第弐拾壱話
「ひ……浩明……」
「はい?」
突然、初対面の人間から下の名前で呼ばれた事に、浩明は反射的に眉を顰めて怪訝な顔で返した。
後ろにいた女子学生も、浩明を見て驚いた顔をしている。
「あの……失礼ですが誰と勘違いなされているのでしょうか。私はあなた方とは初対面の筈ですがねえ」
「お、おい、お前、それ本気で言っているのか!?」
初対面だと返された事に、男子学生は浩明の両腕を掴んで詰め寄る。その勢いに押される形で部屋の中央まで押し戻されてしまう。
「お、おい天統、何やってるんだ!?」
驚いたのは、一部始終を見ていた慶達だ。
事情は分からないが、明らかに浩明が迷惑がっているのを察すると、明美が浩明の腕を掴んでいる男子学生の手を払い、慶が二人の間に割って入る事で、浩明とその男子学生を離した。
「二人とも、いきなり星野君に詰め寄るなんて何考えてるのよ!」
「結城達も何で止めないんだ!」
明美が、詰め寄った二人の後ろにいた二人に注意するが、その二人も詰め寄った二人同様に驚いた顔をしており、話が耳に入っていないようだ。
「やれやれ、初対面の相手をいきなり呼び捨て、あまつさえ掴みかかり詰め寄るとは、とんだ道徳知らずですねえ。どうやら生徒会というのは成績よりも個性を重視されているという訳ですか」
制服の掴まれて皺になった所を叩いて直しながら、浩明は呆れたようにそう言い捨てると、「結城」と呼ばれた男子生徒が声を挙げた。
「ひ、浩明、お前、本当に俺達が分からないのか!?」
「同じ血を分けた兄弟ではありませんか!」
「兄弟!?」
「へぇ……、こりゃ驚いた」
総一郎と雅の言葉に驚きの声を挙げたのが慶、腕を組んで事態の静観を決め込んだのは橘の方だ。小早川は無言のまま総一郎達と浩明を交互に見ている。
「あの……、失礼ですが、誰と勘違いされているのでしょうか。確かに私には兄が居りますが、妹は居りませんよ」
「おい浩明、お前、本当に何を言ってるんだ?」
「総一郎君の事も雅ちゃんの事も忘れちゃったの?」
浩明の受け答えの異常さに看過しきれなくなり、結城と呼ばれた男子学生と女子学生が口を開いた。
「生憎、二次元の女の子を嫁だの妹だと言う友人は居りますが、初対面の赤の他人を兄だ弟だと言ってくるような知り合いはおりませんが?」
県外の友人の家に遊びに行った時、「俺の嫁だ」と言って、ベッドに横たわっていた抱き枕(肌を露出された下着姿の女の子がプリントされている物)を前に延々と語られたのが可愛いくらいだ。
最も、その際に「一度やってみろよ」と、その女の子が出ているゲーム、それがアダルトゲームだと分かったうえで、そのゲームをプレイし、尚且つ面白いと熱中して友人と語り合ったのだから、浩明自身もその友人の事を言えないのであるが
「二次元のキャラまでは許せますが、現実の人間でそれにされるのはどうかと思いますよ」
「お前……とことん二人を変質者に堕としたいのな」
ドン引きの浩明の姿に康秀の苦言が漏れる。お互いに会話が平行線のままだ。
「浩明、いい加減にしろ! 俺だ、天統総一郎だ!」
「天統……天統……、あ、あぁ、成程、成程、そういう事でしたか」
「やっと思い出したか」
安堵の声を漏らす総一郎に対して、浩明は四人に向けていたしせんが怪訝なものから軽蔑に変わった。
「これは失礼しました。私とした事がとんだ無礼をしていたようです」
「よ、良かった、思い出してくれて何よりだ」
四人の顔に安堵の表情に変わるが、次に浩明から聞かされた言葉に、その表情が凍りついた。
「えぇ、お久し振りです。天統家の御嫡男殿に御令嬢殿、それに後ろに居られるのは結城家の御嫡男殿に御令嬢殿でしたか」
返されたのは、四人に対する絶対零度の眼差しと、他人行儀な肩書きでの挨拶だった。
「お、おい、浩明、そ、その呼び方はないだろ」
「いやはや、まさか捨て子だった私を拾っていただいた恩人を忘れるとは」
「な、何、捨て子!?」
安堵から一転、驚愕に変わった。
「お、お兄様、何を言っておられるのですか。私達は正真正銘、血を分けた……」
「無礼な応対は何卒、御容赦願えませんかねえ。何分、あの頃は「落ちこぼれ」か「無能」としか呼ばれていなかったものですからねえ。名前で呼ばれた事は一度も有りませんでしたから、分かりませんでしたよ」
「!?」
雅と呼ばれた女子学生が反論しようとするのを、浩明は弁明の、それも道徳心の無さを詰るように言葉を述べる事で拒否の意思を示した。
そこには、誰がお前達を兄弟と認めるものかと言う意思がありありと込められていた。
「あんな落ちこぼれが血を分けた兄弟なわけないだろ。父上がどっかで拾ってきたゴミだ。俺達とは違う。むしろ拾って飼育してやってるんだから感謝こそされても恨むなんてお門違いだ……確かそう申されたのは御当主殿でごさいましたよね」
あれは、忘れもしない10歳の時だ。この二人は、友人に浩明の事を聞かれた際、血の繋がった浩明を「兄弟ではない」と言って「一家の恥、生きてる価値が無い」と笑いながら話していたのを聞いてしまったのだ。
浩明にとって忘れたくても忘れられない、思い出したくもない記憶である。血を分けた兄から言われた言葉は、いつか認めてもらえるだろうと抱いていた希望を粉々に打ち砕き、どん底に叩き落とした。
それ以来、泣く事も笑う事もなくなり、励んでいた修業もやめ、食事もせず、学校にも行かず部屋に籠もり、二人の希望通り死を待つだけの生活になった。いじめられ続けていた浩明を哀れに思い励ましていた使用人にですらそれ以来、近付けさせなかったのだから日に日にやせ衰えていくのに時間はかからなかった。
やがて立つことすら出来なくなった頃に、仕事の関係で引っ越しの挨拶に来た英二によって発見され、そのまま引き取る形になったのだ。
後に聞いた話だが、「浩明は俺が引き取る」と英二が父であった天統吉秀に啖呵を切ったところ、「そんなゴミ、欲しければくれてやる」と言ったらしく、その言葉に逆上して、その場で殴りとばして病院送りにしてから絶縁状を叩きつけたそうである。曰わく「どっちにしろ出て行く時には殴り倒す予定だったから別に後悔はしていない」だそうだ。
味方の殆ど居ない孤独のなか、自分の為にここまで怒ってくれた英二の行いは、浩明の心に痛いほど響いた。
それ以来、浩明は英二を実の兄と思い、尊敬し慕うようになった。
浩明にとっての兄は、英二一人だけである。
だからこそ、自分が「兄」だと言う総一郎と、「お兄様」などと呼んでくる雅の言葉は到底、受け入れられる、否、口にして許される言葉ではなかった。
「私の兄は英二兄さん一人だけです。少なくとも、家畜の如く、否、動くゴミと扱った化物を兄だ妹と呼ぶほど、私は人間を捨ててはいませんよ」
あれだけの事をやっておきながら、何様のつもりだ。
人扱いをしなかった事への痛烈な非難の言葉に雅が反論した。
「お、お兄様、確かに私達は、お兄様に対して過ちを犯しました。ですが、今は悔いて……」
「あぁ弁明は結構、別に怨んではいませんから。地獄を経験したおかげで大抵の事には動じなくなりましたし、何より……」
一旦区切って息を整える
「人の皮を被った外道鬼畜に人間の道徳を求めること自体が間違いだったんですから」
「ちょっ、ち、違…」
「おい星野、いくらなんでもその言い方はないだろ」
それに、明美が非難の言葉を浩明にかける。第三者が聞いていて気分のいい話ではなかったようだ。
それを掩護射撃と受け取って結城の御令嬢と呼ばれた女子学生、結城このみが割って入る。
「そ、そうだよ、総一郎君も雅ちゃんもずっと謝りたいって……」
「やはりは外道鬼畜、人語は理解出来ませんか!」
しかし、それも一喝で黙らせる。それも、強烈な罵倒を以ってしてだ。
「おい、このみになんて口の聞き方してんだ!」
「康秀!」
それが、兄の結城康秀の逆鱗に触れたようで、声を荒げて責め立てるが、それを総一郎が止めに入る。
自分達は、浩明にそう言われてもおかしくない事を繰り返してきた。それに反論する資格など無いと分かっての言葉だった。
「ひ、浩明、話をさせて……」
「拷問器具が喋るな!」
総一郎が、改めて切り出すのを一喝で黙らせると、冷め切ったお茶を飲み干して喋り続けた喉を潤す。
「お茶の一杯、ご馳走様でした。では失礼、耳と目を洗いたいのでね」
「待ってくれ!」
空になったティーカップをテーブルに戻すと浩明は制止の声を無視して生徒会室を後にした。




