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後編

 本来なら王都の、それも公爵邸の庭園に現れるはずのないものだ。どこから入り込んだのか考えている暇はなかった。魔獣の赤い双眸が、芝生の上にへたり込んでいる令嬢を捉える。


 カロリーヌ・ベルジェ子爵令嬢。


「レオンは……!」

 ジュリアンが周囲を見渡す。

 レオンの姿は見えない。屋敷の騎士たちも、まだこちらへ到着していないようだ。客人の護衛たちも、少し離れたところから駆けつけるのが見える。


「カロリーヌ様!」

 ビアンカが叫んだ。その声に反応したように、魔獣が後脚へ力を込め跳躍する。考えるより先に、身体が動いていた。


——いつか誰かを傷つけるかもしれない。


 ずっと、そのことばかり恐れていた。けれど今、目の前で誰かが傷つこうとしている。ここで何もしないくらいなら。


——怪物(バケモノ)だと思われた方が、まだましだ。


 ビアンカは両手を突き出し集中した。胸の奥で、何重にも鎖を巻きつけて閉じ込めてきた力へ意識を向ける。

 攻撃魔法が得意なわけじゃない。……でも、制御だけは人一倍頑張ってきた。


「凍れ……っ!」


 パキィィィンッ、と大気が爆ぜた。

 足元から青白い魔力が噴き上がり、鋭い槍となり跳躍する魔獣へと向かってゆく。

 魔獣は避ける間もなく氷へ激突した。


 つんざくような魔獣の悲鳴で、頭の中をぐちゃぐちゃにかき回されたような感覚に襲われる。

 どぉん! という轟音と共に、魔獣は地面へ叩きつけられ、四肢をダラリと伸ばしたまま息絶えた。


——間に合った。


 安堵が胸を満たす。助かったのだと思った途端に、自分のしたことが急に怖くなった。

 見たこともない魔獣を、一撃で仕留めてしまうほどの魔力。怪物と呼ばれてもいいと思ったのは嘘じゃない。

 嘘じゃないけど……怖い。

 

 あのまま放っておけばカロリーヌが襲われていた。必要なことだったと頭では分かっている。それでも、生まれて初めて自分の力で命を奪ったという事実は、そう簡単に飲み込めるものではなかった。 


 ビアンカの身体がガクガクと震え始めた。 

「……え?」

 魔力が……止まらない?

 回路を閉じようとしているのに、閉じられない感覚がある。これは幼い日に何度も経験したア(・)レ(・)だ。


「待って……止まって……!」

 制御には自信があった。何度も何度も練習して、泣きたくても我慢して、誰も傷つけないようにと努力してきた。


 それなのに……魔獣を仕留めた槍はすでに消えたが、庭園をどんどん冷気が包んでゆく。

 芝生を這うように霜が広がって、庭木が白く凍りつき、テーブルの脚を氷が覆った。倒れたカップの中身まで一瞬で凍る。

「い、やぁぁぁ……」

 視界が白く霞む。熱い涙が零れ落ちた端から凍りついてゆく。指先から感覚が消え、自分の呼吸まで凍りつきそうだった。


 このままでは、逃げ遅れた人たちを巻き込んでしまう。どうしたらいい? どうする? 考えるのよ、ビアンカ!

 凍えそうになりながら自分を叱咤する。


 五歳の噴水。

 七歳の温室。

 九歳の窓硝子。


 幼い日の記憶が一気に頭の中へ蘇る。

たくさんの物を壊した。けれど幸い、これまで人だけは傷つけずに済んだ。

 

——では、今回は?

——今度こそ、本当に誰かを傷つけてしまうのでは?

——私は、何も変わっていないの……?


 絶望で目を閉じかけた、その時……腕を強く掴まれた。

「——息を吐け、ビアンカ!」

 耳元で響いた低い声に、はっと目を開く。

「ジュリアン様!?」

 吹き荒れる魔力の中に、ジュリアンがいた。


 普通なら、この濃度の魔力の中心へ踏み込めば身体の内側の魔力まで乱される。呼吸を失い、立っていることさえ難しい。しかも、周囲のものを凍らせるほどの冷気だ。


 魔力が強い人間ほどここに居るのは危険だろう。もしかしたら、干渉する魔力がほとんどないジュリアンだからこそ、近くまで来れたのかもしれない。

 ……それでも安全なはずはなかった。


 魔力の干渉を受けなくても、冷気は冷気だ。頬や鼻はすでに赤くなり、金色の睫毛には白い霜がつき始めている。

「来ないでください! 凍ってしまいます!」

「だったら早く止めろ!」

「止められないんです! 無理なの! わかんないの!」

「止められる!」

 怒鳴るような声だった。けれど、そこに怯えはなかった。


 ジュリアンは吹雪の中をもう一歩踏み込み、ビアンカの両肩を掴んだ。

「俺を見ろ」

「でも——」

「ビアンカ!」

 名前を呼ぶ、その声だけが吹雪の中ではっきり聞こえた。


 ジュリアンがビアンカの目を真っ直ぐ見つめる。決して逸らさないと決意しているかのようだ。

「怖いなら怖いって言っていいんだ。今は何が怖い?」

 答えられなかった。喉が張り付いたように声が出ない。

「何が怖い? 大丈夫だから、話してごらん」

「……人、を」

 やっと声が出た。

「人を、傷つけるのが……怖い」

「分かった」

 ジュリアンはそれを否定しなかった。


「じゃあ、誰も傷つけないために止めるぞ」

「でも、どうやって……!」

「知らない」

「え?」

「俺は魔法なんか使えない。だから止め方なんて知らない」

 こんな時なのに、何を言っているのだろう。


 ビアンカが呆然とすると、ジュリアンは凍えた指で彼女の肩を強く掴み直した。

「でも、お前は知ってるだろ。今まで何年も、自分の魔力と付き合ってきたんだから」

「……」

「俺じゃなくて、お前が止めるんだ」

「わたしが……止める……」

「息を吐け。ゆっくりでいい。いつもやってることをやれ」


 初めて魔力を制御できなかったあの日から、何度も繰り返した言葉だった。


 呼吸を整え、意識を内側へ向ける。

 流れを見て、魔力を細くする。

 細くなったら、閉じる。


 分かっている。本当は、全部知っている。


「俺を見てろ。周りを見るな。壊れたものも見るな。今は俺だけ見ろ」

 ビアンカは震える息を吐いた。


 肩を掴む手は冷えきっていた。それでも、そこに人の体温がある。ジュリアンは傍に居てくれた。怪物と恐れられて当然の力を目の当たりにしても、私を見捨てることなく。


 その事実を胸に刻んで、散らばっていた意識を少しずつ自分の身体へ戻していく。

 暴れ狂っていた魔力の流れが見えた。その中心へ意識を沈める。


 細く。もっと細く。

 そうしたら、閉じる。


「……止まって」

 今度は懇願ではなかった。自分自身へ向けた命令だった。

「止まって……!」

 膨張を続けていた氷が、震えた。


 ふっ、と空気が緩んだ。

 青白い吹雪が少しずつ弱まり、初夏の陽射しの中へ霧散していく。

 あとに残ったのは、氷に覆われたまま動かなくなった魔獣の亡骸と、庭園のあちこちを覆う分厚い氷だった。


 静寂が戻ると、ビアンカの膝から力が抜けた。

「おっと」

 倒れそうになった身体を、ジュリアンが抱き止める。息が苦しくて、身体が重い。

 

「……怪我は?」

「ありま、せん」

 息を整えながら、ビアンカはジュリアンを見る。

「ジュリアン様は?」

「めちゃくちゃ寒い」

「……はい?」

「ものすごーく寒い。あと多分、手が軽く凍傷になってる」

「なっ……だから来ないでと言ったでしょう!」

「怒鳴れるなら元気だな」

 ニヤリと揶揄うような笑顔に、少しだけ力が抜けた。


 ジュリアンは改めて庭園を見回し、呆然とする騎士たちにテキパキと指示を出し始めた。

 カロリーヌは侍女に抱き起こされている。他の招待客たちも、遠巻きにこちらを見ている。


 血を流している者はいないようだ。

「……ビアンカはすごいな」

 ジュリアンが粗方指揮を終えたのか、ビアンカの元へ戻ってきた。

「何がです?」

「誰も怪我してない」

 そう言って、庭園をぐるりと見回す。

「分かるか? お前が守ったんだ」

 その一言が、耳の奥へ残った。


 本当はずっと怖かった。

 自分の魔力なのに、言うことを聞かない猛獣を身の内に飼っているようで。いつか誰かを傷つけるのだと怯えていた力だった。


 それなのに、ジュリアンは『守った』と言ってくれた。

「……ふ、うっ」

 大粒の涙が、ひとつ頬を伝う。

 止めようと思った。そう思ったのに、次々と溢れてくる。

「え、ちょっと……」

 ジュリアンが困ったように眉を下げた。

「なんで泣くんだよ」

「分かり、ません……私にも……」

「そっか、そっか……」

 そう言って、ぎこちない手つきでビアンカの背中を撫でる。


 誰かが走ってくる足音がする。

「兄上!」

 レオンの焦った声も聞こえた。まるでジュリアンと抱き合うような姿勢に見えてしまうことに、少しだけ焦る。

 そう思うのに、ビアンカはすぐには身体を起こせなかった。離れがたくて、温もりが心地よくて、ジュリアンの手が背中をさする度に……心臓がキュッと締め付けられる。


 今だけは……この冷えきっているくせに妙に温かい人の腕の中にいたかった。




 その日の茶会は、当然ながら中止になった。

 魔獣がどこから入り込んだのか、公爵家の騎士たちが総出で調査に当たる中、招待客たちは順番に馬車へ案内されていった。幸い怪我人はいなかったものの、庭園の一角は見るも無残に凍りつき、自慢の花々も整えられていた生垣も、すべてが白い氷の下に閉じ込められていた。


 公爵邸の客間で毛布に包まれていたビアンカは、「……帰りたいです」とひたすら俯きながらぽつりと呟いた。

 

「もう少し休んでからにしなさい」

 向かいの椅子から母が静かにたしなめる。隣ではアベルが腕を組み、何とも言えない顔で立っていた。

「でも」

 と、食い下がるビアンカを見て母は厳しい顔をした。

「あれだけ魔力を使ったのです。今すぐ馬車に揺られて、また具合を悪くしたらどうするの」

 正論だった。けれど、今のビアンカにとって問題なのは体調ではない。


「……皆様、見ていましたよね」

 ビアンカの問いに、アベルが一瞬だけ視線を逸らす。

「まあ……見ていたな」

「どのくらいですか」

「どのくらいって」

「何人くらいですか」

「数えてないよ、そんなの」

 

 のらりくらりと躱す兄に「大勢に見られた!」と思わず声を上げると、母がたしなめるように眉を上げた。

 ビアンカは諦めて小さくなり、毛布へ顔を埋めた。


 終わった。何もかも終わったのだ。

 病弱だと言って社交界から遠ざかっていた伯爵令嬢が、実は魔獣を一撃で仕留めるほどの魔力を持っていたうえに、直後には庭園の半分を凍らせかけた。

 明日には王都中の噂になっているに違いない。


 『怪物令嬢』『氷の魔女』『オストリッチ伯爵家の危険人物』——聞いたこともないような悪口が次々と頭に浮かんでくる。


「……もう領地へ帰りたい」

「何を言っているんだ。あんな……見事に魔獣を倒しただろう」

 呆れたように言うアベルに、ビアンカは「その後、庭園を凍らせました」と言い返す。

「誰も怪我させてない」

「たまたまです」


 その時、控えめなノックと共に「失礼するよ」とレオンが入ってきた。魔法院の制服から簡素な上着に着替えた彼の後ろからは、公爵夫人も姿を現す。

 慌てて立ち上がろうとしたビアンカを、夫人は手でふわりと制した。


「そのままでいいわ。今日は本当にありがとう、ビアンカ嬢。あなたがいなければ、ベルジェ嬢は大怪我をしていたでしょう」

「ですが、庭園を……」

「庭は直せるわ。花も、木も、テーブルもまた用意すればいいの。でも人はそうはいかないでしょう?」

 あまりにも迷いなくあっさりと言い切られ、ビアンカは反論の言葉を失った。

 

 さらに夫人は少し困ったように笑い、付け加える。

「それに、うちの警備の問題でもあるのよ。客人に魔獣の始末までさせた上、庭を壊した責任まで取らせたら、公爵家の名折れだわ」

「母上、その言い方だとだいぶ体裁を気にしてるみたいですよ」

 横から口を挟んだレオンに、夫人は「もちろん体裁も大事よ」と悪びれずに返した。

 そのやり取りに思わずビアンカの口元が緩むと、夫人は安心したように微笑んだ。


「……申し訳ございません」

 反射的に出た言葉に、夫人は首を傾げた。

「どうして謝るの?」

 ビアンカは口籠もる。

 今日だけで何度この言葉を口にしただろうか。何か壊したから、心配させたから、迷惑をかけたから。そうやって謝ることが、すっかり癖になってしまっている。


「兄上から聞きました」

 と、レオンがふいに声のトーンを落とした。

「ビアンカ嬢は、魔力を制御するのが大変だったんでしょう?」

 びくりと肩を強張らせたビアンカに、レオンは慌てて手を振る。

「あ、責めてるわけじゃなくて。僕も子供の頃、似たような感じだったので。僕の場合は身体が魔力に追いついていなくて、熱を出したり、勝手に風を起こしたり……。そんな時は、兄上がよく側にいてくれたんです」

「ジュリアン様が?」

「ええ。魔法は使えないのにやたらと詳しくて。僕が発作を起こすたびに本を読み漁ってましたよ」

「レオン。余計なことまで喋るな」


 ふいに低い声が飛んできた。振り返ると、開いた扉のところにジュリアンが立っていた。彼の手には、痛々しい包帯が巻かれている。

「別に秘密じゃないでしょう」と肩を竦める弟を無視して部屋に入ってきた彼の手元を、ビアンカは痛む胸で見つめた。


「……やはり怪我をなさったのですね。だから来ないでと申し上げたのに」

「大したことない。軽い凍傷だ。またその話か?」

「します。よくありません」

 むきになって言い返すと、ジュリアンは少しだけ笑った。その声は低いままだった。

 家族しかいないからだろうが、人前ではあれほど徹底して作っていた口調を、自分の前ではもう戻そうとしない。そのことに遅れて気づき、胸の奥がまた妙に落ち着かなくなった。


「兄上、ビアンカ嬢に言っておいた方がいいと思いますよ。もう噂になってるって」

 レオンが悪戯っぽく笑いながら落とした爆弾に、ビアンカの身体がカチンと固まった。

「え?」

「『病弱だったオストリッチ伯爵令嬢が、魔獣を一撃で倒した』って。帰る馬車の中で、皆そればっかり話してました。あんな魔力を持っていたのかって、驚いてましたよ」


 すうっと血の気が引いたビアンカは、泣きそうに声を上げた。

「同じことではありませんか! だって、みなさま私があの庭園を凍らせたのを見たでしょう?」

「全然違うと思うけどな」

 低い声でジュリアンが遮る。睨むように振り返るビアンカの視線を正面から受け止め、彼は静かに言葉を継いだ。


「庭園が凍ったのも見たよ。でも、魔獣が飛びかかる前に、お前が先に動いたのも見た。逃げようと思えば逃げられたのに、お前はカロリーヌを助けたんだ。誰かに命令されたわけじゃなく、自分で決めてな」

「……」

「その後の暴走だけ切り取って、自分を怪物扱いするのは勝手だけどな。少なくとも、あそこにいた連中が見たのはそれだけじゃない」


 少しだけ眉を寄せたジュリアンの言葉が、胸の奥にじわりと温かく広がっていく。

「……本当でしょうか」

「俺が嘘ついてどうする」

「普段から割と嘘をついていらっしゃるでしょう。オーギュスト卿の件とか」

「あれは方便」

「嘘です」

 レオンが吹き出し、公爵夫人まで口元を押さえて笑い出した。ビアンカは少しだけ頬を膨らませたが、不思議なことに、さっきまであれほど怖かった明日が、ほんの少しだけ遠く感じられた。


「まあ、噂は噂よ。放っておけば勝手に形を変えるわ。それより今は、あなたが無事だったことを喜びなさい」

 公爵夫人に優しく諭され、今度は素直に「はい」と頷くことができた。それを見て、ジュリアンが小さく息をつく。


「よし。また『大丈夫です』って強がるかと思った」

「……言いません。言わないように、努力します」

 ビアンカの答えに、ジュリアンは目を細めて「それでいい」とだけ言った。


 その真っ直ぐな言葉が、妙に嬉しかった。


*****


 事件後すぐに、レオンから手紙が届いた。

 どうやら、あの魔力暴走とも言うべき中で、ジュリアンだけがビアンカに近づけたことを調べていたらしい。

 

『我が家に残された過去の記録と、魔法院の資料を調べてみました。兄上は他者の魔力に共鳴するほどの魔力をほとんど持たないため、あなたの暴走による魔力干渉を受けにくかったのではないかと考えています』

 と、書かれていた。

 

 さらに一週間後。

 オストリッチ伯爵邸の朝食の席で、ビアンカはテーブルの上に置かれた銀盆を呆然と見つめていた。そこには色も紋章も様々な、見慣れない封書が山のように積み重なっている。

 

「……何ですか、これ」

「招待状だよ」

 新聞を畳みながら答えた父の言葉に、ビアンカは目を丸くした。

「こんなにですか? 半分は茶会や夜会への招待だとしても、残り半分は……」

 父と母が意味ありげに顔を見合わせ、隣でアベルが口元を押さえて肩を揺らしている。


 そのただならぬ反応に嫌な予感を覚えたビアンカが身構えると、父はあっさりと告げた。

「釣り書き、つまり結婚の申し込みだよ」

 ビアンカはしばらく瞬きを繰り返し、間の抜けた声を出した。

「……誰の?」

「お前以外に誰がいるんだ」

 三人の視線が一斉に集中し、こらえきれなくなったアベルがとうとう吹き出した。


「どうして!? だって私はずっと病弱ということになっていて、社交界に出たばかりで、知り合いだってほとんどいなくて……!」

 思わず立ち上がって抗議するビアンカに、父はのんびりとした口調で返す。

「それが今回の件で一気に変わったんだろうね。強い魔力を持つ令嬢はそれだけで婚姻相手として注目されるうえに、今回は魔獣を倒して見事に人を助けたんだから」

「でも、暴走もしましたし、庭園だってあんなに凍らせてしまったのに!」

「誰も怪我はしていないし、当の公爵家が気にしていないそうだからね」


 なおも食い下がろうとしたビアンカは、ぐうの音も出ずに言葉に詰まった。そんな娘の様子を見て、父は優しく微笑む。

「もちろん、嫌な相手と無理に結婚させるつもりはないよ。お前が望まないなら全部断っていい」

 その言葉に少しだけ安堵したものの、銀盆の上に積まれた大量の封筒を見つめていると、なぜか全く別の人物の顔が頭に浮かんできた。

 

 シャンデリアの光を弾くような金髪に、作り物めいた碧眼。オネエ言葉で嫌味を言うくせに、いざという時は誰よりも真っ直ぐな体温で抱きとめてくれた、あの腹立たしいほど整った顔。

 

『——俺を見てろ』

 

 不意にあの低い声が耳の奥に蘇り、ビアンカは慌ててブンブンと首を振った。

「どうした、顔が赤いぞ?」

「な、何でもありません!」

 家族の怪訝な視線を誤魔化すように声を張り上げる。

 

 今度こそ本当に何でもないのだと言い聞かせても、胸の奥はあの日から少しも静かになってくれなかった。

「——旦那様、お嬢様。失礼いたします」

 その時、控えめなノックと共に執事が入ってきた。手にした銀の盆には、ひときわ分厚く上等な封筒がひとつだけ載っている。

 

 また縁談かと眉を寄せるビアンカに、執事は恭しく一礼した。

「……こちらはルーウェン公爵家からの書状です。ジュリアン様より、お嬢様へ直接とのこと」

 その名前に、ぴたりと食堂の空気が止まる。父と兄が揃って真顔になったため、ビアンカは二人の視線から逃げるように慌ててその封筒を受け取った。

 

 美しい青色の封蝋を割って便箋を取り出すと、そこには流麗な文字が躍っていた。

 

『ごきげんよう、お下がりドレスのお嬢さん。大量の縁談に埋もれて泣きべそをかいている頃かと思って、一筆書いてやったわ。言っておくけど、適当な男で妥協するなんて許さないからね。アタシの手の凍傷の責任、ちゃんと取ってもらうんだから』

 

 文字を追うだけで、あの甲高く芝居がかった声が頭の中で完璧に再生される。相変わらず腹立たしい言い回しに唇を尖らせたが、文章はそこで終わっていなかった。

 少しだけ行を空けた後半は、ペンの筆圧が強くなり、文字の形も乱暴なものに変わっていた。

 

『——明日の午後、迎えに行く。俺のいないところで、一人で無茶するな。制御訓練をするならいつでも付き合うぞ』

 

 まるで彼がすぐ耳元で囁いているかのように、その文字は低く、ひどく真っ直ぐに響いた。

「ビアンカ? いったい何と書いてあったんだ?」

 心配そうなアベルが覗き込もうとするのを、ビアンカは弾かれたように手紙を胸に抱え込んで隠した。

「な、なんでもありません! ただの嫌味です!」

 言い返しながら、顔がカッと熱くなるのが自分でも分かった。

 

 ジュリアンが明日やって来る。

 迎えに来るということは……明日からの未来にも彼が居てくれるという約束なのではないだろうか。

 

 足りない人と、ありすぎる人。半分ずつに分けることはきっと一生できないけれど、あの冷たくて温かい手があれば、もう自分を怪物だと恐れずに済む気がした。

 

「……本当に、馬鹿なんだから」

 手紙をぎゅっと抱きしめ、ビアンカは家族の誰にも見えないように、今日一番の笑顔で笑った。

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