00_序章
――この日を起点にすべての運命が狂い始めた。
アルカディア王国最果ての地、第七セクター。
そこは今、数万を超える魔物の群れによって、文字通りの地獄と化していた。
「もうだめだ……終わりだ……」
「このままでは、もう……」
「死にたくない……っ!」
無差別に食い散らかされる同僚たちを間近に、防衛隊の兵士たちは絶望に瞳を濁らせる。
彼らはただ、崩壊していく外壁を呆然と見上げることしかできなかった。
人類の希望だった防塞が、無残にも黒い波に飲み込まれようとしたその瞬間――。
空から、一輪の白亜の桜が舞い落ちた。
『舞え、氷華』
つま先をチョン、と地面につける。
たったそれだけの動作だった。
刹那、地を這う氷の結晶が、荒れ狂う魔物の群れをその咆哮ごと凍りつかせた。
数万の命が、一瞬にして物言わぬ氷像へと変わり、砕け散る。
先ほどまで戦場を支配していた喧騒が嘘のように消え、世界が凍りついたかのような「静寂」が訪れた。
「あ、あのお方は……七大執政の一人、第七席「暗黙の白姫」様だ!」
「暗黙の白姫様が来てくださったぞ!」
「救世主だ……まさに、神のお使いだ!」
戦場の最前線にふわりと降り立ったのは、深いフードを目深に被り、素顔を隠した少女。
だが、その背に揺れる「第七席」の紋章が、彼女が王国最強の一角であることを証明していた。
七大執政が第七席、『暗黙の白姫』。
神業に近い圧倒的な武の体現により、彼女はたった一人で地獄を塗り替えてみせた。
兵士たちが歓喜の声を上げるが、彼女は一瞥もしない。
そして無言のまま、常人には目で追えぬ速度で上空へと駆け上がり、姿を消した。
◇
高速で空を駆ける彼女の耳元で、王室専用の緊急通信機が震える。
『……桜夜! 桜夜っ! 聞こえるか!?』
発信者は、この国の若き国王であり、彼女の幼馴染でもあるイヴ。
その声は、かつてないほどに震えていた。
「……イヴ? なにかありま――」
『落ち着いて聞くんだ……! たった今、君たち七大執政の生命危機を知らせるアラートが、ボクの端末で鳴った……』
「っ!? まさか、それを私に伝えるということは……」
『第一席が……遥が……っ!』
心臓が、跳ねた。
世界最強と謳われた師、月乃遥。
桜夜にとって母も同然の存在が――まさか、あり得ない。
桜夜は返事もせず、さらに加速して跳躍した。
七大執政の中でも最速を誇る彼女が目にしたのは、無残に破壊された拠点と、その中心で血の海に沈む「第一席・聖光の聖女」の姿だった。
「……遥、さん……?」
駆け寄った桜夜の手が、冷たくなり始めた体に触れる。
「そ、そんな……遥さん……!」
致命傷だ。
王国の最高戦力が、これほどまでの深手を負わされるなど、正気の沙汰ではない。
「……ぁ……っ」
光を失った両目で、遥は必死に何かを伝えようとしていた。
しかし、思うように声が出ない。急速に生気が失われていく。
「喋らないでください! 今、すぐに王宮へ――」
桜夜は奥歯を噛み締めた。
まだ間に合う。
一刻を争う事態に、彼女の脳裏に「禁忌」の術式が浮かび上がる。
「……『フルスロットル』、解!」
その瞬間、桜夜の全身をどす黒い稲妻が駆け抜けた。
この世で己のみが持つ「魔術」回路を、己の命そのものを燃料として燃焼させ、理を超えた出力を強制的に引き出す自戒の禁じ手。
「が、ぁあああああっ!」
口から鮮血が溢れる。
視界が赤く染まり、骨を削るような激痛が走るが、桜夜は止まらない。
彼女は遥を抱きかかえると、空間そのものを踏みつけるような速度で、王宮へと跳んだ。
◇
王宮の隠し病棟。
倒れ込むように遥を運び込んだ桜夜もまた、満身創痍だった。
国王イヴは直属の医師たちを総出で治療にあたらせたが、その静寂はあまりに長く、冷酷だった。
やがて処置室から出てきたイヴが、無言のまま桜夜の前に立った。
「……嘘、だと言ってください……!」
桜夜の震える声に、イヴは答えず、ただ彼女を強く抱きしめた。
その体温だけが、無情な「答え」だった。
絶望と、体を極限まで酷使した反動により、彼女は声にならない叫びを上げて意識を手放した。
――その日、王国の「光」が消えた。
数日後に目覚めた桜夜は、氷のように冷え切った心で、イヴから衝撃の事実を告げられる。
「遥は、暗殺された」
それは、桜夜もうすうす感じていたことだった。
最強の遥が、魔物ごときに遅れをとるはずがない。
致命傷となった心臓への刺し傷。
そして、巧妙に遮断された魔導力回路の跡。
魔物は人間の魔導力を食らうため、わざわざ回路を断つような器用な真似はしない。
結論は、一つ。
「桜夜。……七大執政の中に、裏切り者がいるかもしれない」
冷たい雨が降る王都の空を見上げ、桜夜は無言を貫く。
「国王として、この国になくてはならない最強の七人を疑いたくはない。しかし、この国……あるいはこの世界を陥れようとしている者がいる。遥を狙い亡き者にしたのはその証明だ……そして、その力は遥の「一人娘」に受け継がれている」
「……」
「キミと遥の関係性を知っているのはボクだけだ。だからこそキミにしかこの任務は託せない。……第七席、暗黙の白姫に命じる。第一席を殺した犯人を探し出せ。そして、命の危険が迫っている遥の「一人娘」、月乃乙羽を守り抜け」
涙さえ枯れ果てた瞳の奥で、彼女は静かに「復讐」と「死守」の熱い決意を固めた。




