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7、初めてのお客さま

「あのー、入ってもいいですか?」


 戸惑いがちな言葉が聞こえて、月光食堂のドアが開いた。湖からの風がするりと流れ込み、ウィンドチャイムの銀の棒がリリリと澄んだ高い音を立てる。


「いらっしゃいませ。お名前を伺ってもよろしいですか?」

「その、えっとももか。まつおかももかです。ももの花じゃなくって、百の花です」

「松岡百花さんですね。ご予約を承っております。さぁ、どうぞ中へお入りください」


 琴音は穏やかな声で応じた。


 百花と名乗った少女は、柔らかなふんわりとした癖のある髪を二つに結んでいる。麦わら帽子をかぶり、左右の髪に水色のリボンを結んでいた。

 小学三、四年生だろう。琴音が子供扱いせずに大人同様に接したからなのか、はにかみながらも百花はすっと背筋を伸ばして店内に入った。

 ちゃんと麦わら帽子も脱いで手に持った。


「お連れの方がいらっしゃるまで、お食事はお待ちした方がいいでしょうか?」

「おつれ、えっと。ママは先に食べてなさいって言ったよ。お姉ちゃんのお昼ごはんが終わってから来るって」


 窓際の席に案内しようかと考えて、琴音はふと思いついた。


「ではテラス席でお召し上がりになりませんか? 今日は天気もいいですし、風が気持ちいいですよ」

「テラスってお外? いいの?」


 声を弾ませた百花の目が煌めいた。かかとを上下したようで、編み目の崩れた三つ編みが跳ねている。


「はい。三日月湖がよく見えるんです。お席へご案内しますね」


 初めてのお客さまは、愛らしいお嬢さんだ。百花も一人でおしゃれな食堂に入るのを緊張しているが、琴音もまた同じ。説明の言葉を噛まないか、緊張で手が震えないかと鼓動が速い。


 たとえ開店初日であっても、それはお客さまには関係ないこと。わたしはプロ、わたしはプロ――。何度も念じながら、テラスに続く掃き出し窓を開いた。


 光溢れる眩しさに、琴音は目を細めた。

 頭上にはストライプのオーニングが掛けられ、直接の陽ざしは遮ることができる。


「湖が見える方がいいですね」と、琴音は椅子を引いた。レディとしての扱いを受けたことがなかったのだろう。百花は「いいの?」と何度も尋ねながら椅子に腰を下ろす。


 テラスからは道を挟んで三日月湖が真正面に見える。水天一碧(すいてんいっぺき)。空と湖の青の境も曖昧だ。

 落ち着かない様子で足をぶらぶらさせて座っていた百花だったが、琴音が料理を運んでくるとぴしっと両足を揃えた。


「今日のランチは夏野菜のオーブン焼きと、瀬戸内海産の小エビのオープンサンドです」

「わぁ。すごい」


 薄く切ったパン・ド・カンパーニュの上には殻を剥いた蒸し海老がこんもりと盛られている。マヨネーズとレモン果汁、それに刻んだディルで海老を和えたものだ。


 デンマークでスモーブローと呼ばれるオープンサンドの一種だ。スモーはバター、ブローはパンを意味する。つまりパンにたっぷりと(齧った時に歯型がつくくらい)バターを塗るのがおいしさの秘訣。


 せっかくなのでマヨネーズも手作りした。マヨネーズは存外簡単に作ることができる。

 卵に酢と塩、そして植物性の油を入れて撹拌する。オリーブオイルを使おうかとも考えたが、オイルの量も多いしクセが強いので苦手な人もいるだろう。結局米油で作ることにした。

 大きく清潔な壜に材料を入れ、ハンドブレンダーで混ぜると、次第にもわぁと膨らんでくる。売っているマヨネーズよりもあっさりとして、素材の味を邪魔しない。


「大人用のナイフとフォークは手に余りますから、小さめのをお使いください」


 それと、と琴音はスプーンもテーブルに置く。オープンサンドをナイフで切って口に運ぶ時に、皿にこぼれてしまった小エビをすくえるように。

 格式ばったレストランではなく、気軽な食堂なのだから。家のようにくつろいでほしい、そう考えたのだ。


 百花はフォークでズッキーニとトマトを口に運んだ。よく焼いたズッキーニはとろりとしている。そして加熱したトマトは旨みが強くなる。


「お野菜なのにおいしいです」

「よかった。百花さんは野菜は苦手でしたか」

「うん。苦手だけど、これはおいしいね」


 続けて茄子も食べてくれる。塩とオリーブオイル、それにタイムだけなので素材そのものの味が勝負だ。

 知夏(ちなつ)さんの野菜が素晴らしいからだわ。琴音は、よく日焼けした知夏の笑顔を思い出していた。


「エビ、ぷりぷりです。それにね、知らないのに、おいしい味がします」


 知らない味のことかな? 琴音はオープンサンドに使った食材を思い返した。ライ麦のパン・ド・カンパーニュ? いや、ライ麦パンよりももっと馴染みのないものだろう。


「もしかするとエビと混ぜているディルかしら。ハーブなんです」


 ディルは北欧でよく用いられている。サーモンやエビなどの魚介類に、甘みのある爽やかな香りを添えてくれる。


 同じハーブでも夏野菜のオーブン焼きに使用したタイムは、ローリエと共にピクルスに使うこともあるので百花は気にならないのかもしれない。


「ハーブ? 知ってる。ジャレットで読みました」

「ジャレット?」


 聞いたことのない名前に、琴音は首をかしげた。


 皿にこぼれた小エビを、百花はスプーンですくっている。いっぱい頰ばって、もぐもぐと咀嚼する様子がとても愛らしい。ごくんと飲み込んだ百花はスプーンを置いて、琴音に向き直った。


「あのね、トパーズ荘で暮らすことになったジャレットが、ハーブのお薬やハーブティー、それからサシェを作るんだよ」


 十歳ほどの子が、サシェなんて言葉をよく知っていると琴音は目を見開いた。

 修道院では採れたハーブを乾燥させて、刺しゅうを施した布に詰めたサシェを売っている。クローゼットの引き出しに入れたり、ラベンダーなら安眠効果があるので枕元に置いてもいい。


「ジャレットはね、ハーブのお菓子も作るの。月灯り図書館にあるよ。学校にはないけど、町の図書館にもあるの」


 お菓子を作るというと「わかったさん」のシリーズを読んでいたな、と琴音は思った。お料理は「こまったさん」。図書館の床にしゃがんで夢中でページをめくったっけ。


「じゃあ、今度借りてみますね」

「『魔法の庭ものがたり』だよ。ジャレットのお話は、いっぱいあるの。お姉さんもきっと気に入るよ!」


 口元にマヨネーズをつけて、百花はにっと笑った。

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