第1話(前編)「ムーンライズ港南ツインタワー」
定年後の再雇用で、秋月耕助は住宅ローン相談窓口へ回された。
営業畑一筋だった男にとって、住宅ローンなど未知の世界だった。
「秋月さん、お客様ご案内しています。あとはお願いします」
若い女性社員が、タブレットを抱えながら声をかけてくる。
相川澪。
二十代半ば。
融資課に配属されて三年目になる。
「今日はタワマン希望のお客様ですよ。かなり気合い入ってます」
どこか面白がるような口調だった。
「そうか」
秋月は小さく返事をし、相談ブースへ向かった。
「マンションを買おうと思ってるんですが、どれくらい借りられるか教えてもらえます?」
夫の真壁和也が、遠慮がちに言う。
だが、その言葉を遮るように妻の彩乃が口を開いた。
「だから私は、ムーンライズ港南ツインタワーがいいって言ってるの」
少し苛立った声だった。
「まあまあ……」
和也がなだめようとする。
秋月は二人の顔を交互に見たあと、静かに尋ねた。
「お借り入れは、ご主人お一人のご予定ですか?」
「もちろんです」
彩乃が即答する。
秋月はうなずき、パソコンへ視線を落とした。
年収。
勤務先。
現在のお借り入れ。
画面を見ながら、秋月は小さく眉を寄せる。
「……真壁様。率直に申し上げると、現在のお車のローンを含めますと、ムーンライズ港南ツインタワーのご購入は少し難しいかもしれません」
「ほら見ろ」
和也がすぐに言った。
「だから言ったじゃないか」
彩乃は露骨に不機嫌な顔をした。
そして腕を組み、吐き捨てるように言った。
「じゃあ、私も一緒に組めばいいんでしょ。私の方が年収高いんだから」
秋月は、ペアローンについて丁寧に説明した。
所有権。
連帯債務。
もしもの時の責任。
離婚した夫婦が、家だけを残して争った例も話した。
だが、二人は聞いていなかった。
いや。
正確には、“聞きたくなかった”のだろう。
数週間後。
真壁夫婦は、ペアローンでムーンライズ港南ツインタワーを購入した。
そして半年後。
真壁夫婦は、憧れだったムーンライズ港南ツインタワーへ引っ越した。
「秋月さん、これ見ました?」
ある日の昼休み。
相川澪がスマホを片手に話しかけてきた。
「真壁さんの奥さん、SNSやってたんですね」
画面には、彩乃の投稿が映っていた。
《#タワマン生活》
《#夜景最高》
《#港区ライフ》
そんな言葉と一緒に、ベランダから撮った夜景の写真が並んでいる。
無数の灯りが、宝石みたいに輝いていた。
「すごいですよねぇ。ラウンジとかホテルみたいです」
相川は感心したように言った。
秋月は小さくうなずいた。
彩乃は、インテリアにもこだわった。
白を基調にしたソファ。
間接照明。
アイランドキッチン。
「モデルルームみたい」
遊びに来た友人は、みんな同じことを言った。
彩乃は、その言葉を聞くたび嬉しそうに笑った。
和也も最初は浮かれていた。
休日になるたび、高層階のラウンジへ行った。
「すごいな、お前ん家」
友人にそう言われるたび、少し誇らしかった。
無理をして買ったBMWも、タワーマンションの駐車場では不思議と似合って見えた。
仕事帰り、エレベーターで高層階へ上がっていく時間も嫌いではなかった。
東京の夜景が、少しずつ広がっていく。
自分も“こっち側”へ来れた気がした。
だが、その頃から和也は以前より帰宅が遅くなった。
残業。
休日出勤。
接待。
毎月の返済予定表を見るたび、胃の奥が重くなった。




