7.散々泣いたら笑ってやる
前にも後ろにも進めないでいたわたし。
右も左も選べないでいたわたし。
そのうち、どこにも行けなくなってしまっていたわたし。
そんなわたしに上に飛べると教えてくれたのはリュウだった。
飛ぶ方法なんて知らないと言ったわたしを捕まえ、一緒に飛んでみせてくれたのはリュウだった。
あの後、目を開けたら朝だった。
会社にいたはずだったのに家にいて、しかもベッドで目を覚ましたら、あの日から三日前の朝だった。
リュウの姿はどこにもなかった。
リュウが読んでいた少年漫画一冊が、ベッドの下にぽつんと残されていた。
満員電車に揺られて会社に向かうと、いつものごとくさっそく課長に呼び出された。
「お前さあ、この書類誤字が多すぎだろ。それにこの企画書はなんだ。新入社員みたいなものをいつまでも書いているんじゃないよ」
課長の言い分はもっともだ。しかし、そのまま続けてぐちぐちと言おうとするところを、わたしは「申し訳ありませんが」と制止した。
「……なんだ?」
少しきょとんとした顔は、まさかわたしがそんなことをしてみせるとは思ってもいなかったからだ。そう、ずっと課長に何も言わないでいたのはわたしだ。だけど今日は言える。ううん、言いたい。なぜか怖くない。自然に言える。
「課長。緊急の用件でない限り、お話はメールチェックを済ませてからにしてください。緊急性のある連絡が入っていないとも限らず、気になって集中して課長のお話を聞くことができません」
「そ、そうか?」
「はい。それと、課長は同じことを取り留めもなくお話になることが多いように思います。昨日も小一時間ほどここに立たされました。ですがわたしは最近体調が悪く、こうして立っているのが辛いんです。ですから、要点をもう少し整理していただいて、あとで別室で座って話させてもらえないでしょうか? 会議室を予約します。後ほどメールにて連絡させてください」
「お、おお」
「では失礼します」
ぺこりと頭を下げ、わたしは自席へと戻った。わたしを見る周囲の雰囲気がいつもと違う。いつもは無感情に無関係を装う視線だけ。けれど今は驚嘆、それからうぬぼれではなく感嘆する心を感じる。まるであの夢幻のランナウェイのように。
席に座ると、菊池がキャスターの音をさせて無遠慮に椅子ごと近寄ってきた。
「今日はいつもと違うじゃん」
「そう?」
素知らぬ顔でディスプレイを見ると、メールありのポップアップが表示されていた。クリックするとそれは案の定斉藤くんからのものだった。脇から画面を覗き込んできた菊池は、まるでついさっき知ったかのように驚いた顔をしてみせた。
「そうそう、これ。斉藤、結婚するんだってな」
「そうみたいだね」
「赤ちゃんができたんだってよ」
「へえ、ダブルでおめでただね」
「だよなあ。同期だし同じ課だし、式には行ってやりたいよな。なあ?」
わたしはメールを閉じながら「そうだね」と返事をした。
菊池が去り際、「いつもそういう風にしてた方がいいと思うぞ」と言った。思わず振り向くと、菊池はすでにディスプレイに向かいキーボードを打ち始めていた。だけどその横顔、こちら側の耳がはっきりと赤くなっていた。
(……なんだ、そういうことだったんだ)
誰もかれもがわたしのことを傷つける、そう思っていたけど、それは相手のせいだけではなかったんだ。新たな発見をした感動でしばらく放心していたら、「こっち見てないで早く仕事しろよ」と菊池に突っ込まれた。だけどそれも今なら素直に受け入れられる。
まずは会議室を予約、そして課長にその旨を報告するメールを入れた。
次に斉藤くんにあてて返事を出した。
『おめでとう。お幸せに。今までありがとう』
続けて書いた文章はちょっと考えてから消した。
『ちゃんと幸せになりなよ。じゃないとまた顔に落書きをされるんだからね』
そして最初の文章だけでメールを送信した。
クリックした瞬間、机の上に置いておいたスマホが電話の着信を知らせるメロディを流し始めた。このスマホに誰かから連絡が来ることは今では珍しく、うっかりマナーモードにするのを忘れていたようだ。取り上げるとそれはアメリカに住む七つ年上の兄からで、席をたち廊下に出ながら小声で応じた。
「もしもし?」
「ああ、美緒か」
のんびりとした口調は、リュウに会うまでだったら疲れやいら立ちを助長していたはずだ。年が離れているせいか第二の父親のようにふるまう兄。定職に就かずぶらぶらとしているくせに分かったように説教してくる兄。だからこの二年間、ずっと連絡を絶っていた。
だけど今は不思議とその声を聴くだけで落ち着く自分がいた。
「あのさあ、驚くかもしれないけど」
開口一番、兄が語りだしたことは、自分の元に現れた見知らぬ日本人の少年のことだった。
だけど兄は顔を見て名前を聞いて、それだけですぐに分かったそうだ。
お前はあのリュウなのか、と。
するとリュウはうれしそうに笑ったそうだ。「姉ちゃんは分かってくれなかったけど、兄ちゃんはやっぱり分かってくれたね」と。
「お、弟……?」
「ああやっぱりな。お前は小さくて覚えていないんだな。俺たちには弟がいたんだ。リュウっていう弟が。一歳で高熱を出して亡くなった弟が」
ざああ、と、無機質な高層ビルの廊下が、一気にセピア色の景色へと変化していった。
そこは実家の一部屋、和室に布団を敷いて寝ていた小さな子供がいる。赤ん坊といってもいいようなその男の子をわたしは見た記憶がある。顔を真っ赤にさせ、はふはふと、苦しげな息遣いをやめられず弱っていくばかりの男の子がいた。白光を発して消えたあの子供そっくりの男の子が――。
その小さな手を繋ぎ、『頑張って』と励まし続けた記憶がある。泣きながら父母や兄に訴えた記憶がある。
『リュウが死んじゃうよお! 助けてあげてよお! リュウが死んじゃうよおっ!』
「……お前が覚えていないのも無理はない」
耳元の声に、意識が現実に引き戻された。
「思い出すのが辛いからって、リュウの写真や位牌は押入れにしまわれてしまったんだ。母さんなんか精神的にまいっちゃって、ずいぶん長い間、毎日ダイニングで一人静かに泣いてたよ。それ見てまだ小さいお前がさ、『悲しいのは泣かないとすっきりしないもんね』って、『母さんのことそっとしておいてあげようよ』って俺に言ってさ。お前だって悲しくて泣きたいはずなのに、『わたしはもういいんだ』って」
「……そうだっけ?」
「そうだよ。あの時俺、お前のことすげえ奴だなって思った。だけどあの頃からだよな、お前が家族に甘えるの下手になったのって」
しばらく無言でいると、「でな」と兄がわざとらしく明るい声を出した。
「その大きくなったリュウが言うんだ。姉ちゃんはもう大丈夫だって。だけど兄ちゃんももっと姉ちゃんと話をしてあげてほしいって」
「リュウが?」
「ああ。リュウにはさ、ずっと心残りだったことがあったんだとさ」
「心……残り」
「うん。自分が死んだあの日、姉ちゃんの涙を止めてあげることができなかったことがずっと心残りだったんだってさ。自分のためにあんまりお前が泣くもんだから、それが悲しかったんだって。起き上がるどころか体を動かすこともできなくなっていたから、もしも姉ちゃんがもうちょっと顔を近づけてくれたら、涙をなめてあげられるのにって、死ぬ間際だっていうのにそんなことを思ってたらしいよ」
「……」
「面白いよな、リュウって。それにすごく可愛い。さすが俺たちの弟だ。違うか?」
兄の声が一層大きくなったのは、少し涙声になったのを隠すためだ。
わたしはぐっと上を向いた。わたしなんて、もう一言も声を出せなくなっている。
「あとさ、最後にこう言ってたよ」
兄は無言を貫くわたしに構わず語り続けた。
「死んでいることには楽しいことは何もないんだってさ。痛いことも辛いこともないけれど、面白いものは何一つないし寂しいんだと。だけど少しの間だけど、生きてみたら楽しいことがいっぱいあったよって、そう言ってた。生きている間、寂しくなったことは一度もなかったって、そう言ってた」
涙を我慢していたら鼻がつんとしてきたので、スマホを耳元にあてながら化粧室へと向かった。そうしている間も兄はずっと語っている。
「だから……。やっぱり生きてられるなら生きてたほうがいいよって、リュウの奴そう言ってた。あとさ」
そこで兄が言葉につまったとき、わたしはタイミングよく個室に駆け込めた。
「姉ちゃんと一緒に過ごせて楽しかったって、そう言ってた」
もう我慢できず、わたしは四方を囲まれた場所でとうとう涙をこぼした。スマホからは兄の嗚咽する気配が伝わってきた。兄にもきっとわたしが泣いているのは伝わっているはずだ。
涙はいつまでも流れ続けた。瞼が重くふくれ、鼻水をすすり、きっと今わたしすごい顔になっているんだろうな、と思いながら、それでもわたしは気が済むまで泣き続けた。
もう我慢なんてしない。
わたしは泣きたい時に泣く。
そうやって悲しみを受け入れるんだ。
そうやって最後には笑ってみせるんだ。
でもできることなら、あの不思議な少年に、弟にもう一度会いたい。
そう思いながらわたしは泣き続けた。