第2話(後編)「幸せな広さ」
それから半年後。
三崎悠人は、もう一度、秋月の前に座っていた。
髪は短くなり、スーツも前より似合って見えた。
「正社員、なったんですね」
「はい」
悠人は少し照れくさそうに笑った。
「給料、下がりましたけど」
「下がった?」
「前は夜勤とか入れてたんで。でも、今の方が安定してるっていうか」
秋月は資料を見る。
勤続六か月。
年収は高くない。
だが、堅実だった。
「条件を考慮しますと、少し郊外にはなるかもしれませんが、マンション購入は可能だと思います」
一瞬、悠人は言葉を失った。
「……本当に?」
「審査次第ですが」
悠人は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます」
その姿は、どこか少年みたいだった。
一週間後。
事前審査は無事通過した。
悠人は、恋人の小川栞と一緒に、いくつものマンションを見て回った。
郊外の3LDK。
駅徒歩十分。
決して派手ではない。
だが、二人で暮らすには十分すぎる広さだった。
「ここ、日当たりいいね」
栞は窓際で笑った。
「猫とか飼えそう」
「俺、猫アレルギーかも」
「えー」
二人は笑った。
最初は、それで良かった。
だが、何件も内覧を重ねるうちに、少しずつ違和感が生まれ始めた。
「この部屋なら、子供部屋も作れそうだね」
栞が何気なく言った時。
悠人は、少し黙った。
「……子供?」
「え?」
「いや、なんでもない」
また別の日。
「正社員、慣れた?」
そう聞かれた悠人は、少し考えてから答えた。
「慣れたっていうか……頑張ってる感じかな」
「そっか」
栞は笑った。
でも、その時。
悠人は、自分の中に小さな違和感があることに気づいていた。
休日。
以前なら、昼まで寝ていた。
スーパーで弁当を買い、動画を見ながらゲームをする。
掲示板へ何気なく書き込みをして、誰かが反応してくれると少し嬉しい。
そんな時間が、好きだった。
今は、違う。
朝から内覧。
住宅情報サイト。
家具。
将来。
もちろん、栞といる時間は好きだった。
だが、自分が少しずつ“別の誰か”になっていく気もしていた。
三か月後。
悠人は、再び住宅ローン相談窓口へやってきた。
だが今日は、一人ではなかった。
隣には、栞も座っている。
「今日は、どうされましたか?」
秋月が尋ねる。
悠人と栞は顔を見合わせた。
そして悠人が言った。
「マンション、買うのやめます」
秋月は黙って続きを待った。
「正社員も、辞めようと思ってます」
相川が、近くのデスクで小さく目を丸くした。
「えっ」
だが秋月は表情を変えなかった。
「理由を、お聞きしても?」
悠人は少し考えてから、ゆっくり言葉を選んだ。
「結婚って、何かを捨てることだと思ってました」
「でも」
悠人は小さく笑った。
「全部を捨てる必要はないんじゃないかって」
栞が、隣で静かにうなずく。
「この人、無理すると顔に出るんです」
栞は少し笑った。
「最近、ずっと疲れてたから」
悠人は照れくさそうに頭をかいた。
「自分には、非正規の働き方が合ってるんだと思います」
「その代わり、すごいマンションとかは無理ですけど」
「二人で賃貸借りて、お互い好きなことしながら一緒にいられれば、それでいいかなって」
しばらく、静かな時間が流れた。
「住宅ローンの相談に乗ってもらったのに、すみません」
悠人が頭を下げる。
だが秋月は、静かに首を横へ振った。
「いいえ」
そして、ゆっくり言った。
「家を買うことだけが、人生の正解ではありません」
悠人は顔を上げた。
「住宅ローンは、“幸せになるため”に組むものです」
「ローンを組むために、人生を変える必要はありません」
悠人は、しばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「なんか、安心しました」
栞も、ほっとしたように笑う。
二人が帰ったあと。
相川が、缶コーヒーを片手に秋月の隣へ来た。
「でも、珍しいですね」
「家買えるのに、やめる人」
秋月は窓の外を見た。
夕方の街。
無数の灯りが並んでいる。
「人によって、幸せな広さは違うんだろう」
相川は少し笑った。
「また秋月さん、ドラマみたいなこと言ってる」
秋月も、小さく笑った。
その夜も、街には無数の灯りがともっていた。




