01-1 光莉の足は止まらない
光莉の足は止まらない。さきほどから、心臓が暴れている。
髪が首元に貼りついて不快だ。それでも、今だけは止まってはいけなかった。
街灯と行き交う車の前照灯が、やけに眩しい。
体力の限界だ。口のなかで薄く血の味が広がる。
いつもの帰り道のはずだった。
光莉はバイト先からここまで、ずっと走っている。
普段なら、駅前通りの少し寂れた商店の並ぶシャッターを、ぼおっと見て電車を待つ。でも今日は違う。
――誰か誰か誰か。
光莉は駆けこむように、駅舎に入り改札を抜けた。
まばらに人が見える。だけど、安全とは限らない。
きっと、着いてくるのだろう。
光莉は駅内を見わたす。近くに駅員は見当たらない。
座って本を読むサラリーマン。熱心にスマホをいじる化粧の濃い女性。黒いヘッドホンした私服の男性。眠そうな男子学生。
誰も呼吸が荒い光莉に気づかない。
一つだけ見知った制服姿を見つけた。夜の街でも際立つ美しい横顔だった。
光莉と彼は一度も同じクラスになった事がない。
それでも、今の光莉には彼しかいなかった。
一縷の希望にすがって、光莉は干からびた喉から声を絞りだす。
「才琉さん!」
意識外から自分の名前を呼ばれたからだろう。
御手洗才琉は驚いた表情を見せた。
「え、え。何。オレ?」
「才琉さん、メッセージ見たんですね! 会えて嬉しい」
光莉はそう言いながら、スマホをいじっている才琉の手を遠慮なく両手で掴んだ。 面倒くさい。才琉はそう書いた目をした。
学校でもひときわ目立つ才琉である。
そして、光莉は才琉を生粋の遊び人だと思っている。
彼は今までに、女性から同じような言葉を掛けられた事があるのかもしれない。その時のことを思い出した顔だと感じた。
光莉の震え続けている手の振動か、それとも、いつまでも整わない呼吸と鬼気迫った形相に何かを感じ取ったのか。
巻き込まれた才琉はじょじょに、真剣な面持ちに変化する。
「どした。今日、すんごい熱々ですけど」
才琉は軽薄そうな口ぶりで光莉に話しかけた。
「うん。今日は会えないと思ってたから。びっくりして」
「ふうん。カワイーこと言うじゃん」
才琉はスマホを、ズボンのポケットに仕舞いこむ。
空いた左手を光莉の腰にゆるく置いて、才琉のほうに引き寄せた。
光莉は才琉と会話しながら、後ろの様子を注意深くうかがっている。
アイツがこちらを見ていた。
ひゅうと喉から息がもれる。
才琉も光莉の様子に気がついたのか、さりげなく周囲に目線を配った。
頭一つ分の距離があった才琉の明るいミントグレージュの髪が、光莉のモカ色の髪と交じる。
「ヘンな奴いるね。あいつ?」
才琉が光莉の耳元で問いかけた。意図せず右耳に才琉の息がかかる。
くすぐったくて、少しだけ震えてしまう。
二人の距離は周りからは人目を気にせず、いちゃつく学生カップルだった。
けれど、光莉から見える才琉の顔は真面目そのものだ。
恐怖と頼もしさと巻きこんでしまった申し訳なさで、まぜこぜな気持ちになる。
返事をしたいのに、声が喉に張りついて出てこない。
光莉は返事の代わりに、才琉を少しだけ抱きしめ返した。
アイツの足音が光莉たちに近づいてくる。
「ダイジョーブ、大丈夫。オレも居ますから」
そう心配するなと、才琉に背中をリズムよく叩かれる。優しい音だった。
「おい、君。光莉の何?」
「光莉はカノジョ。そっちこそ、見てわからない。邪魔しないでよ」
「嘘つくな。お前の彼女なわけないだろ!」
井上丈慈は声を荒げた。
血走った目を光莉に向ける。この状況に苛ついているようだった。
周りを気にせず怒りをぶつける井上から、才琉は光莉を隠すように更に抱えこむ。才琉の体温まで分かる距離で触れて、光莉は顔が赤くなるのが自分でもわかった。
「いきなり来て、嘘つき呼ばわりってヒド」
「光莉は君のタイプじゃないだろ。なあ光莉、本当のことを話してくれ」
井上が一歩近づく。光莉は首を横に振った。回された才琉の腕に力がこもる。
「あのさ。オレの彼女にちょっかい出さないでよ。タイプじゃないって、勝手に決めんな」
「うるさいなあ! 光莉のフルネームも言えない癖に。いい加減、部外者は黙れ。もし、光莉と本当に付き合っているなら、目の前でキスしてみせろ」
井上の勝ち誇った声がする。
無茶な注文に、光莉の心臓はぐわんと嫌な音を発した。
光莉の本名を才琉が知っているはずがない。才琉と話したのは人生で初めてだった。
「恩田光莉。自分のカノジョの名前を覚えていないヤツ居ないでしょ?」
透きとおる声で名前を呼んだ。それから、と才琉は話を続ける。
「オレ変態じゃないから。カノジョのカワイー顔を人に見せる趣味ないんだよね。わかる?」
そう言って才琉は締めくくった。冷ややかな声だった。




