後編
一、
最寄りの赤十字病院に担ぎ込まれた烏丸宥青年が目を覚ましたのは、東の空が白みだした、肌寒い早朝のことであった。幸い脳内出血などは認められなかったため、医師から許可を得た山藤悠一と猫目大作は仁科を伴い、昼食時を少し過ぎたころ合いに、彼の病室を訪ねた――例によって、こうした手合の人物はお高い個室に入っているのだ――。
「――お加減はいかがですか」
「やあ、どうもご心配をおかけしてしまって……。この通り、ぴんぴんしてますよ」
中性的な面立ちの宥青年は、食膳を片付けていた看護師に礼を述べ、彼女が部屋から出てゆくのを見届けると、三人を応接区画のほうへ案内し、ベッドから身を起こした。
「頭を割られたときは焦りました。まあ、軽症で幸いでしたが……」
入院着の襟元から鍛えた胸筋をのぞかせたまま、烏丸宥は額の包帯をさすりながらにこやかに振る舞った。手近のサーバーから番茶を汲んでもらい、見舞いの品だという最中をつまみながら、とりとめのない世間話からはじめて、山藤悠一は当日のことを宥に聞き出した。
「――山藤探偵にお電話してから、いてもたってもいられない感じになってしまったのがよくなかったのです。おとなしく待っていれば迎えの車が来たものを、稽古場の窓口にタクシー会社の張り紙があったのを幸いと、車を呼んで先に出てしまったのです。まさか、涼のやつも先にいるとは思いませんでしたので……」
番茶をなめると、息を整えてからふたたび、烏丸宥は昨夜のことを話し始める。
「だいぶ辺りも暗くなってきたので、携帯電話のバックライトを頼りに紫雲寮の塀の破れていたあたりから上がり込んだんです。そうしたら、草むらの向こうにある離れ座敷にぼうっとした灯りがあったので、涼のやつだろうと、声を張り上げたんです。そうしたら、いきなり後ろからガツン、とやられまして……。持って行った木刀はなくすわ、ポケットに突っ込んでおいた手紙はとられるわ、散々です」
失態を恥じる宥青年を、山藤悠一はまあまあ、となだめる。
「で、それから後はまるでご記憶がない、というわけですね」
「ええ。お恥ずかしい限りです……。僕から申し上げられることはもう、このくらいです。ときに、涼の行方は……?」
湯飲みを持ったまま、宥から目線を向けられたのに気づくと、仁科は手帳を手繰り、ある個所へ指をあてながらメモ書きを読み上げる。
「正午前の報告が最後ですが、関東一円の支局、ならびに警視庁、警察庁管轄内では依然として、目撃情報なしのままです」
「なるほど……。いや、ありがとうございました。この件に関しては、伯父がみなさんに一任しているわけですから、僕からは何も申し上げることはありません。ひとつ、父の仇を白日のもとへ引きずり出してください」
宥青年の切実な頼みに、山藤悠一は無意識のうちに体が強張るのを覚えた。ひとしきり、必要な事柄を伝達すると、三人は宥青年の病室を後にし、昨夜からの根城になっている港支局へと舞い戻った。マスコミの群がる銀座本社よりはこちらのほうが何かと便利だろうという理由から、剣礼社事件の捜査本部は今朝からここへ移っていたのである。
「探偵長、どう思いますか、彼の証言」
捜査本部の片隅に置かれたテーブルを囲んで、山藤悠一が探偵員の運んできた熱い番茶をすすっていたところへ、猫目大作がおもむろに尋ねる。
「――なんか隠している顔だねぇ、ありゃあ」
躊躇なくそう答えると、山藤悠一はガラスの菓子器から海苔巻きせんべいをひとつ取り、四等分にしたひとかけを口に放り込む。
「――後ろからガツンとやられた、なんて言ってたけど、宥さんの携帯電話はズボンのポケットにしまいっぱなしだった。――猫目、明かりを持ったままやられたら、どうなる?」
「どうなるって……そりゃあ、手から落っことすに決まってるでしょう。――あ、やっぱりおかしいや。そんならポケットに収まってるわけないんだ」
猫目の反応に、山藤悠一はその通り、と付け加える。
「――ときに仁科君、あの携帯電話からは他人の指紋、出てきてる?」
本庁から届いた捜査資料へ目を通していた仁科は、山藤悠一の問いにいいえ、ありませんでした、と答える。
「じゃあ、ついでにもう一つ。――木刀なんてものはあったかな?」
「それもやはり、ありません」
「……やっぱりなあ。烏丸涼が持ち去ったのかとも思ったが、あの背中に結わえた鞘袋には余分な本数が入るような余裕はなかった……」
「するてえと、一連の事件の黒幕は……宥さんだっておっしゃるんですか」
興奮気味の猫目に、まあ早まるなよ、と、山藤悠一は冷静に返す。
「可能性のひとつ、というだけに過ぎないさ。まだまだ、証拠が少なすぎる。――それより、手紙を持ってきたという少女の行方を追いかけるのが最優先だろうね」
「そういやあ、そうでしたねえ……」
空になった湯飲みへ急須の中身をグイと注ぐと、猫目は軽く伸びをしてから立ち上がり、「本社直通」というプレートのついた、磁石式電話のハンドルを二、三度回してから受話器を取り、銀座本社のほうで反応があったのを確認すると、猫目は電話の置いてある机へ持たれたまま、一気呵成に捲し上げた。
「もしもし、港支局にいる猫目です。調査二課の副長呼んでくれるかい…………ハイハイ…………おう、オレだ、猫目だ。忙しいとこ悪いんだけどサ、絵心達者な奴をひとり、溜池の赤十字病院によこしてほしいんだ。――ああ、そうそう、烏丸宥ンとこ。ホシからの手紙を持ってきたっていう同級生の似顔を描いてもらいたくてなあ…………おう、了解、さっそく頼むぜ。じゃア……」
受話器を置くと、猫目は山藤悠一のほうを向いて、こっちはオーケーでっせ、とにこやかに笑ってみせる。
「調査三課のほうじゃなくてよかったんですか? あっちのほうが芸達者が多いでしょうに……」
やや謙遜しながら、仁科は猫目の手元に湯飲みを置く。
「いやいや、あまり忙しくさせるとかわいそうだからさあ。君のとこから一人、病院に派遣させたよ。あとは、似顔絵のできるのを待って、手配の支度を始めるとしましょうや」
「そうだなあ。――さて、我々は一つ、栄養補給とゆこうじゃないか」
猫目の背後に置かれた、普通の黒電話の隣から近所の食堂の品書きを掴むと、山藤悠一は二人へそれを見せて、なにをとろうかと品定めを始めたのだった。
さて、件の似顔絵が調査二課に所属する探偵員によって描き上げられたのは、その翌々日のことであった。似顔の主は背丈が一六〇センチほど、セミロングの髪を後ろで束ねて、アンダーリムの眼鏡をかけた、やや面長のおとなしそうな印象を受ける風貌の少女である。
「さすがタヌちゃん、絵はピカイチだねえ」
タヌちゃんという通称で通っている調査二課員・砧絵美は、ジャンパースカートの折り目をつかんだまま、恥ずかしそうに笑ってみせる。
「苦労しましたよ、イメージに近づけるまで、半日ぐらいかかったんですから。にしても、ずいぶん中性的な感じのする人ですね、この人」
「そうかい? 僕ァ、普通の女の子に見えるが……」
絵を前にして、猫目は斜めから、横からスケッチブックへ目線を浴びせたが、やがて諦めがついたのか、
「まあ、見つかれば御の字さ。仁科くん、これって複写はもう印刷にかけてあるんだっけ?」
話の矛先をそらすと、仁科はいつも通りの明快な返答を猫目にする。
「ええ、かかってますよ。明日の正午までには、関東一円の支局と警察、烏丸の在籍する葵島学園に手配書が回ります。そのうちに、目撃情報がくるでしょう」
「なら安心だな。なに、そのうちに発見の報が来るでしょうよ、探偵長……探偵長?」
絵を見つめたまま黙り込んでいた山藤悠一は、我に返るとああ、すまないすまない、と謝ってから、
「まあ、それだけに頼らず、聞き込みも徹底させよう。あとはもちろん、所轄警察署との連携も密に、ね」
「もちろんです。そのあたりの根回しは調査二課にお任せください」
仁科がいつものように自信満々に答えると、砧はやや困ったように、あんまり仕事増やさないでくださいよ仁科さん、と苦言を呈する。その顔があまりにもおかしかったので、山藤悠一と猫目大作は、しばらく腹を抱えて笑いあうのだった。
あちこちの電信柱や交番に、「重要参考人 情報提供者求む」という文字と共に、烏丸涼の手紙を携えて現れた同級生の似顔絵が張り出されてからというものの、探偵社の支局という支局、交番という交番に目撃情報がもたらされたが、どれも出まかせや見間違い、勘違いといったものばかりで、まともな目撃情報は皆無に等しかった。
「あれからもう、一週間経つんですねえ。そろそろ、情報のひとつやふたつ、あってもおかしくなさそうなものなんですが……」
その朝、出社してきた山藤悠一と仁科を迎えたのは、帰るのが面倒くさいという理由から港支局に泊まり込んでいる、浴衣姿の猫目であった。顔を洗ってきたばかりなのか、猫目はどこか水気の残る額を二人に向けて、やあ、おはようございます、と呑気に返す。
「おいおい、早く着替えたらどうだい」
「すんません、さっき起きたばかりなもんで……」
苦々しい表情を浮かべる山藤悠一に軽く頭を下げると、猫目はサンダルをペタペタと鳴らしながら、寝床になっている四畳半の宿直室へ戻り、いつも通りの詰襟を着込んで姿を現した。
「それだけ早く着替えられるなら、もうちょっと身ぎれいにしておくように」
「ヘヘヘ、失礼しました……」
定位置になっている机に腰を下ろし、スタンドから抜いたつけペンをインキ壺へ差し込んだところへ、猫目の右隣にある本社直通の電話がけたたましく鳴り響いた。
「ハイ、港支局猫目…………ふん、ふん、ふん、なんだァ!?」
彼の元へ番茶の入った湯飲みを置こうとした探偵員が、絶叫に近い猫目の声に驚いてのけぞる。が、そんなことなど気にもせずに、猫目は熱心にメモをとっている。
「……ふん、ふん、ふん、わかった、すぐによこしてくれ。探偵長にゃあオレから伝えておく。じゃ……」
「どうしたんですか、猫目さん」
調査経過をまとめようとしていた仁科が、ブックスタンドに挟んだ書類越しに猫目を覗き込む。
「本社に例の手紙を持ってきたらしい子が現れたんだよ。――探偵長、小谷のやつが十時ごろにこっちに連れてくるそうです」
「わかった。仁科くん、録音用のテープレコーダーだけ支度を頼む」
「わかりました」
それから十時まで、どことなく息の詰まるような感じの空気が港支局の中を支配していたが、玄関先で探偵社のコンフォートが急なブレーキをたてて止まった音を聞くと、山藤悠一と猫目大作、仁科芳雄はそろって階下へ急いだ。
「探偵長ォ、お連れしましたよぉ」
いがぐり頭の、どこか間延びしたような印象を受ける小谷少年に声をかけるのもそこそこに、山藤悠一は後部座席のドアを開いた。すると、クリーニングから戻ったばかりの、折り目がきちんとついたスラックスの足がそっと伸び、似顔絵通りの風体の人物が姿を現した。
「お待ちしておりました。突然お呼び盾をいたしまして、申し訳ありません……」
相手を緊張させまいと、いつものように丁寧に振る舞っていた山藤悠一はふと、ある違和感を覚えて、失礼ですが……と、相手にいくつか質問を投げた。そして、相手から答えが戻ってくると、その場にいた探偵社の面々は口々に、
「しまった! 謀られたんだ!」
「探偵長、こりゃあやつが黒星で決まりですよ」
「しかし猫目さん、まだ決定的な証拠がないではありませんか……」
「――その通りだ。ひとまず、この虫食い算みたいになってる現状をどう打開するか、午後から話し合おうじゃないか」
事件の構造を、式の一部と答えだけがあらわになっている虫食い算に例えると、山藤悠一は目の前に横たわる大いなる謎を前に、体が武者震いを起こすのを覚えた。
さて、それから二日後の晩、山藤悠一は懇意の情報屋・法条保美に会うべく、神田神保町を訪れていた。彼の住まいがある雑居ビルの地下一階で、バーボン臭い吐息を浴びながら、もたらされた資料へ目を通した山藤悠一は、やはり、とつぶやくと、
「これで犯人の見当は大体ついたよ。今回もご苦労様でした」
「良いってことよ。――今回は結構骨を折ったんだ、頼むぜ、探偵長」
PCデスク用のアームチェアーにもたれ、ジャックダニエルをあおる法条は、灯りの下に透き通るような白い肌とまばゆい金髪、けだるげな目とともに、トレードマークとなっている八重歯を口元から覗かせて、ニヤリと笑う。
「わかってるよ。――こんなところで、どうだろう」
山藤悠一が胸ポケットにさしてあった電卓をたたき、額面を提示すると、法条は満足が行ったのか、毎度あり、と洒落っ気たっぷりに返し、振り出された小切手を受け取るや、資料を大判の茶封筒へ入れて渡した。
「じゃ、また今度……あんまり飲みすぎるなよ」
「わかってるよ。じゃあな……」
愛用の江戸切子のグラスに注がれた、山藤悠一の手土産であるジャックダニエルをまた一口なめると、法条保美はビリヤードランプの下に輝く、紺のメッシュの金髪を揺らしながら、帰り支度をする山藤悠一へ手を振るのであった。
二、
三日ののち、山浪流の関係者を銀座の本部へ招いた山藤悠一と猫目大作は、留と宥、烏丸総帥を前にして開口一番、犯人が判明しました、と爆弾を投下した。途端に、洋風の応接間には、張りつめたような空気がたちこめる。
「いったい誰です、父を殺したのは……」
総髪まがいの髪を揺らし、敵討ちとばかりに息を荒立てる宥を猫目がまアまア、となだめる。
「そもそも、この事件はいったいどういう風になっているのですか。叔父が殺されて、宝刀や、涼まで行方知れずになって……。宥も、こうして無事だったのが幸いでしたが、一歩間違えたらどうなっていたかわかったものではありません」
「仰る通りです。我々の不手際で、宥さんを危険な目に遭わせてしまって、返す言葉もございません」
従兄弟を危険な目にあわされたことで、留は山藤悠一に対して、静かな怒りをちらつかせている。ひとまず、その不始末を謝ると、山藤悠一は改めて、一連の事件について話し始めた。
「そもそも、今度の事件で一番大きな問題だったのは、『宗次さんを殺害して得をするのは誰なのか』という点でした。資金難の山浪流の名前を汚してまで、支えとなっている剣礼社をつぶそうと考える人間ですからね、一筋縄ではいきませんでした」
「驚いた、どこまでご存じなのですか、あなたは……」
流派の台所事情を探られていたことをやや恥じながらも、烏丸総帥は山藤悠一に畏敬の念のこもったまなざしを向けている。
「失礼ながら、ある筋を通して、山浪流の会計報告書を入手させていただきました。どうやらここ数年ほど、月謝収入のほうが芳しくないご様子ですね」
「お恥ずかしながら、その通りなのです。もっぱら、弟の営む剣礼社からの上りで、かろうじて面子を保っているような有様でして……」
羽織の袖をゆらしながら、烏丸総帥は顔を赤くして首筋を掻く。うっすらとは財政事情を把握していたのか、留もどことなく落ち着かない様子で、山藤悠一の言葉を受け止めているようであった。
「さて、そのような状況を考えると、まず第一に、烏丸総帥は容疑者から外されてくる。そうなると、残るは留さん、宥さん、あなた方のどちらかというわけですが……」
「きみっ、無礼だぞ。どういう根拠で、僕や留が父を殺さねばならないんです」
猫目の煽るような物言いに、溜まりかねて宥が立ち上がる。
「宥、よさないか。――それで、山藤探偵。僕と宥はどんな理由で、叔父を殺さねばならないのですか」
父親譲りのどっしりとした風格をたたえたまま、烏丸留は山藤悠一と猫目大作のほうへ目線を投げる。
「お聞き及びかもしれませんが、大学や山浪流門下の一部では、次期継承者には留さんではなく、宥さんのほうが適任だという声があるそうです。ご存知でしたか」
「――ええ、存じております。僕自身、誰かを率いるようなことはあまり得意ではありませんので……。そういった不満が収まるよう、日々精進するばかり、と考えておる次第ですが、まだまだ至らないことの方が多くて、反省ばかりしております」
「……もし、烏丸総帥から一切の権限を譲られた際、すべての権限をどなたかに……それこそ、宥さんに譲ってしまおうとお考えになられたことがおありなのではありませんか」
平然とした口調で言った山藤悠一の顔を覗き込み、烏丸留は目を見開き、あなた、なぜそれをご存じなのですか、と聞き返す。
「本当か、留」
父親である烏丸総帥は、息子の抱いていた考えに驚いて問い詰める。
「そういった機会があるのならば、という、漠然とした考えです。山藤探偵、あなた、どこでそれをお知りになったのです。これを知っているのは涼だけのはずですが――」
「なに、簡単なことです。――なんせ、ご本人から直に伺ったのですからね」
山藤悠一の目配せに応じ、猫目が背後のドアを開くと、そこには行方知れずになった直後の格好のまま、セーラー服をまとった烏丸涼が、鞘袋を二つ携えて立っていた。
「涼! 無事だったのか!」
「――おっと、そのままでお願いします」
椅子から立ち上がり、近づこうとする留や宥、烏丸総帥を引き留めた山藤悠一に、三人はどうして、と言いたげな視線を浴びせる。
「彼女は今の今まで本所の、葵島学園の同級生であった小山内さんという人のところへ身を隠していたのですよ。叔父上の死に伴い、山浪流の象徴である『光龍』が何者かの手に渡ってしまうかもしれない、という、ある人物の言葉を信じて、今の今まで潜伏生活を送っていたのです」
「――お父様、ご心配をおかけして申し訳ございませんでした。光龍はここに、確かに携えております」
山藤悠一の背後で、鞘袋の紐を解いて鞘から刀身をあらわにすると、白熱球の明かりの下で、文字通り光の龍、『光龍』が躍り出すのが遠目にもハッキリと見えるようになった。
「うむ、本物に間違いない。――涼、鞘へ戻しなさい」
落ち着き払った烏丸総帥の言葉に、涼は小さく、はい、と答えて、刀を鞘へと納める。
「さて、ここでもう一人の方にご登場いただきましょう。――仁科くん、吉村くん、入ってきていいよ」
山藤悠一の声に、隣の部屋と通じているドアから、吉村つかさが顔を出した。先ごろ起こった事件のために上京していた、烏丸のことを山藤悠一たちに教えた人物である。
「こちらは、うちの大阪支社に勤めている吉村つかさ君です。涼さん、あなた、この方はご存知ですか?」
「ええ。大会で二、三度、顔をお見かけした覚えがある、という程度ですが……」
「そうでしたか。実は、彼女はあなたの大変な隠れファンでしてね。隙を見て、あなたの写真を隠し撮りしたことがあるんだそうですよ」
山藤悠一の暴露に吉村は顔を赤らめ、烏丸涼はまあ、と、顔色一つ変えずに声を上げる。
「まあ、それはもう時効ですからどうしようもありませんが、彼女の撮った写真の中に、ある重大な秘密が隠されていたのですよ。猫目、例の写真をみなさんにお配りしてくれ」
山藤悠一の命令に、猫目大作はポケットに入れておいた写真をめいめいに配る。それは、ある年の全国大会の折に吉村が撮影したもので、部の関係者に取り囲まれた烏丸涼のフルショット写真であった。
「さて、この写真の中にはおそらく、宥さんがご存知の方が写っていることと思いますが……拡大鏡、お持ちしましょうか」
「――あっ、この子だ! 山藤探偵、この子ですよ」
山藤悠一が拡大鏡を持ち出すまでもなく、宥は写真の一角に写っている、とある人物の顔を指さして叫ぶ。近寄ってその箇所を確認すると、山藤悠一はあらためて、一枚の写真をテーブルの上に置いた。先ごろ調査二課の探偵員・砧の手によって描かれた、手紙を持ってきたという同級生の似顔絵の縮小写真である。
「なるほど、似顔絵通りのお方ですね。――で、どんな方でしたか」
「どうって……見ての通り、きゃしゃな印象の女の子でしたよ。囁くような声の子で、何を言っているのかよくわからなかったんですがね」
「ほう、きゃしゃな印象の女の子だった、とおっしゃるんですね。しかも、囁くような声の子だった、と……」
「山藤探偵、何がおっしゃりたいんですか」
おうむのように自分の説明を返してくる山藤悠一にやや苛立ちながら、宥は右の頬をひくつかせる。
「いやいや、失礼いたしました。というもの、先日から各地に巻いておりましたポスターのおかげで、その方が見つかりましてね。今、ちょうどここにいらっしゃっているんですよ。仁科くん、お連れして――」
吉村のあとについて部屋へ入っていた仁科は、山藤悠一の言葉に従い、ドアノブへそっと手をかけ、ドアを開く。すると、そこには似顔絵通りの風貌をたたえた、どことなく中性的な顔立ちの人物が控えていた。
「この人だ、この人が手紙を持ってきたんです」
椅子から立ち上がり、相手を指さす宥の顔は、真っ赤に染まっている。
「なるほど、このお方でしたか。――どうですか小山内さん、あなた、この方に見覚えはありますか?」
「――いえ、初めてお会いしました」
相手の一声に、それまで威勢の良かった烏丸宥が青菜のように椅子にへたりこんでしまう。男とも女ともとれぬ風貌に反して、小山内と呼ばれた少年は、非常に低い声の持ち主であった。
「総帥、留さん、ご紹介いたしましょう。こちら、小山内伸介さんと言って、涼さんの所属している葵島学園の剣道部のマネージャーをしている方です。――涼さん、あなた、小山内さんの妹さんである美月さんとは大変仲がよろしいそうですね。旅先からしょっちゅう、手紙のやり取りをしていたのだとか……」
「ええ、そうです。手紙に添える住所に覚えがあったので、ひとまず小山内さんのもとへ身を寄せていたのです」
「そのようですね。先日、港支局で小山内さんからお伺いしました。――さて、宥さん。いったいこれは、どういうわけなのでしょう。手紙を受け取ったのですよね、この方から……」
窮地に追いやられた宥へ、山藤悠一は傷口に塩をすりこむような具合に声をかける。あの勢いの良さはどこかへ消え、烏丸宥は顔という顔、手という手に大粒の汗を垂らして、荒い息を吐いている。
「――おそらく、彼は以前に、どこかで小山内さんの顔をご覧になったことがあったのでしょう。それを頼りに、ありもしない手紙の送り主にしたのまではよかったが……性別が間違ってましたねえ、宥さん」
「観念しろい、もうとっくにネタはあがってるんだ! 父親殺しの罪、とっとと認めたらどうだ!」
猫目の激昂に、ことの動きについてゆけない総帥と留親子は、ただただ目を回すばかりである。
「――総帥、今度の事件を長い目で見たとき、一番得をするのは宥さんなのですよ。なにせ、山浪流の財布を握っている剣礼社の相続権は彼にあるのですから……」
山藤悠一の指摘に、烏丸総帥はアッ、と声を上げる。
「そうか、財政面を補ってもらっている以上、今後の流派の運営に、否応なしにかかわってくることになる……」
「しかも、その権限が早くに回ってくる方が都合がいい。宥さん、あなたがお父上を手にかけたのは、そういう理由だったんじゃありませんか」
山藤悠一が最後の一手を指すと、うつむいたままの宥はぼそりと、その通りです、と答える。
「……ずっと、山浪流の世襲制度には疑問があったんだ。自分のほうが、自分のほうが留よりも指導者に向いている。それこそ、山浪流を率いるにはふさわしいと、ずっと思っていたんだ!」
「だからって、叔父貴を殺すことはないだろう!」
黙って聞いていた留が、高ぶる感情を抑えられぬままに宥へ拳を浴びせた。が、宥は慣れた手つきで、それを軽々とかわしてみせた。
「そういうところだぜ、留。お前はちょっと情け深すぎるんだ――!」
ほんのわずかな間のことであった。宥がベルトの内側に隠し持っていた短刀を抜き、留の顔へ切りかかったのは――。
「――宥、正気かっ」
かろうじて左ほおをかすめただけの刃先であったが、留は斬りつけられた顔からあふれる血を手で抑え、ギッと従兄弟をにらみつける。だが、当の宥は赤く染まった切っ先を一座の面々にちらつかせるのに必死で、留のことなど気にもしていない様子だった。
「涼、抜け! どうせ捕まるんなら、お前とひとつ手合わせをしてから捕まりたいもんだ。おい、どうする!」
「……いいでしょう」
そばに立っていた猫目へ「光龍」を預けると、烏丸涼はもう一つの鞘袋から、いつかの晩に山藤悠一たちの前でも抜いたあの白鞘を取り、白熱球の明りの下にその刀身をさらけだしてみせた。
「……『赤宗』か。久しぶりに見るが、鈍になっちゃいないだろうな」
涼の愛刀、「五郎赤宗」を一瞥すると、宥はニヤリと笑ってけしかける。
「人のことを心配する暇があったら、自分のことに気をかけたらどうかしら」
一歩退き、下手から派手に切りかかった涼の刃を宥は軽々と、短刀の鍔で受け止め――ようとしたが、力加減を誤ったのか、刀身は三合目ほどのところで束と離れ離れになり、絨毯の上に音もなく転がった。
「慢心が一番の敵だって、教わらなかったのかしら」
手首をひねり、峰を肩めがけて振り下ろされた宥は、しばらく束を握ったまま立ち尽くしていたが、やがて膝から崩れ落ちるように倒れ、その場に伸びてしまった。
「――あの晩もこんな風に、勝負が決まったんです。呼び出されて来てみたら、木刀ひとつ持ったきりで。手加減したのに、あっけなく勝負がついて……」
日頃の習慣なのか、汚れているわけでもない刀身を懐紙で拭うと、烏丸涼は鞘へ刀を収め、光龍を預かっていた猫目にありがとうございました、と軽く礼を述べた。
「なるほどねえ。ただ、その時の木刀が見つからないので、こちらはずっと困っているのです。涼さん、あなたご存知じゃありませんか」
「ああ、あれでしたら、小山内さんのところへ預けてあります。――真っ二つになってしまったので、防具の供養に出そうと思っていたところなんです」
「なるほど、そういうことでしたか。――それはひとつ、警視庁での鑑定が済んでから、ということでも構いませんか」
山藤悠一の問いかけに、烏丸涼はええ、もちろんです、と返す。その返事を聞くと、山藤悠一はそばにあった黒電話をとり、交換室に大至急警視庁へつなぐように、と命じた。むろんそれは、剣礼社事件の真犯人、烏丸宥の身柄を司法の場へと引き渡すためであった。
三、
かくして、劇的な幕引きを見た山浪流・剣礼社に起こった事件の記録をまとめ終えると、例によって私は山藤悠一の元へ、初稿をもってはせ参じた。
「いったい、どこで宥が怪しいって気づいたんだい」
原稿の確認が済み、あちこちに赤入れの入った原稿をローテーブルの上に置くと、向かいのソファに座っていた山藤悠一は、
「彼が一足先に溜池の紫雲寮へ行ったときに、なんとなく怪しいなあ、とは思っていたんですよ。僕たちに連絡してくるのだから、普通ならかなり警戒心が強まっていてもおかしくはない。見知った相手とはいえ、殺人の嫌疑濃厚な相手に木刀ひとつきりで、しかも、僕たちになんの連絡もなしに行こうとしている。みすみす、殺されに行くようなものじゃありませんか」
「確かにねえ。で、そこへ小山内くんの登場が決定打となったわけだ。――そもそも、手紙を持ってきた人間などいない、ということになるわけだし」
「ハハハ、あれは傑作でしたね。なんでも、涼さんの試合を見に行った時に何度か姿を見ていて、印象に残っていたそうですよ。もっとも、小山内くんがあの見た目で、宥本人も遠目で見たきりですから、性別まではわからなかったようですがね。最近は女子の制服もズボンやスカートの選択が自由になっていますから、それが原因で落とし穴にハマってしまったようですね」
「なあるほどねえ。――で、あとは物的証拠がモノを言ったわけか」
「そういうことです。携帯の指紋はまあ、ふき取られる可能性があるから別として、手紙がなかったのはちょっと惜しかったですね。もっとも、手紙まで偽装されていたらすぐにはわからなかったかもしれませんが、どのみち涼本人の指紋が出てこない時点で訝しがられたでしょうね。僕が出馬しなくても、警視庁だけで十分に解決できたかもしれませんよ、今度のヤマは……」
手ごたえが少なかったのか、どことなく山藤悠一は不満そうな目で天井を見つめている。
「で、今後の山浪流はどうなるんだい。ここんとこ、まるでニュースになっていないから気になっているんだが……」
「それなんですがね、今度の一件がよほどショックだったのか、烏丸総帥は来春、留さんに山浪流の一切を任せることにして、隠居することにしたんだそうですよ」
思いがけない答えに、私はくわえていたピースを足元へ落しそうになった。だが、考えてみれば無理もない話である。身内に前科者が出たのだから、心中穏やかなわけがない。
「まあ、実の弟が殺されたんだ、無理はないな……。はて、そういえばあの子はどうしたんだい、あの子は」
あの子というと、烏丸涼のことですか? と、山藤悠一が湯飲みから咄嗟に口を離して聞き返す。
「そうそう。あのまま、おとなしく学校に戻ったのかい」
「ああ、それなんですがね――ちょっとお待ちを」
ソファから立ち上がり、受話器を取った山藤悠一は電話口で何やら話していたが、やがてそれが済むと、もうじき来ます、と、何か企んでいるような笑みを浮かべてこちらの顔をのぞきこんだ。
ほどなくして、探偵長室のドアを軽くノックする音に続き、一人の少女が部屋の中へ足を踏み入れた。
上品な面立ち、佇まいをした、真っ黒なセーラー服を着たの女子学生である。いったい、どの辺まであるのかわからない、手入れの行き届いた長い黒髪に、まつげの程よく伸びた切れ長の瞳――。
「やあ、君は……」
「U先生、ですね。お初にお目にかかります、総務部書類課・タイプ係の烏丸です。お名前は探偵長からかねがね……」
「――とまあ、こういうわけなんですね」
山藤悠一の不敵な笑みに、私はしてやられた、と額を叩いた。烏丸涼は探偵社に、探偵員として登用されていたのである。
「それから探偵長、この前の報告書、清書が済みましたので初稿をお持ちしました」
「あ、ありがとう。机のところに置いといてくれるかい」
厚紙のファイルへ挟み込んであった清書と原稿を机の上に置くと、烏丸はそれと、と前置き、
「それと、猫目さんのほうなんですが……。何か所か判読不可の部分があったので、そこに付箋を貼ってあります。明日までにタイプのほうへ、とだけお伝えください」
「――たぶん調査三課で油売ってるから、そこに直接持って行ってくれるかい。碁ばっか上達して……困ったやつだ」
口をへの字に曲げる山藤悠一に、烏丸は唇を軽く押さえて笑うと、では失礼します、と涼やかな挨拶を一つして部屋を出て行った。
「しかし勿体ないねえ、あれほどの腕前の子なら、調査一課か二課あたりにでも入れたほうがよかったんじゃないかい」
ぬるくなった緑茶を含みながら山藤悠一に問うと、いやいや、普段はタイプ係にいてもらったほうがいいんです、と、不思議なことを言う。
「宥をノバした剣裁きを見て、あれは普段から使うにはもったいないと思いましてね。今度のような特殊な事件の時にだけ捜査に加わってもらって、代わりに普段は総務のほうで事務などをしてもらおう、ということになったんです。本人も、日ごろは心穏やかに仕事ができるタイピストのほうがいい、という希望でしたからね」
「ははあ、つまり何かい。烏丸涼は探偵社の『伝家の宝刀』である、と、こういうわけか」
「まあ、『眠れる獅子』とでも言いましょうか……そんなところです。もっとも、僕としては、彼女が出張ってくるような凶悪な事件のない方がよいのですが、なかなか、世間がそれを許してくれそうにありません」
やや物憂げな表情の山藤悠一の姿に、私はもっともだ、と感じた。
「あ、そうそう。さっき本人に聞きそびれたんだが……君と猫目が浅草の汁粉屋で烏丸と出くわしたときのアレ……いったい、どういう真相だったんだい」
かねてから気になっていた、あまりにも劇的なファーストコンタクトの舞台裏について尋ねると、山藤悠一はカラカラと笑って、意外なことを話してくれた。
「あそこのお店、烏丸がよく、部活の帰りに寄っていた店なんだそうです。僕らを巻いたのは、時たまナンパをされることがあるから、その類と思った結果だったそうで……」
――事実は小説みたいにいかねえんだなあ……。
ややガックリ来ながらも、私は山藤悠一の笑顔を見ながら、そう自分に言い聞かせたのであった。
終