
「率直に申し上げますと、わたくしはこの国は開国をすべきと存じます。」
「何故じゃ?」
「異国には・・・、様々な技術者がおります。鉄砲や軍艦など、様々な武器がそろっております。このままでは、日本は到底異国に追いつけませぬ。まして、渡り合おうなど・・・。日本の技術は、まだまだ未熟です。なので開国し、異国の文化を取り入れるべきだと思います!」
すると忠持が、
「それは・・・、異国の真似になるのではないのか?」
と聞くと斉宣が、
「決して真似ではありません。異国の文化を取り入れることにより、日本の独自の文化を作り上げていくことこそが、今後この国に求められるものではないかと。」
そう言うのだった。それを聞いた忠持は、
「成る程・・・。」
と言い、こう言った。
「されど、それは違う。」
それを聞いて斉宣は、
「何ゆえ、そう思われるのですか?」
と聞いた。すると忠持は、こう答えた。
「もしも今鎖国を行えば・・・、間違いなく異国に侵略されてしまう。」
「何故そのように言い切れるのですか?」
「よいか?異国は、この国へ来たくてしょうがないのじゃ。それは、文化を広めるためでもなんでもない、この国を己の国に従わせたいのじゃ。もしそうなれば、この国はあれ、内戦が繰り広げられ、やがては滅んでしまうやもしれぬ。」
「そのような・・・。」
忠持は立ち上がると、
「そなたの意見はようわかった。されど、残念であった。藩主とあらば、もっと優れておるかと思ったが、どうやらこちらの誤算だったようじゃ。」
そう言い、部屋を出て行った。斉宣は、部屋に取り残された後、悔しそうに膝で拳を握り締めていた。
その後、斉宣は薩摩藩邸に戻ってきていた。重豪が、
「どうであった?忠持殿は。」
と聞くと、斉宣はこう言った。
「何故皆、鎖国を守りたがるのでしょう。」
それを聞いた重豪は、
「この国は鎖国で成り立っておる。それでは、異国は簡単に足を踏み入れられぬからな。」
と言うのを聞いて、斉宣は言った。
「されど・・・、それはおかしいと思います!」
すると重豪は、
「今開国すれば、奴らはこの国を侵略しにくるかもしれぬぞ?」
と言うので斉宣は、
「父上まで、あの方と同じようなことを。」
そう言うと、重豪は言った。
「時を待つのじゃ、斉宣。いずれ時間が経てば、開国する時が来る。満を辞すのじゃ。必ずいつの日か、そなたの意見が通る日が来よう。わしはそう思うておる。」
「父上・・・。」
そう言って、斉宣は父の重豪を見つめた。重豪も、斉宣を見て笑っていた。斉宣もそれを見て、笑い返すのだった。
江戸城大奥では、茂姫の所に宇多が来ていた。宇多が、
「御台様。」
と言うと茂姫は、
「どうしたのじゃ、改まって。」
そう聞いた。する宇多は真剣な眼差しで、こう言った。
「御台様には、やはり話しておくべきと思い、参りました。」
「何じゃ。」
「わたくし、近頃体の調子が優れぬと思い、医師に相談したところ、お腹の中にやや子が宿っておるということがわかった次第、急ぎ御台様に知らせに参りました。」
それを聞いた茂姫は少しばかり動揺したように、
「身ごもっ、たのか?」
と聞いた。すると宇多は、
「はい。」
そう答えた。すると茂姫から笑みがこぼれ、宇多の方へと駆け寄って来た。そして茂姫は宇多の方に触れると、
「よかったではないか。」
そう言うので、宇多も嬉しそうに、
「はい!」
と答えていた。茂姫は、
「これでそなたも、将軍家の母となったのか。」
そう言うのを聞いて、宇多はこう言った。
「そのような・・・、わたくしにはまだ荷が重すぎます。」
すると茂姫が、
「何を言うのじゃ。そなたのこれから産む子が、のちの将軍とお成り遊ばすかも知れぬのだぞ。」
と言うと宇多は驚いたように、
「将軍に・・・?されど、それはお楽様の子では・・・。」
と聞くと、茂姫はこう言った。
「最後には、上様ご本人がお決めになることじゃ。そなたの子にも、望みはある!」
それを聞いた宇多は嬉しそうに、
「はい!」
と言い、茂姫を見つめていた。
その後、宇多は嬉しそうにお腹に手を当てながら廊下を歩いていた。
「わたくしの子が・・・。」
そう呟いていると、向こうからお楽しみが女中を一人引き連れて歩いてくる。宇多はお楽が来ると、軽く会釈をして過ぎようとした。するとお楽が引き止め、
「待て。」
そう言った。お楽が宇多の方に歩いてくると宇多は、
「何でしょう。」
と聞いた。お楽は、
「そなた、赤子を儲けたようじゃな。」
そう言うと宇多は、
「はい。」
と答えた。するとお楽は、
「嬉しそうじゃな。」
そう言うので宇多は、
「はい。嬉しゅうございます。」
と答えるのだった。お楽はそれを聞き、
「まさかそなた、己が産む子が男子であれば、次の将軍になって欲しいなどと思っておらぬか?」
そう聞いてくるので宇多は戸惑い、
「それは・・・。」
そう言っていると、お楽はこう言った。
「そなたが何をしてこようと、次のお世継ぎはわたくしの敏次郎と定まっておるのじゃ。」
そしてお楽は口を宇多の耳に近づけ、
「あまり調子にのるでないぞ。」
と囁くようにして言うと、向こうへ行こうとした。すると宇多は振り返って、
「されど御台様は、公方様がお決めになると。」
と、言い返した。するとお楽も振り向き、
「御台所の話など、当てにするでない。かつて将軍家は、長男が継ぐというもの。それは公方様とてお望みのはずじゃ。次男より下は・・・、養子に出してせいぜい外様大名の御当主じゃなぁ。」
そう嘲笑いながら言うと、また前を向き、歩いて行ってしまった。宇多は、それを悔しそうな表情で見ていたのであった。
その頃、ある一室で老中の本多忠籌と、同じく老中の戸田氏教が話していた。戸田が、
「薩摩に、藩校が設置されるそうにございますなぁ。」
と言うと本多は、
「公方様自らが藩主の斉宣殿に勧められたそうです。」
と、腕組みをしながら言った。それを聞いた戸田は、
「何ゆえにございましょうなぁ。」
そう疑問を持ったように言うと、本多はこう言った。
「公方様は、島津家をたいそうお気に召されたご様子。それに斉宣殿が御台様の弟となれば、公方様とも兄弟に間柄となります。斉宣殿は以前、幕府に鎖国に関する意見書を出されたとお聞きした。そこを買っておいでなのでしょうな。」
それを聞いて戸田は、
「ならば公方様が気に入られるのも無理はない。それに、数人のご側室が懐妊する中で、お次は御台様ではないかという噂まで立っております。これでは、ますます島津家の名が世に広まるというもの。御台様が男子を産めば、それこそ二代将軍秀忠公の御台所以来となりまする。お次の継嗣問題も、行く末が変わってくるやもしれませぬ。」
そう言うと、本多は考えるようにして言った。
「しかしのぅ・・・。」
「何か、おありなのですか?」
戸田は聞くと本多が、
「あいや。されど公方様のお世継ぎは、今のところお楽殿が生んだ敏次郎様とされております。まぁ、最終的には公方様ご本人がお決めになることです故。」
そう言うのを聞いて戸田も、
「はぁ・・・。」
と、返していた。本多は、目を瞑って考えていたのだった。
浄岸院(それから、数日が経ち・・・。)
重豪は、部屋に斉宣を呼んでいた。重豪は、
「そなたに、再び登城せよとの知らせが参った。」
そう言うのを聞いて斉宣は、
「まことですか?」
と聞いた。すると重豪は、
「あぁ。此度も、公方様の思し召しじゃそうじゃ。」
と言うので、斉宣は嬉しそうな顔をした。するとその笑みが消え、あることを思い出していた。暫くすると重豪は不思議そうに、
「如何した?」
と聞いた。すると斉宣は、
「あ、はい。以前、公方様とお会いした際・・・。」
そう言って、あの時家斉が言ったことを話した。
『そなたは姉上に似て、面白いのぉ。』
それを聞いた重豪は、
「そうか・・・、そのようなことを。」
と呟いた。斉宣は、
「はい。わたくしは、公方様とは義理の間柄故、そのようなことを言って頂くのは誠に光栄です。ただ・・・。」
と言うので重豪は、
「何じゃ?」
そう尋ねた。すると斉宣は、こう言うのだった。
「公方様は、まことにわたくしを、いや薩摩を気に入っておいでなのでしょうか。」
「それは?」
「姉上が薩摩でであるが故に、興味を持っておられるのではないかと。」
斉宣がそう言うので重豪は怪訝そうに、
「疑っておるのか?」
と聞くと斉宣は、
「いえ、そのような。ただ、本当かどうか・・・。」
そう下を向きながら言った。すると重豪は、
「ならば、この機会に聞いてみてはどうじゃ。」
そう言うので斉宣は顔を上げ、
「そのような・・・。」
と言うと重豪が、
「物は試しというではないか。公方様にお尋ねしてみるがよい。」
そう言うのを聞いて、斉宣は少し戸惑った後、顔を上げて、
「はい。」
と言い、重豪を見ると重豪も、斉宣を見つめ返していた。
その頃、布団の上に、宇多が座っていた。その隣で茂姫が、
「具合はどうじゃ。」
と尋ねた。宇多は、
「大丈夫です。」
そう答えた。茂姫は微笑み、
「嬉しいであろう。自分のお子を抱けるのだから。」
と聞くと、宇多は茂姫にこう聞いた。
「御台様は、悔しくはないのですか?」
「何がじゃ?」
「また、側室に先を越されて・・・。」
それを聞いた茂姫は少し顔を曇らせ、優しそうな表情になってこう言った。
「よいのじゃ。側室であっても、子ができるとなると喜ばしいではないか。」
それを聞き、宇多も安心した表情で、
「そうですね。わたくしは、この子を幸せにしとうございます。」
と、自分のお腹に手を当てながら話した。茂姫も嬉しそうに、
「そなたであれば、きっとできる。わたくしはそう信じておる。」
そう言った。宇多も、
「はい!ありがたきお言葉、嬉しゅう存じます。」
と言うので、茂姫も微笑んでいた。
その後日、家斉の前に斉宣が平伏していた。家斉が、
「面を上げよ。」
と言うと、斉宣が顔を上げた。斉宣は、
「此度のお目通り、誠に有り難き幸せに存じ上げ奉ります。」
そう言うので家斉は、
「まぁ、そう固くなるでない。どうじゃ、施設の設置は進んでおるか?」
と聞いた。すると斉宣が、
「はい。お陰様で、順調に進んでおります。」
と言うのを聞いて家斉も、
「そうか。」
そう言い、安心していた。それを見て斉宣は、
「あの・・・。」
と言うと家斉が、
「何じゃ?」
そう聞くと、斉宣はこう聞き返すのだった。
「恐れながら、他に用は・・・。」
それを聞いて家斉は、急に笑い出した。そして家斉は、こう言った。
「別に用などない。そなたと、また話がしてみとうなった。」
すると斉宣は数秒黙った後、思い切ったようにこう言った。
「あの、公方様。お聞きしたきことがございます。」
「何じゃ?」
家斉は聞いた。斉宣は、
「公方様は以前、わたくしは姉に似ていると仰せでした。あれは、どういう意味でございましょうか。」
と聞くと、家斉は考えながらこう言った。
「そうじゃのぅ。あの時のそなたの目が、幼き頃のあやつに似ておったからかのぉ。」
「目、にございますか。」
「あぁ。あの者は白に上がる前、わしに己は男の道具にはならぬと言うたのじゃ。」
『私は誰の嫁にもなりません。私は、道具にはなりませぬ!!』
「あの時の目が、そなたにどこか似ておる気がしてな。」
「はぁ・・・、左様でございますか。」
斉宣は家斉の話を聞き、少し嬉しそうにした。家斉は斉宣の顔を覗き込むようにして、
「これでわかったか?」
と尋ねた。すると斉宣は顔を上げ、
「はい!ありがとうございます!」
そう言うのを見て、家斉も微笑していた。斉宣は、しばらく嬉しそうな顔をしていたのだった。
その頃、茂姫は部屋で書を読んでいた。ある話を耳にした茂姫は、
「斉宣殿が?」
と言いながら、常盤を見ると常盤が言った。
「はい。公方様が今日、お城へお呼びしていると伺っておりまする。」
それを聞いて茂姫は書に目を戻し、
「そうか・・・。」
と言い、嬉しそうな顔になっていた。すると顔を上げ、
「そうじゃ!」
そう呟くのだった。
斉宣は廊下を歩いていると、後ろから声がかかった。
「あの!」
それを聞いて、斉宣は振り返った。そこに座っていたのは、ひさであった。斉宣は、ひさをまじまじと見つめていた。
斉宣は部屋で平伏していると、部屋に茂姫が入ってきた。茂姫は上座に座ると、
「面を上げて下さい。」
と言うと、斉宣は顔を上げた。茂姫はそれを見て、
「半年ぶりですね。」
そう微笑みながら言った。斉宣は少し恥ずかしそうに、
「あ、はい。」
と言った。すると茂姫は立ち上がり、進んできて斉宣の目の前に座った。
「此度の登城、ご苦労様です。」
「はっ。」
「時に、お梅の様子は?」
茂姫がそう聞くと斉宣は俯き、
「いえ、その・・・。実は・・・。」
と言っているのを聞いて茂姫は悟ったように、
「そうでしたか。やはり・・・。」
そう言った。すると斉宣が顔を上げ、
「しかし、あの人は最期までわたくしの側にいて、それに、物凄く幸せそうでした。」
と、お梅の姿を思い出しながら言った。すると、茂姫がこう言った。
「それでよいのです。あなたに任せて正解でした。あの者も、悔いはなかったでしょう。ありがとうございます。」
そして茂姫は、頭を下げるのだった。それを見て斉宣は、
「いえ、そのような。」
と言っていた。すると茂姫は顔を上げると、
「時に、今日は上様とどのような話をされたのですか?」
と聞くので、斉宣は戸惑いながらこう言った。
「あ、はい。以前、わたくしが登城した際、公方様はこう言っておいででした。”姉上とわたくしは似ている”と。」
茂姫はそれを聞いて首をかしげ、
「わたくしと、あなたが似ている?」
と聞くと、斉宣はこう答えた。
「わたくしはどうしても、あのお言葉が、忘れられません。今日、そのことをお聞きしたところ、こう仰せでした。」
『あの者は白に上がる前、わしに己は男の道具にはならぬと言うたのじゃ。』
『あの時の目が、そなたにどこか似ておる気がしてな。』
その話を聞いた茂姫は少し笑い、
「そうですか・・・。上様はそのようなことを。」
と言うのだった。すると斉宣は、
「わたくしはその時、まことの兄のような気がしたのです。あのような方が、わたくしの兄上様であればよいなと・・・。」
と言うので茂姫は、
「何を言われるのです。上様は、あなたの兄上なのですよ?」
そう言うのを聞いて斉宣は少し驚いたように、
「わたくしの・・・?」
と呟くと茂姫も、
「はい。」
そう言うのだった。すると斉宣は嬉しそうな顔になり、
「ならばわたくしも、これからは兄上様とお呼びしても宜しいのでしょうか。」
と言うと茂姫も笑い、
「勿論でございます。」
そう言うのを聞き、斉宣は嬉しそうに笑っていた。部屋の隅でひさも、二人が笑い合っているのを見守っていた。
その夜、茂姫は寝間で家斉にそのことを話した。茂姫は、
「斉宣殿は、やはり優しい方なのですね。」
と言うと家斉が、
「そう思うか?」
そう聞いてくるので、茂姫は言った。
「はい。お梅の時も、よく決心してくださいました。泣いてばかりであった弟とは思えぬほど、成長しておりました。」
「そうか。」
家斉はそう言うと、
「よし、今宵は休むとしよう。」
と言い、布団に入った。それを見て茂姫は、
「上様?」
そう声をかけると家斉は、
「そなたも疲れたであろう。」
と言い、横になって目を閉じた。すると茂姫は、話しかけるようにしてこう言った。
「上様。上様は以前、斉宣殿とわたくしが似ておると申したそうですね?」
「それが何じゃ。」
家斉は、目を閉じたままそう答えた。すると茂姫は笑顔で、
「それは、あの方が上様の弟故にございます。」
と言うので家斉は目を開けて茂姫の方を見ると、
「弟じゃと?」
そう言った。茂姫は、
「はい。わたくしは、上様の妻。即ち、斉宣殿は上様の弟なのです。それ故、そう感じられたのでございましょう。」
と言うので家斉は、
「弟、のぅ・・・。」
そう呟いていると茂姫も、
「はい!」
と、言っていた。すると家斉も笑い、茂姫の顔を見ると、
「そうかもしれぬな。」
そう言うのだった。それを聞いて茂姫も笑顔のまま、
「はい。」
と答えた。茂姫はそのあと、家斉に優しく声をかけた。
「上様。」
「何じゃ。」
「わたくしも、早う上様のお子を抱いて見とうございます。」
「何ゆえじゃ。」
家斉が聞くと、茂姫は言った。
「わたくしは、間もなく二三となります。側室達が次々に身ごもる中、わたくしだけが取り残されておるように思えて仕方ありません。なので、わたくしも上様のお子を抱きとうございます。」
それを聞いて家斉は、
「そなたにも、そのような気持ちがあったのか。」
と言うので茂姫は、
「勿論にございます。」
そう言った。家斉もそれを聞き、鼻で笑っていたのだった。
その後、茂姫は眠っている家斉の隣で横になっていた。寝返りを打って、家斉の方を見ると、少しばかり嬉しそうに笑っていた。
浄岸院(そして、ついに年が明け、寛政七年春。城に、新たな命が誕生致しました。)
一七九五(寛政七)年。大奥では、産声が響き渡っていた。宇多の隣で寝ていたのは、敬之助という生まれたばかりの赤子であった。茂姫は、敬之助の寝顔を見て微笑んでいた。
その後、茂姫は部屋で文を読んでいた。それは、斉宣からであった。そこには、こう書かれていた。
『御台様。薩摩では今、着々と藩校設立の準備が進められております。されど、いくら徳川家公方様の勧めでも、反対する者も多数おります。わたくしは、まことにこれで良かったのかと思うこともありました。しかし、迷っていては前に進めぬと思い、決意致しました。薩摩藩の頂点に立つ者として、できる限りのことを積極的に取り組んでいこうと。いくら家臣達から反対されようと、己が正しいと思った道を選びとうございます。それに、父上を見習って様々なことに挑戦したいとも思います。わたくしは、一度決めたことを決して諦めません。』
それを読み終えると、茂姫は顔を上げて呟いた。
「誰も彼も、味方ばかりではないということじゃな。」
ひさも、部屋の外からこっそりとその様子を伺っていたのだった。
重豪は斉宣から話を聞き、こう言った。
「まことか。そなたと於篤が似ておるか。」
斉宣も赤くなりながら、
「はい。初めは、何と言っていいやらわかりませなんだが。」
と言うと重豪は、
「実の兄弟故、思うところがあるのではないか?」
そう聞くのだった。斉宣は、
「いえ。ただわたくしは、姉上が好きでございます。」
と言った。それを聞いて重豪は笑いながら、
「そうか。これからも、御台所の弟してではなく、薩摩藩主として薩摩を支えていくのじゃ。」
そう言うのを聞いた斉宣は、
「はい!」
と答えると重豪は、
「ならばよい。」
そう言い、斉宣を見ていた。
時は流れ、一七九五(寛政七)年八月。茂姫の部屋には、宇多が来ていた。
「わたくしは、己の子を次の将軍にしたいとは思いませぬ。それに、誰よりも伸びやかに育って欲しゅうございます故。」
宇多はそう言うと茂姫も、
「そうか。」
と言った後、気持ち悪そうに口を押さえた。それを見た宇多は心配そうに、
「御台様、船酔いにございますか?」
と聞くと茂姫が、
「馬鹿を申すでない。船もないのに、船酔いなど。」
そう言うと宇多は、
「申し訳ございません。」
と言い、思いついたように言った。
「もしや・・・。」
すると茂姫はまたもや気持ち悪そうに口を押さえ、座ったまま畳に顔を近づけた。それを見て宇多は咄嗟に、
「御台様!?」
と言うと、茂姫を支えた。宇多は、
「もしや御台様、ご懐妊遊ばしたのでは?」
そう言うので茂姫は、
「まさか・・・。」
と言い、自分のお腹を手で押さえて見つめた。
「わたくしにも、子が・・・?」
茂姫は、驚いたようにそう呟いていたのだった。
次回予告
茂姫「やっとわたくしにも上様のお子が・・・。」
宇多「おめでとうございます!」
お富「御台に、子じゃと?」
斉宣「姉上に、お子が?」
治済「やりましたなー!!」
重豪「喜ばしい限りじゃ。」
お楽「お世継ぎの件、お願い申し上げたいのです!」
お富「まさか・・・。」
お蝶「全ては、公方様の御為に。」
茂姫「わたくしはあなた様を守ると決めました。」
家斉「わしもそなたのような面白き女子に出会えてよかったと思う。」
茂姫「上様・・・。」
次回 第十六回「母なる心」 どうぞ、ご期待下さい!




