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1. 宰相、ご苦労だった

「宰相、ご苦労だった」


 王冠をいただいたその男は、私が十年かけて玉座に押し上げた男だ。


 第一王子ヒルデベルト。白貂の襟の外套をまとった、かつての主君が処刑台に立つ私を見下ろしている。


 王都の広場では、私の罪を読み上げる声だけが、妙にはっきりと響いた。


 罪状の手紙は、私の字によく似ている。似ているだけで、私の字ではない。


 乾いた唇をほどき、私は口を開きかけた。


「陛下! その手紙の字を、どうか……どうかもう一度」


 男は私から目を外す。それだけで、続けるはずの言葉が喉につかえる。


 私の献策を読んできた目だ。最後の一枚だけは、目の前にあっても読んでもらえない。


 頭上で、刃を吊るす金具が冷たく鳴る。


 ひゅ、と――。


 暗転。全てが終わった――はずだった。


 顔を上げると、頬に張りついていた紙が、かさりとはがれた。


「へ……?」


 紙とインクと埃の匂い。窓から春の光が差す、王宮本館の二階の書庫だ。


 私は中指のペンだこを拭い、震える指で書きかけの献策を引き寄せた。


 指のインクはまだ乾かない。紙の末尾には、書記官ルトガーの名。私の字で、私ではない男の名。


 日付は、十年前の春だった。


 私はマグヌス・フォルスト、二十八歳。王宮の書庫で、他人の名で献策を書いている文官だ。


 喉に手をやる。脈が指を叩いていた。息を吸うと、胸の奥まで空気が入る。生きている。


 窓の下から、芝を踏む音が届く。少年が犬と走っている。


 鳥の巣のような赤毛が跳ねるたび、片耳の垂れたむく犬も、朝露の残る芝の上を跳ねた。


「え……? あれは……まさか?!」


 第七王子ティーロ、十歳。七人の王子の末で、いちばん出来の悪い王子と呼ばれる子だ。


 前の人生のこの朝も、私はこの窓から庭を見ていた。


 犬は猟犬係へ下げられ、少年はひと月、西の塔に閉じ込められる。その始まりを、ただ黙って。


 五年後、この子を北の辺境へ送る書状を書いたのは、私だ。


 中庭へ、第一王子の一行が入って来た。紙を押さえる指に、力がこもる。


 淡い金の髪を肩で切りそろえた青年が、澄んだ青の目で庭を見渡す。


 その後ろを、ルトガーが三つの金の指輪を回しながら歩いていた。


 油で撫でつけた薄い栗色の髪に、小太りの腹。三年、私の献策を受け取りに来る男だ。


 犬が駆け寄る。書記官の右の靴が、その腹を蹴った。


 跳ねた犬の前足が、外套に泥を付ける。湿った跡が、布の上にくっきり残る。


 私はペンを置いた。続きは書かない。


 書庫を飛び出し、階段を駆け降りた。自分の足音が、石の壁から追いかけてくる。


「罪は三つある」


 前の主君の手は、全部私が教えたものだ。


 罪を三つ数え、最後の一つを側の者に言わせる。その型も、私の献策から来ている。


「一つ、王家の庭に泥を撥ねた。二つ、兄の外套はこの有様だ」


 私はティーロ殿下の隣に滑り込み、膝に手をつく。息が喉で引っかかる。


「誰、おじさん?」


「……お兄さんです」


 言い直すところだけは、どうにか言えた。肝心の息は、まだ戻らない。


「お兄さん、走るの遅いね」


「書庫の階段は、長うございますので」


 私は息を飲み込み、赤毛に口を寄せた。十歳の子に話す言葉まで、奏上の形になる。


「三つ目は、殿下ではなく、隣の書記官が申します」


「三つ目は、ルトガー、申せ」


「三つ。その犬は、私の手に噛みつきました」


 指輪の指で、赤い鼻の先をこする。


「嘘だ! この人、今、鼻をこすった」


「泥の王子の言うことなど、誰も聞かん。その犬は猟犬係へ下げよ」


「やだ! 噛まれたんなら、手、見せて!」


 ティーロ殿下は犬に抱きつき、腕の隙間をぴたりと閉じた。


 薔薇のそばの女官二人と庭師が、書記官の手に目を向ける。葉擦れの音が、急に近い。


「殿下、お離しください。その犬は危のうございます」


「手を見せるのが先! クヌーデルは、じっとしてるじゃん!」


「王子たる者が犬一匹で騒ぐな。お前も、その犬も、庭を汚すばかりだ」


「ぼくを叱るのはいい! でも、噛んでないクヌーデルを悪く言わないで!」


 殿下は犬を抱き直し、書記官を指さした。小さな指先が、下がらない。


「手、出して! 女官のお姉さんたちだって見てるよ!」


 女官二人が、書記官の袖口から目を離さない。その視線に押されるように、ルトガーが右手を差し出した。


 三つの指輪の間に、歯の跡も赤みも無い。


 女官の一人が、ふっと声を漏らす。


「まあ、指輪しか光っていないわ」


「ほら! クヌーデルは噛まない!」


「き、傷は、袖の下で……」


 指輪の指が、また鼻へ上がった。


「手って言ったじゃん。また、こすった」


「では、一手。――書記官殿、右の靴の先を拝見します」


「く、靴など……」


「靴も! 靴も見せて!」


 書記官は右足を左足の後ろへ引く。その動きに、庭師の目も下がる。


 靴の先には、茶色の毛と泥が残っている。


「書庫の窓から、蹴るところを拝見しました。泥を付けられたのは、外套のほうです」


「蹴ったの? クヌーデル、こっちおいで!」


 女官が口を押さえた。庭師はうつむき、肩を小刻みに揺らしている。


 噛まれた手が無い。三つ目の罪は、誰にも見せられない。


「兄上、犬を連れていかないで。ぼくの声、ちゃんと聞いてよ!」


「手に跡が無いからといって、私の外套がきれいになるわけではない」


「泥なら、ぼくが拭く! だから、犬は連れていかないで!」


 殿下が袖を伸ばして、外套の裾をつかみかけた。


「触るな。お前の袖のほうが汚れている」


「じゃあ、クヌーデルに拭かせる!」


 庭師が、こらえきれずに咳払いをする。ずいぶん苦しそうな咳だ。


 第一王子の口の端が下がった。犬の始末を言いつけた口が、すぐには動かない。


「……よい。犬は好きにせよ。泥の王子には、泥の文官が似合いだ」


 外套を払って去る男は、私の顔を見ない。今度は、こちらから言葉を差し出す気にもならない。


「行くぞ、ルトガー」


「は、はい、殿下」


 私は去っていく殿下を見つめていた。


 第一王子殿下、前の人生であなたを王にしたのは私です。そして処刑された――。


 ルトガーだけが振り返り、私の顔を見て白くなった。


「……書庫の」


 書記官は主の背を追う。右の靴が、石畳をせかせかと叩く。


 私は白くなった顔を追わない。小さな王子の腕の中で、犬の耳が揺れた。


「……よかったね」


 前歯の一本無い口を、犬の毛に埋めている。


「おじさん、あの人、鼻こすったでしょ?」


「拝見しました。殿下は、よく見ておいでです」


「兄上は見てくれない。ぼくが言うと、いつも、泥の王子だって」


「泥が付いていても、殿下のお言葉は聞こえます。今のお言葉も、私には確かに聞こえております」


「じゃあ、下で聞いてよ。窓の上だと、クヌーデルの顔も見えないよ」


 私は石畳の泥に膝をついた。


 長い背を折る。十年前には窓から眺めるだけだった顔と、ようやく同じ高さになる。


 膝から、冷たい泥の湿りがしみてくる。黒い前髪が額に落ちても、私はそれを払わなかった。


「犬のことでも、伺います。殿下が、ご自分の目で見たことなら」


「……クヌーデルのこと、言ってもいいの?」


「はい。私に、お聞かせください」


 殿下は犬の垂れた耳をつまむ。指の腹で、その柔らかさを確かめるように。


「クヌーデルはね、ぼくが呼んだら、三つ数えるうちに来るんだよ」


「三つ、でございますか?」


「うん! 兄上の罪より速いよ。きゃははは!」


 殿下が、自分で言って笑った。


「ぼくの言うこと、また勉強しない言い訳だって、笑わない?」


「笑いません。今日、書記官殿に手を出させたのは、殿下のお言葉です」


 ティーロ殿下が犬を抱いたまま笑う。その声も、犬の息遣いも、ここなら取りこぼさずに聞こえる。


「おじさん、ズボン、泥だらけだよ」


「承知のうえでございます」


 今度は、窓の上から書状を書かない。この子の目の高さで、一手ずつ打つ。


「殿下、王になりませんか」


「やだ。王様って、勉強するんでしょ?」


「王になると、犬を十匹飼えます」


 はしばみ色の目が、私の顔を見上げた。


「……十一匹は?」


「ははっ、交渉が上手い。合格です」

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