9、まかない
「すみません、透真さん。助けていただいて」
「いえ、食堂は一斉に混んでしまうのが常ですから。それに初日なのに、問題なく終えることができたと思いますよ」
透真はランチを、琴音はまかないを一緒のテーブルについて食べた。テラス席は心地よい風が吹くし、昼間の営業は済んでいるが。さすがにまかないを外から見える場所で食べるのは気が引けるので、店内で取っている。
「小エビがぷりっとしておいしいですね」
きれいな手つきで、透真はナイフとフォークを扱う。
「もしかしてマヨネーズは手作りですか? 味が違います。何というか爽やかで、市販のように舌にまとわりつかない感じです」
「はい。簡単に作れるんですよ」
「そうなんですか? すごいですね。琴音さんは得意が多いんですね」
透真が話しかけてくれるので、琴音も少し心が軽くなる。百花の母親の件を引きずって、食事も喉を通らないかと思えたが。透真の思いやりのおかげで、ちゃんと食べることができた。
琴音のまかないは、パン・ド・カンパーニュの切れ端に野菜のオーブン焼きの残りを載せたものだ。くたっとなったズッキーニや茄子は見栄えが悪く、オリーブオイルでひたひたに浸されている。
「ランチ客の話にそれとなく耳を澄ませていましたが。琴音さんはここでの営業に向いていると思いますよ」
まだ使っていないスプーンで、透真は小エビをすくった。そして向かいに座る琴音の皿の隅に載せる。
「すこし交換しましょう。琴音さんのまかないを食べてみたいです」
「え? でも、これは形も崩れていますし。耐熱皿の底に残ったものですから」
特にトマトが崩れてしまっているので、皮の部分がちりっと細く外れている。
「おいしいと思いますよ。特にトマトとオリーブオイルが混じった部分が、どっしりとしたパンに合うのではないでしょうか」
透真は引かない。しかももう琴音の皿に小エビが分けてあるので断ることもできない。
見た目の温厚さに似合わず、意外と強引だ。
琴音はまだ手を付けていない方のパンをナイフで切って、分けた。
「では遠慮なく」と、透真が手でつまんでパンを口に運ぶ。しなやかな指先がオイルで濡れるのが見えた。
「うま……っ」
あまりにも素直な反応だ。透真は瞼を閉じて、味わいの余韻を楽しんでいる。
「そうだ、お願いがあるのですが。琴音さんは夕食を作りますよね?」
「はい。うち以外にお店もありませんので」
「琴音さんのついででいいので、ぼくの分も作ってもらえないでしょうか。勿論、材料費や光熱費だけでなく、人件費もお支払いします」
「え? 別にいいですよ、だって材料もランチの残りを使いますし」
戸惑いながら答える琴音だが、透真は首を振った。
「それはいけません」と譲らない。
確かに近所に店はないが、透真は車に乗るのだから十分も山を下れば飲食店もあるし、スーパーもあるのに。
「少量作るとなると割高なので、多めに料理を作るじゃないですか。すると、同じメニューが続くんです。さして美味しくもない自分の料理が毎日……軽い拷問ですね」
「は、はぁ」
オイルのついた指を紙ナプキンで拭く透真を、向かいの席の琴音は眺めた。
「実は冷凍食品やレトルト食品を買いこんでいたのですが、味も濃いですし。何より飽きます」
「透真さんは意外と食いしん坊ですね」
「琴音さんの料理がおいしいからですよ。罪作りな人だ」
柔和な笑みを透真はたたえた。月光食堂を任された時もだが、やはりこの人は押しが強い。
いやいやいや、流されっぱなしだって、わたし。
とはいえ透真がいてくれたからこそ、初めてのランチ営業を乗り切ることができたのだ。
「……考えておきます」と、琴音はぽそっと答えた。
「社交辞令ではなく、前向きの考えでお願いします」
「ところで」と透真は話題を唐突に変える。
「百花さんのお母さんの対応は大変でしたね」
「ご存じなんですか? 彼女のことを」
ナイフとフォークを皿において、透真はうなずいた。
「『ルドルフとイッパイアッテナ』の本を借りていたのが、千華さん、百花さんのお姉さんですね」
月灯り図書館の常連である千華は、自由に外に出ることができない。だから本の貸し出しや延長も、透真が療養院まで行っているらしい。
「千華さんは赤ちゃんの頃に大病をして、療養院に長く入院しているんです。お父さんは海外赴任で、お母さんは千華さんにかかりきり。今日のように百花さんが見舞いについて来ても、おとなしくしていないといけないんです」
透真の説明に、琴音は苦いものを呑み込んだ心地になった。
見舞いの日だけではないはずだ。ずっとだ。
お姉ちゃんは大変なんだから、あなたは手間をかけさせないで。いい子にして。文句を言わないで。
百花の母親は全身でひりつきながら、末の娘に圧力をかけている。
「お母さんが大変なのは分かります。千華さんのことで常に不安なのも。でも……でも」
百花はどうなるのだ。聞き分けのいい子を押しつけられて、誰にも頼れず相談もできず。
少し、ほんの少しだけでも夕暮れのジュースを飲みたいという我儘を聞いてあげることもできないのだろうか。
「百花さんにお母さんの関心を向けることは、おそらくできません。百花さんはわずか十歳でありながら、大人であることを求められているのです。そして逸脱することは許されない」
「そんな――」
琴音は唇を噛んだ。自分は親に捨てられた、母の顔すら覚えていないし。父は存在すら知らない。
琴音のもっとも古い記憶は、修道院の前の石段で座っていたことだ。シスターと話していた人が母親なのだろう、きっと。
最後のその人は琴音を抱きしめて、そして去っていった。
――必ず迎えに来るから。
冬の寒い日で雪が舞っていた。雪が消えて春になり、修道院の中庭の緑が滴る夏になっても、葉が落ちてしまっても。何度季節をくり返しても――母は迎えに来なかった。
嘘ばっかりだ。
百花は琴音と違い、母親はいる。けれど、常に姉と比較されるのだ。「あなたは健康だから、恵まれているのよ」「お姉ちゃんはつらいのを耐えているのよ。あなたは我慢が足りないわ」と。