前編
「ちょっと嘘でしょ? 女捨ててるわけ? なんで一昨年のデザインのドレスなんかでデビュタントに参加するのよ」
すんと鼻腔を抜ける甘い香水。背後から降ってきたのは、妙に甲高く、しかし間違いなく男の声だった。
今日のために、ビアンカはどれだけ身を削るような努力をしてきたかこの男にはわかるまい。
身体つきは華奢だが、この淡い水色のプリンセスラインのドレスは自分によく似合っている。元は恰幅の良かった従姉のものだが、領地のお針子たちが夜なべをして、今のビアンカの背丈に合うよう丁寧に詰め直してくれた大切な一着だ。
それを、見ず知らずの男に「女を捨てている」と鼻で笑われる筋合いはない。振り返って睨みつけようとしたビアンカは、一瞬だけ息を呑んだ。
立っていたのは、歳の頃は二十ほどの美丈夫だった。シャンデリアの光を弾くような金髪に、作り物めいた碧眼。紺色の夜会服は最高級の仕立てで、均整の取れた長身を美しく包んでいる。腹立たしいほど顔が良く、たった今の暴言さえなければ見惚れていたかもしれない。
ビアンカが唇を震わせたとき、肩を抱くようにして兄のアベルが横から割って入った。
「これはルーウェン公爵令息。我が妹が、何かお気に障りましたかな」
アベルの声音は穏やかだったが、背中に庇われたビアンカには、兄の背筋が微かに強張っているのが分かった。
公爵令息……?
その言葉に、ビアンカは目の前の奇妙な男をもう一度見直した。確か西部国境を統括する名門、ルーウェン公爵家には子息が二人いた。目の前の男は、年齢的に嫡男のジュリアンだろう。
領地に引きこもっていたビアンカでも即座に思い出せるほどの名門中の名門だ。
「あら、オストリッチ伯爵家のアベルじゃない」
ジュリアンはパチンと扇を広げ、口元を隠した。声のトーンが、先ほどよりも一段低い。
「別に障ってないわよ。ただ、もったいないと思っただけ。顔立ちは悪くないもの。王都では似合うドレスを着た方が自分の価値が上がるわよって言ったのよ」
「……ご親切な忠告、痛み入ります」
ビアンカは兄の背中から半歩踏み出し、無理やり口角を引き上げた。ドレスの裾を摘み、完璧な角度で淑女の礼をとる。
「ですが、私はこのドレスをいたく気に入っておりますの。領地の者たちが、私のデビュタントのために丹精込めて仕立て直してくれたものですから」
ジュリアンの碧眼が、扇越しにすっと細められた。
値踏みするような視線が、ビアンカの頭の先からドレスの裾までを撫で回す。数秒の沈黙の後、彼はパタンと扇を閉じた。
「……ふーん。お下がりってわけ。まあ、あなたがそれでいいなら別にいいんじゃない?」
謝罪の言葉はなかった。興味を失ったように肩をすくめるだけの態度に、ビアンカの胸の奥で、再びチリッとした火花が散る。
「…………あのっ」
さらに言い返そうとしたビアンカの声を遮るように、数人の令嬢たちが黄色い声を上げて近づいてきた。ジュリアンの表情が、ふっと華やいだものに変わる。
「あらぁ、マリアンヌ! 今夜も素敵じゃない。でもそのリボン、もう少し上にした方が首が綺麗に見えるわよ。エミリア、その口紅は次からもう少し青みのある赤になさいな」
キャピキャピとはしゃぐ令嬢たちに囲まれ、ジュリアンは完全に“そちら側”の生き物として溶け込んでいた。
オネエ言葉も、過剰な身振り手振りも、彼女たちにとっては日常の一部らしい。
——なんだ、あれは。
呆れと、不躾に貶された怒り。
二つの感情がないまぜになった瞬間、ビアンカの心臓の奥で、氷の欠片がひび割れるような嫌な音がした。
まずい。
喉の奥が急に熱くなり、息が浅くなる。指先から血の気が引き、周囲の喧騒が遠のいていく。生まれつき身体の容量に収まりきらないほど強大な魔力が、感情の乱れに呼応して暴走を始めようとしていた。
「ビアンカ? 顔色が悪いぞ」
アベルの声が耳元で聞こえる。首を振ろうとしたが、めまいでうまく動かない。
「平気、です……少し、人酔いしただけで」
「嘘をつくのは良くないと教えたはずだ。休もう」
強引に腕を引こうとする兄の向こう側で、ふいに視線を感じた。
令嬢たちに囲まれていたはずのジュリアンが、こちらを見ていた。その碧眼には先ほどの軽薄な光はなく、射抜くような冷たさがある。
「……そこの角を曲がった先に休憩室があるわよ。今は誰も使ってないはず」
ぽつりと落とされた低い声に、アベルが警戒するように彼を見たが、背に腹は代えられない。ビアンカは兄に支えられるようにして、逃げるように大広間を後にした。
案内された小広間は、冷たい夜気に満ちていた。
長椅子に倒れ込んだビアンカは、胸の奥で暴れ狂う熱の塊を、必死に一か所へ縛り付ける。深く、細く息を吐き、魔力回路を強引に閉じていく。五歳で噴水を凍らせ、七歳で温室を吹き飛ばしたあの頃の恐怖がフラッシュバックする。
数分後、ようやく強張っていた肩の力が抜けた。
「……収まったか」
「はい。お兄様、ご迷惑をおかけしました」
「気にするな。今日はもう帰ろう」
アベルが滲んだ汗を拭くためにハンカチを差し出した、その時だった。
カチャリと扉が開き、ジュリアンが一人で入ってきた。アベルが咄嗟にビアンカの前に立つ。
「様子を見に来てあげたのに、怖い顔ねえ」
ジュリアンは扇で口元を隠し、くすくすと笑った。だが、その目は全く笑っていない。彼はアベルを通り越し、長椅子で息をつくビアンカを見下ろした。
「……ただの貧血じゃないわね、それ。呼吸を絞って、魔力の暴走を無理やり押さえ込んでる。昔の弟とそっくり」
ビアンカの心臓が跳ねた。
魔力過多そのものではなく、感情の乱れによって制御を失うこの発作は、長年「病弱」として隠し通してきた伯爵家の秘密だ。バレれば家に迷惑がかかると、ビアンカは務めて平静を装った。
「何のことでしょう」
「言いふらす趣味はないわよ。面倒くさいし」
取り繕おうとするビアンカの言葉をあっさりと切り捨て、ジュリアンは壁際の柱に寄りかかった。
「魔力が多い人間は、ほんと不便よねえ。ちょっと感情が揺れただけで、周りを吹き飛ばしそうになるんだから」
「……」
「別に怖がってないわよ。アタシには魔力なんてほとんどないし、弟でこういう症状は見慣れてるもの。もっとも、暴発しても止めてあげられないけど」
公爵家の嫡男が、魔力がない?
あまりにも重大な秘密を、彼は今日初めて会ったばかりの令嬢の前で、さも『今日の天気』のように口にした。
呆気にとられるビアンカの前で、ジュリアンはもう一度パチンと扇を開く。
「ま、せいぜい自爆しないように気をつけることね、お下がりドレスのお嬢さん」
ひらひらと手を振りながら、嵐のように去っていく背中。
残されたビアンカは、胸の中に残った苛立ちと、それ以上の巨大な疑問符を持て余し、ただ閉じられた扉を睨みつけていた。
その夜、ビアンカは帰りの馬車の中でも、ずっと不機嫌だった。
理由の半分は、初めてのデビュタントを途中で切り上げる羽目になったこと。残り半分は、あの失礼極まりない公爵令息のせいである。
「……お下がりドレスのお嬢さんですって」
思い出しただけで腹が立つ。
「もう三回目だよ、それ」
向かいに座るアベルが苦笑した。
「何のこと?」
「今夜だけで三回、同じ言葉を呟いている」
「呟いてなどおりません」
「声に出てたよ」
ビアンカは黙って窓の外へ顔を向けた。夜の王都を、街灯の明かりが流れていく。窓硝子に映った自分の顔は、頬が少し膨れていて、とても淑女らしいとは言えなかった。
けれど、腹が立っているだけではない。
最後にジュリアンが口にした言葉が、どうしても頭から離れなかった。
——『アタシには魔力なんてほとんどない』
ルーウェン公爵家は、代々強力な魔法使いを輩出してきた家だ。西部国境に魔物が現れれば、歴代当主自らが前線へ立ったという記録もいくつも残っている。
その嫡男に、魔力がほとんどない。貴族名鑑には載っていない情報だった。
「お兄様」
「ん?」
「ルーウェン公爵令息に魔力がないというのは、有名な話なのですか?」
アベルの表情が少しだけ変わった。
「社交界では、知られているよ。魔力が全くないわけじゃないんだ。魔法が使えるほどはないってだけでね」
「そうなのですか」
「隠しているわけではないからね。幼い頃にはとっくに分かっていたことだし、本人も公の場で否定したことはない」
「では、秘密でも何でもないのですね」
「少なくとも、彼にとっては」
そこでアベルは少しだけ言葉を切った。
「ただ、あまり本人の前で話題にすることではないと思う」
「……でしょうね」
だったら何故、今日会ったばかりの自分にはあんなに簡単に話したのだろう。
そこまで考えて、ビアンカは眉を寄せた。別に知りたいわけではない。むしろ二度と会わなくても困らない。困らない、はずなのだ。
*****
再会は、それから十日後に開かれた王立植物園での園遊会だった。
色とりどりの春薔薇が咲き誇る庭園には、王都の貴族たちが集い、優雅な会話を交わしている。病弱だったオストリッチ家の令嬢が社交界へ復帰したという噂は早くも広まっており、ビアンカの周りには物珍しさから近づいてくる者も少なくなかった。
「ビアンカ様は領地でずっと療養なさっていたのでしょう?」
「ええ。治療がうまくいきまして、今年からようやく」
「まあ。それはようございましたわね」
にこやかに返しながら、頭の中では相手の家名と家系を必死に引っ張り出す。
カロリーヌ・ベルジェ子爵令嬢。父親は財務院勤務。このベルジェ家は最近、ある投資話で他の貴族と揉めているという不穏な噂があったはずだ。不用意な発言は避けなければならない。
誰に対しても似たような笑顔を貼り付け、内側では魔力が揺らがないよう細心の注意を払う。一時間も経たないうちに、ビアンカの頭の芯はひどく疲労していた。
「——あらぁ、ベルジェ家のお嬢様じゃない」
不意に、聞き覚えのある声が横から落ちてきた。
ビアンカの眉間に反射的に皺が寄る。振り返るまでもない。
「ごきげんよう、ルーウェン公爵令息」
カロリーヌがぱっと表情を明るくして淑女の礼をとる。ジュリアンは淡い灰色の礼服に、襟元だけ深い青を差した隙のない装いで立っていた。手にした扇を優雅に揺らしながら、カロリーヌへ流し目を送る。
「そのリボン、春らしくて素敵ね。でも、向こうのあずまやで財務院のオーギュスト卿があなたのお父様を探していらしたわよ。何やら急ぎのご様子だったから、教えてさしあげた方がよろしくてよ」
「えっ……お父様を? まあ、教えていただきありがとうございます。失礼いたしますわ!」
財務院という単語に顔色を変え、カロリーヌは足早に去っていった。残されたビアンカは、扇の陰でくすくす笑うジュリアンを半眼で睨んだ。
「……あれ、嘘ですね?」
「さあ? オーギュスト卿が誰かを探していたのは本当よ。ベルジェ子爵だったかどうかは覚えてないけど」
「私を助けてくださったのですか」
「ベルジェ家は今、投資の件で少しピリピリしてるの。慣れないあなたが巻き込まれたら厄介でしょう?」
ジュリアンは事もなげに言う。どの家が揉めていて、誰の父親がどの官庁に勤めているのか。彼は当たり前のように、貴族家の情報を押さえていた。
「……ありがとうございます。ですが、あまりご迷惑をおかけするわけには」
「あら、今日は随分まともじゃない。その帽子の色、髪によく映えてるわよ」
「……『随分まとも』を褒め言葉として受け取れるほど、私は心が広くありませんの」
「あらやだ。ちゃんと褒めてるのに」
またからかわれている。分かっているのに、いちいち腹が立つ。
けれど、言い返そうと息を吸い込んだ瞬間、ビアンカはふと自分の内側に違和感を覚えた。
静かだった。
これほど苛立っているのに、胸の奥の魔力が全く揺れていない。
以前なら、感情が少し動いただけですぐに熱を持ち、必死に呼吸を絞って鎮めなければならなかった。なのに今は、言い返した後の方が、身体の中に詰まっていたものが抜けたように軽くなる。
「……どうしたの? また具合悪い?」
「いいえ……」
ビアンカは胸元へそっと手を当てた。
どうしてだろう。他の人間と話している時は、どこかでずっと身構えている。失敗しないように、感情を揺らさないように、自分自身を監視している。
なのに、この人を相手にしている時だけは、それを忘れてしまう瞬間があった。
「今、少し腹が立ったのですが」
「アタシに? わざわざ報告しなくても顔を見れば分かるわよ」
「そうではなくて……魔力が揺れていないんです」
ジュリアンの顔から笑いが消えた。
ビアンカはもう一度自分の内側を探るも、やはり静かだった。
理由は分からない。ただ、その小さな発見を、何故かジュリアンにだけは話してもいい気がした。
「……アタシに慣れたんじゃない?」
「それはそれで嫌ですね」
「何でよ」
思わず笑ってしまう。笑っても平気だった。大きく息を吐いても、胸の奥は静かなままだった。
「ところで」
ジュリアンがふと思い出したように、扇の先をビアンカへ向けた。
「あなた、アタシのことは何て呼ぶつもり?」
「……何て、と申されましても」
「ずっと『ルーウェン公爵令息』じゃ長いでしょう。さっきから聞いていて、妙に堅苦しいのよね」
「ですが、公爵家の御嫡男をお名前でお呼びするのは」
「ジュリアン様でいいわよ。ほら、さっきのカロリーヌだってそう呼んでたでしょう?」
言われてみればその通りだった。特別に許された呼び方というわけではないらしい。
そう分かった途端、なぜかほんの少しだけ拍子抜けした。
「……では、ジュリアン様」
口にすると、今までより急に相手との距離が近くなったような気がして、少しだけ落ち着かない。
ジュリアンはそんなビアンカの内心など知らず、満足そうに頷いた。
「ええ。それでいいわ」
「でしたら、私のこともビアンカで構いません」
「あら、いいの?」
「私だけ家名で呼ばれるのも不公平でしょう」
「それもそうね。じゃあ——ビアンカ」
ごく自然に呼ばれただけなのに、耳に妙に残った。
家族以外の男性から名前を呼ばれることに慣れていないせいだろう。そういうことにしておいた。
その日、帰り際にジュリアンがこちらをじっと見ていた。ただ愛しい者を見つめるような、そんな視線にビアンカは戸惑う。
「気のせいよ」
そう自分に言い聞かせて、少しだけ高鳴る胸を抑え込んだ。
*****
ルーウェン公爵夫人から正式な茶会の招待状が届いたのは、それから間もなくのことだった。
母と兄を伴って広大な公爵邸を訪れると、玄関先でジュリアンが出迎えてくれた。
「あら、ビアンカ。今日は随分いいじゃない」
「褒める気があります?」
「あるから言ってるのよ。その薄紫、白い髪に合ってるわ」
軽口を叩き合っていた、その時だった。
屋敷の奥から、焦げ茶色の髪をした青年が現れた。
その青年が近づいてきた瞬間、ビアンカは肌の表面がわずかに粟立つのを感じた。
風が吹いたわけではない。それでも周囲の空気が、ごく僅かに温度を上げたように思えた。
おそらく、他の者には分からない。
けれど、自分自身が人並み外れた魔力を持つビアンカには分かる。青年の身体の内側に、よく制御された膨大な魔力が眠っている。
火と風の二属性。十七歳にして王立魔法院の特別課程へ進んだ、ルーウェン公爵家次男レオン。
——この人が。
「兄上、母上が呼んで——」
そこまで言って、レオンはこちらに気づき、静かに頭を下げた。
「レオン」
ジュリアンの声が変わった。
落ち着いた低い声だった。いつもの芝居がかった抑揚が完全に消え、年相応の青年らしく凛々しい声だ。
「分かった。すぐ行く」
「お願いします」
レオンはビアンカたちへ簡単に礼をすると、そのまま屋敷の奥へ戻っていった。その姿が遠ざかるにつれ、ビアンカが感じていた圧迫感も薄れていく。
静まり返った玄関で、ジュリアンがゆっくりとこちらへ顔を向けた。
「何よ」
「いえ?」
「その顔、絶対何かあるでしょう」
ビアンカは少し迷った。以前なら遠慮したかもしれない。けれど今は、あの低い声を何度か聞いている。
「……やはり、その話し方は作っていらっしゃるのですね」
ジュリアンの動きが止まった。
「……やっぱり気づいてた?」
「最初から時々」
「何で言わなかったのよ」
「秘密になさっているのかと思いましたので」
その返答に、ジュリアンは少し黙った。いつものように大袈裟に反応することもなく、手にした扇をパチンと閉じる。
「聞かないのね」
「何をです?」
「どうしてこんな喋り方してるのか、とか」
「聞かれたいのですか?」
「……いや」
「でしたら聞きません」
ビアンカは真っ直ぐに彼の碧眼を見つめ返した。
「聞かれたくないことを尋ねられるのは、私も嫌ですから」
静かな間が落ちた。
開け放たれた玄関から初夏の風が吹き込み、庭木を揺らす葉擦れの音だけが聞こえる。
やがて、ジュリアンが小さく息を吐いた。
「……ビアンカ」
「はい」
「茶会の前、少し時間ある?」
「ございますけれど」
「話したいことがある」
今度の声は低いままだった。それまで何度か耳にした低い声とも、少し違って余裕を感じない。
ビアンカはなぜか、そのことに気づかないふりができなかった。
案内されたのは、庭園の東側にある小さな東屋だった。茶会の会場からは少し離れていて、植え込みに囲まれているせいか人の気配もほとんどない。
白い柱に蔦薔薇が絡み、まだ開ききっていない蕾が初夏の風に揺れていた。
中へ入ると、ジュリアンはすぐには話し始めなかった。
いつもなら何かしら余計な一言を口にするのに、今日は珍しく黙ったまま、手にしていた扇を何度か開いては閉じている。ビアンカは向かいの椅子へ腰を下ろし、その様子をしばらく眺めた。
「……無理にお話しにならなくても結構ですよ」
「そう言われると、余計に言わなきゃいけない気がするのよね」
「面倒な性格ですね」
「あなたにだけは言われたくないわ」
ふっと息をつき、ジュリアンは扇を膝の上へ置いた。
庭の方へ目を向けた彼の横顔から、いつもの華やかで芝居がかった気配が、潮が引くように消え去っていく。
「……俺、本当はあの喋り方じゃないんだ」
「それは存じております」
「だよな」
一人称が変わった。低く落ち着いたその声色に、ビアンカは静かに頷いた。
「最初の日から、時々戻っていましたので」
「だったら、もっと早く言ってくれてもよかったのに」
「秘密になさっていると思ったので、あえて踏み込みませんでした」
「……そういうところ、ずるいな」
ジュリアンがわずかに苦笑する。
「こっちが隠してることに気づいてるのに、勝手に踏み込んでこないところ。半分くらい褒めてるけど、残り半分は妙に腹が立つ」
「理不尽ですね」
「知ってる」
ジュリアンの笑い方は、夜会で見せたものよりずっと静かで、どこか疲れているように見えた。
庭を抜ける風が、東屋の中へ薄い花の香りを運んでくる。数秒の沈黙の後、彼は膝の上で両手を強く組んだ。
「俺、家を継ぎたくないんだ」
「……ルーウェン公爵家を、ですか」
「ああ」
——魔力がほとんどないせいで?
その言葉を飲み込み、ビアンカは先を促すように彼を見つめた。
「ルーウェン家は代々、国境を守ってきた。強い魔物が出た時には、領主自身が前線に立つこともある。記録に残ってる限り、魔法を使えない当主は一人もいない」
「ですが、公爵になるために魔法の能力が必要という法律はありません」
「分かってる。分かってるから、困るんだよ」
今までより少し強い声だった。ジュリアンは苦しそうに顔を歪めて、すぐに目を伏せる。
「……悪い」
短く詫びてから、しばらく言葉を探すように黙った。
「父上も母上も、ずっと同じことを言うんだ。魔力なんて関係ない。お前ならできるって」
そこで一度、組んだ手に目を落とす。
「俺はちゃんと後継者教育も受けたよ。領地経営も、軍務も、税も法律も、外交も。嫌だからって途中で投げたことはない」
「ええ」
「でも、勉強すればするほど分かるんだ。歴代の当主がどんな人間だったのか」
声が少し低くなる。
「領地を治めて、兵をまとめて、交渉して、それでも最後には自分で剣を持って前線へ出て、大規模な魔法を展開して戦うんだ」
ジュリアンは自分の手を見た。
「……俺には、それができない。剣だけを持つことはできる。でも、それで大勢を守るのは難しい。だからこそ、代々の当主は魔法と剣でみんなを守ったんだ」
組まれた指先が白くなっている。
その響きがあまりにも痛切で、ビアンカは何も言えなくなった。
「もちろん、周りはそんなこと気にする必要ないって言う。父上も母上も、レオンも。魔法が使えなくても他にできることがあるって」
そこまで言って、ジュリアンは苦く笑った。
「誰も俺を責めないんだ」
「……責められない方が、よいのでは?」
「普通はそうだと思う。でも、誰か一人でも『お前じゃ不足だ』って言ってくれたら、俺はきっと楽だった」
その言葉が、予想以上に重くビアンカの胸に落ちた。
「お前には魔法が使えない。だから当主は無理だって言われたら、俺だってそう思うって笑って諦められた。でも誰も言わない。だから自分で『できない』って言うたびに、俺がただ臆病なだけみたいになる。本当はできるのに、ただ逃げたいだけなんじゃないかって……ずっと思ってる」
風が止んだ。
ビアンカはそっと俯いた。胸の奥に、よく知っている感覚が広がっていく。
優しくされて苦しい。
信じてもらっているのに、それに応えられない自分だけが悪いような気がする。
ビアンカ自身、幼い頃から魔力を暴走させ、窓を割り、温室を壊しても、家族から一度も怒鳴られたことはなかった。
だからこそ膨らみ続けた、あの息苦しい罪悪感。それは、あまりにも身に覚えがあった。
「……それで、例の話し方を?」
「ああ。最初は、婚約話を避けたかっただけなんだ」
ジュリアンは自嘲するように肩を竦めた。
「俺が独身のままなら、いずれレオンを後継者にって流れにも持っていきやすいと思ってた。女性の服や化粧にはやたら詳しいくせに、縁談は全部断る。令嬢と親しくしても、恋愛っぽい態度は一切取らない。そうしたら、そのうち男の恋人がいるらしいって噂が勝手に広がった」
ビアンカは思わず顔を上げ、目を丸くした。
「……本当に、いらっしゃるのですか?」
「いないよ」
「そうですか」
「もう少し驚くところじゃない?」
「先ほど内心で驚きました。では、否定なさらなかったのですか?」
「婚約話は減ったからな」
あっさりと言ってのける。
ビアンカはしばらく何も言えなかった。そこまでして、逃げ道を作ろうとしていたのだ。笑ってしまいたいのに、なぜか少し胸が痛んだ。
ジュリアンにはほとんど魔力がない。ビアンカには、ありすぎる。足りない人と、ありすぎる人。半分ずつに分けられたなら、どれほど楽だっただろう。
「……ジュリアン様は馬鹿ですね」
「知ってる」
「かなり」
「そこまで言う?」
呆れた顔を向けられ、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
魔力は、驚くほど静かだった。
もう少しだけ、この静かな風に吹かれていたい。そんな柄にもないことをビアンカが考えた、その時だった。
「キャアアアアッ!」
庭園の奥、茶会の会場の方角から、空気を切り裂くような悲鳴が上がった。
ビアンカとジュリアンは弾かれたように顔を見合わせる。次の瞬間には、どちらからともなく声のした方へ駆け出していた。
植え込みを抜け、視界が開ける。
綺麗に刈り込まれた芝生の広場では、茶会の招待客たちが悲鳴を上げながら逃げ惑っていた。その中心にいるものを見て、ビアンカは息を呑む。
狼ほどの巨体。逆立った黒い剛毛。唸り声の合間から覗く鋭い牙。
——魔獣だった。




