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8、百花の母

 十二時を少し過ぎた頃から、月光食堂はにぎわい始めた。療養院の見舞客がほとんどだと思っていたが、意外と図書館の利用客も多そうだ。


 三日月湖の湖畔には別荘地がある。別荘を自宅として暮らしている人たちが図書館で本を借り、月光食堂でくつろぐようだ。


「よかったわ、食堂を開いてくれて。カフェに行こうにも山を下りないといけないでしょ? 散歩ついでに立ち寄れるところが欲しかったのよね」

「スモーブローか、懐かしいな。ぼくはね、皮をカリカリにしたローストポークのが好きだね。紫キャベツときゅうりとビーツのピクルスが載っているんだ。そういえば日本って沖縄料理以外は豚の皮を食べないよね」


 なかなかに高級そうな出で立ちの老夫婦もいるし、療養院帰りの親子もいる。

 琴音は空になったグラスに水を注いでまわった。


 すでに食事を終えた百花は足をぶらぶらさせて、月光食堂に入る客を眺めている。まるで何かを探しているかのように。


「お母さん、遅いですね」と、琴音はテラスに出て百花に話しかけた。


「う、うん。ママはお姉ちゃんで忙しいから。あの、ここって子供は来ないの?」

「今日の予約は百花さん以外は大人ばかりですね」

「そっか、いないんだ。病院もね、入院してる子しかいなかったよ。百花みたいな子いなかった」


 母親が遅いことも、話し相手となる子がいないことも、百花の心を曇らせているようだ。消毒薬の匂うひんやりとした療養院で、やはり百花は寂しさの中にいたのだろう。


「百花さん、お皿をお下げしますね。食後の飲み物は何になさいますか?」


 琴音はあえて明るい声で提案した。


「まだ、ごちそうさましなくていいの? 選べるの?」


 百花はほっとしたように皿を片づける琴音を見上げた。テラス席も店内も、子供が一人だけの客はいない。

 もっと頻繁に声をかけてあげたいが、接客に忙しくてなかなか百花の側にはいられない。


「好きなのを選んでくださいね」


 百花はドリンク類のメニューを渡されて、ぱぁぁっと顔を輝かせた。


「ジュースがあるよ。すごい、メロンソーダだって。レモンスカッシュってなんだろ。あと、あと、ゆうぐれのジュース?」

「ちょっとした仕掛けのあるジュースなんですよ。色が変わるんです」

「わぁ、おもしろそう。それにする」


 レモンを利用して色の変化を楽しむジュースだが、琴音の中ではまだ完成形ではない。三日月湖の暮れていく空をもっとうまく表現したいのに。あと少し、何かが足りない。


 その時だった。琴音は背後に人の気配を感じた。「あ、ママ」と百花が顔を上げる。

 立っていたのは四十歳ほどの女性だ。顔色は悪く、神経質そうに眉をひそめている。毛先のパサついた髪をひとつに結んでいる。


「娘にそんなものを勧めないでください。うちは夏でも温かいものしか飲ませないんです」

「ママ、でもお姉さんが……」

「それに何? もっと丁寧に話しなさい。いつも言ってるわよね。千華ちゃんの病気でママ、大変なんだから。百花は手間をかけさせないで。大人にはちゃんとした言葉で話しなさい」


 百花の母親は早口でまくし立てた。声が大きいせいで、テラス席にいる客の視線が集中する。


「パパだって仕事が忙しいから、わざわざタイから帰ってこれないのよ。そんなことも分かってくれないなんて、百花にはがっかりだわ」


 百花は返事すらできない。まるで殻の中に引っ込んだ貝のようだ。蓋すらも閉じて、自分を守ろうとしている。


「いつもみたいに、しっかりしてくれないと困るのよ」


 ――琴音は、私と違ってしっかりしているから。大丈夫よね、ひとりでも。


 忘れていたはずの声が、琴音の耳の奥をぞろりと撫でる。

 顔は真っ黒に墨で塗りつぶされているのに、髪型も体形もよく覚えていないのに。母親の声だけはあまりにも鮮やかに残っている。


「しっかりなんてしていない」


 琴音はラベンダー色のエプロンをぎゅっと握りしめ、誰にも聞こえぬほどの小さな声で呟いた。


「ごめんなさい、ママ。お姉ちゃんのことでたいへんなの、わかってる……ます。百花、手間かけさせません」

「分かればいいのよ」


 椅子を引いて母親は腰を下ろした。そして何事もなかったかのように琴音に「ランチをお願い」と告げる。

 唇がわなないて、琴音は頭を下げるのが精いっぱいだった。他の客はひそひそと耳打ちしながら、怪訝な目つきで百花の母親に視線を向けていた。


 キッチンに戻り、急いでオープンサンドの用意をする。手を洗い、すでに切ってあるパンを皿にのせて小エビを盛る。さらにディルをちぎって上に飾り、夏野菜のオーブン焼きと一緒にトレイに載せる。

 簡単なことだ。なのに、小エビをうまく積めない。ナイフとフォークを添えるとカチャカチャと音を立ててしまう。


 指が震えている。琴音はマヨネーズで汚れてしまった皿を、キッチンペーパーで拭った。


 違う、先にグラスに水を入れて運ばなくちゃ。レモンの輪切りと氷水を入れたカラフェに手を伸ばして、琴音は動きを止めた。


「だめ。百花ちゃんのお母さんは冷たい水を飲まないんだ」


 それならウォーターサーバーのお湯にレモンを入れたのを、新しく用意しないと。


「すみませーん。お会計お願いします」


 カウンターから声が聞こえる。狭いキッチンでおろおろしながら、琴音は飛び出した。

 ガシャン! 空のグラスが床に落ちた。ああ、お料理を出さなくちゃ。お会計もしなくちゃ。

 頭の中が真っ白になり、琴音は立ちつくした。


「はい、ただいま」


 よく知っている声が聞こえた。そしてレジのあるカウンターに向かう人影も。

 手慣れた様子でその人は会計作業を済ませている。


「すみません。ランチはキャッシュでのお支払い限定なんですよ。はは、そうですね。不便ですがご理解をお願いします」

「そういえば予約の電話の時に言われていたなぁ。いや、すまんね」


「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。午後にはカフェメニューもございますし、夕刻にはお酒も提供いたしております」


 やはり透真だ。深々と頭を下げてから、扉が閉まるまで先ほどのお客にひらひらと手を振っている。


「大丈夫ですか? 琴音さん。すごい音がしましたが」


 キッチンに入って来た透真は「おっ」と床に転がったグラスを拾った。丈夫なデュラレックスなのが幸いして、割れずに済んでいる。


「私が拭いておきますから。琴音さんは料理をお出ししてください」

「は、はい。ありがとうございます」


 透真に助けられた琴音の意識は、一瞬にして今この現実に戻った。

 そうだ、怖がっている場合じゃない。怯えていても仕方がない。


 何のために生きるのか分からないけど、今だけは分かる。月光食堂でのランチを快適に過ごしてもらう。それが自分の使命なのだ。

 琴音はレモンの輪切りを入れた温水とおしぼりを運んだ。


 百花の母親は黙々とランチをとった。まるで義務でもあるかのように茄子やズッキーニを食べ、ナイフで切ったパンを小エビと共に淡々と口に運ぶ。

 表情が変わらないから、おいしいのかそうでないのかも伝わってこない。


「あ、あのね、ママ。この間、図書館で借りてた絵本をもう一回借りたいの」


 母親の返事はない。


「そのエビね、ディルっていうのが入ってるんだって」

「ふぅん」


 勇気を振り絞ったであろう百花の言葉は、無慈悲な風に攫われるようにあっさりと流された。


「もう飲み物も持ってきてちょうだい。私はコーヒー、この子はホットミルクを」

「……いらない」

「え? 何を言ってるの? そのままで飲みづらいなら蜂蜜を入れてもらうから」

「いらないの」


 揃えた膝にこぶしを置いて、百花は小さな声を発する。肩も体も強ばって見える。だが母子の間に琴音が口を挟むことはできない。


「あ、そう」


 まただ。どんなに百花が話しかけても訴えても、母親はそっけない様子だ。

 百花の母親は急いでランチを食べ終え、コーヒーを流し込むように飲み干した。


「さぁ、行きましょう。お姉ちゃんを一人にしたら可哀想でしょ。せっかくお見舞いに来たんだから、お姉ちゃんを楽しませてあげてちょうだい」


 母親は百花の腕を引っぱって立たせる。そのまま急いで会計を済ませて出ていった。


「……け」


 荒々しくなるウィンドチャイムに、百花に不似合いな言葉が重なった。


 湖畔の道を引きずられながら、百花は何度も月光食堂をふり返る。空はこんなにも晴れ渡っているのに、今にも泣きそうに表情を歪ませて。

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