第1話(後編)「三十五年の契約」
秋月耕助は、それなりに忙しい日々を送るうちに、真壁夫婦のことを少しずつ忘れかけていた。
引っ越しから半年後。
彩乃が、一人で相談窓口へ現れた。
ブランド物のバッグを握る手が、小さく震えていた。
「今日は、どうされましたか」
秋月が尋ねる。
彩乃はしばらく黙ったあと、視線を落として言った。
「……私たち、離婚することになりました」
秋月は何も言わなかった。
彩乃は続ける。
「私のローンを、あの人に付け替えてください」
秋月はすぐには答えなかった。
机の上で静かに指を組み、言葉を選ぶように口を開く。
「……ペアローンの場合、お二人それぞれに所有権の持分があります」
彩乃は黙っている。
「そのため、奥様の持分をご主人様へ移す場合、“譲渡”という扱いになります」
「譲渡……?」
「はい。場合によっては税金も発生します」
彩乃の表情が、少しずつ険しくなっていく。
秋月は続けた。
「加えて、ご主人様お一人でローンを引き継ぐ場合、銀行としては改めて返済能力を審査する必要があります」
「だから、それを通してくださいって言ってるんです」
彩乃の声が強くなる。
だが秋月は、静かな口調を崩さなかった。
「現在のご年収ですと、返済比率が基準を超える可能性があります」
「じゃあ、どうしろって言うんですか」
その言葉は怒りというより、疲れ切った人間の声に近かった。
相談ブースに、短い沈黙が落ちる。
秋月は、責めるようにならないよう注意しながら言った。
「住宅ローンは、“家を買う時”の契約ではありません」
「三十五年、生きていくための契約なんです」
彩乃は、何も答えなかった。
数日後。
今度は和也が一人でやって来た。
スーツはよれていた。
以前より痩せたようにも見える。
「すみません……彩乃から、連絡ありましたよね」
「はい」
和也は力なく笑った。
「あのマンション、僕には身の丈に合ってなかったんですよ」
秋月は黙って聞いていた。
「BMWくらい乗ってないと、営業先で舐められる気がしてたんです」
和也は視線を落とした。
「タワマンも、そうでした。ちゃんとして見える人間になりたかった」
しばらく沈黙が続く。
「でも」
和也は、小さく笑った。
「帰るのが苦しくなってしまった」
結局、マンションは売却されることになった。
秋月は、昔から付き合いのある不動産会社のオガタ不動産の尾方修一を真壁夫婦に紹介した。
「秋月さんの紹介なら、ちゃんとやりますよ」
尾方は人当たりのいい笑顔で名刺を差し出した。
だが、その目は相場を読む人間の目だった。
「この部屋、そんな値段じゃ売れませんよ」
最初に彩乃が提示した希望価格を見て、尾方は苦笑した。
「ムーンライズ港南ツインタワーは人気です。でも、今は買う側もかなりシビアですから」
彩乃は納得していない顔だった。
「でも、私たちが買った時より上の階は高く売れてましたよね?」
「半年前なら、ですね」
尾方は営業用の笑顔を崩さないまま答えた。
「今は少し流れが変わってます」
だが、彩乃は価格を下げようとしなかった。
いや。
下げられなかったのだ。
問い合わせは来る。
内覧も入る。
だが決まらない。
その間も、毎月の返済だけは続いていく。
和也と彩乃は、もうほとんど連絡を取っていなかった。
それでも同じ日に、同じマンションのローンが口座から落ちていく。
家具は、少しずつ消えていった。
最初はダイニングテーブルだった。
次にソファ。
大型テレビが運び出された日、リビングには妙に声が響いた。
和也は、何もない壁を見ながら思った。
……こんなに広かったんだな。
彩乃は最後まで、ベランダ側のカーテンだけは残していた。
カーテンを外してしまうと、この部屋での生活が本当に終わってしまう気がした。
三か月後。
ようやく彩乃は、値下げを受け入れた。
「……売りましょう」
その時、尾方は少しだけ表情を緩めた。
「たぶん、その決断が一番傷が浅いです」
内覧の日。
若い夫婦が部屋へ入ってくる。
「すごい……」
妻が、目を輝かせて言った。
「見て、夜景」
夫も笑っている。
その姿は、半年前の自分たちによく似ていた。
彩乃は、小さく視線を落とした。
和也は、その夫婦から目を逸らした。
秋月だけが、静かにその様子を見ていた。
そして、買い手は決まった。
だが、市況は購入時より少し下がっていた。
売却額ではローンを完済できず、真壁夫婦には残債だけが残った。
売却手続きの日。
秋月は、抵当権抹消の確認書類について、尾方から立ち会いを頼まれていた。
すべての手続きが終わり、尾方は席を立つ。
「じゃあ、私はこれで」
だが、去り際に小さくこう言った。
「家って、不思議ですよね」
「買う時は“未来”の話しかしないのに、売る時は“現実”の話ばかりになる」
尾方が去ったあと。
静かになった部屋で、彩乃がぽつりと言った。
「私、ここに住めば幸せになれると思ってたんです」
秋月は、しばらく黙っていた。
遠くに、無数のマンションの灯りが見える。
そのひとつひとつに、誰かの生活がある。
誰かの三十五年がある。
秋月は静かに言った。
「家は、人生を始める場所です」
「終わらせる場所じゃありません」
彩乃は何かを言いかけたが、最後まで言葉にならなかった。
会社へ戻ると、相川澪が缶コーヒーを片手に言った。
「最近、タワマン相談ほんと多いですね」
秋月は窓の外を見た。
夜の街に、無数の灯りが浮かんでいる。
「みんな、あの灯りの中に“これから”があると思うんだろうな」
相川は少し不思議そうな顔をしたあと、
「また秋月さん、ドラマみたいなこと言ってる」
と笑った。
秋月も少しだけ笑った。
その夜も、街には無数の灯りがともっていた。




