12、さぁ、縁日へ
今日は縁日ということでアペロの時間の予約は取っていない。百花たちが帰った後、月光食堂にやってきたのは知夏だ。
軽トラではなく、可愛らしい軽自動車に乗ってやってきた。以前、魚市場に行ったときの車だ。
「さぁ、着替えるわよ」
車から降ろしたのはたとう紙に包まれた浴衣や帯だった。知夏はすでに浴衣を着ている。紺の地に、白や赤、うすい水色の花火が打ちあがっている柄だ。
「あの、知夏さん。わたしはいつもの服で夏祭りに行くつもりで」
「だめだめ。聞いたわよ、透真くんと一緒に行くんでしょ? デートじゃん、それ」
「デートじゃないですって」
「はいはい。ちゃんとおめかししましょうね」
知夏は強引に二階に浴衣や帯を運んだ。
「そもそも誰に聞いたんですか? わたしは知夏さんに話してないですよ」
「本人」
トントントン、と軽やかに階段を上がっていく知夏の背中が琴音の目の前にある。
不思議だ。初めてじゃないだろうか、誰かが二階に上がるのは。一階は食堂のお客さまで賑わっていても、琴音以外に階段を使う人はいない。
二階の廊下の窓からこぼれる光が、森の緑に染まっている。まるで知夏を「いらっしゃい」と歓迎するように。
「あの、本人って?」
琴音の問いに、知夏が肩越しにふり返った。
「透真くん、嬉しそうに報告してくれたよ。『今日の夏祭りは琴音さんと約束してるんです』って。別に訊いてないんだけど? とは、さすがに言えなかったけど。あ、あれか。琴音ちゃんには先約があるって、透真くんは言いたかったのかな」
「そう、なんですか?」
琴音は、先に階段を上がる知夏の背中を見上げた。自分の目の位置より高いところにある花火の柄は、本当に夜空に打ちあがっているようだ。
自分と縁日に行くことを、透真は楽しみにしてくれている――
それが事実であると自惚れていいのだろうか。
透真は長い休みにはここでよく過ごしていた。知夏も母親や兄と一緒に月光食堂をよく訪れていた。二人は子供の頃からの知人だ。
知夏が月光食堂を訪れるのは、朝と夕方。透真は主に昼だから、二人が幼なじみであることに思い至らなかった。
「あたしは元カレにふられちゃったけど。透真くんは四十近くになってもずっと一人だったからさ、なんか嬉しいのよね」
琴音の部屋の隣は、使っていない和室だ。着物をかける衣桁はないので、畳の上に知夏は浴衣を置いた。借りる下駄は食堂に置いてある。
微かに樟脳の匂いがした。
「それにね、ちょっといいこともあったのよ」
「何ですか? そういえば魚市場に行った時も、知夏さんは嬉しそうでしたね」
知夏に指示されるままに服を脱ぎながら、琴音は尋ねた。
「あ、やっぱり気づいてた? 実はね、元カレが新しい彼女にふられたんだって」
「え? 早すぎませんか? その彼女と結婚も考えてるっていう話だったのでは?」
いや。確かに琴音も、元カレが知夏との婚約を破棄したところで、新しい彼女とはうまくいかないだろうと考えてはいたが。
浮気(本人は浮気ではなく本気だと言っていたそうだ)の期間は長かったとしても、結局元カレは知夏も新しい彼女も失ってしまった。
「禁断の関係が公認の関係になったら、つまらなくなったのかもね。ほら、反対されるほど燃え上がるじゃない? なんにせよ『ざまぁ』よね」
これほど知夏が楽しそうなのは、きっと元カレに復縁を迫られたのだろう。そして悟ったに違いない。
こんないい加減な奴のために悩むのは、時間の無駄だと。
「あたしは何かが前に進んだわけじゃない。けど、琴音ちゃんや透真くんが先に進むのは嬉しいのよね。あの人、四十歳近くになっても浮いた話の一つもなかったから」
透真は知夏のことを「さん」付けで呼んでいる。けれど年下のはずの知夏は「透真くん」呼びだ。
まぁ確かに透真よりも知夏の方が強そうだけれど。農作業で鍛えた腕力だけじゃなく、押しの強さとか、いろいろと。
和室には鏡台が置いてある。先代が使っていたものだろう。鏡に掛けられている縮緬の布の覆いをめくると全身が写った。姿見だ。
「母さんのだから古いんだけど。あたしの浴衣だと、琴音ちゃんにはおはしょりが長くなるのよね」
「知夏さんは夏祭りは、誰かと約束しているんですか?」
「ふふん。あたしはね、一人でのんびりゆっくりよ」
和装用の下着を持っていないので、琴音はキャミソールの上に浴衣を羽織った。
何度も水を通した布は柔らかい。
借りた浴衣は紺の地に、芝草と葉に止まる蛍の光が白く染め抜いてある。落ち着いていて、気品のある柄だ。
「ここの縁日はお酒を出す屋台があるのよ。おでんや、どて焼きと一緒に日本酒を飲むのよね。あと他の屋台で売ってるイカ焼きや焼きそばなんかも持ち込めるんだ」
あ、これはお尻に根が生える状態だ。きっと知夏は暮れていく空と黄色い明かりの灯った屋台に、さざ波のように聞こえる話し声を楽しみながらお酒を飲むのだろう。
「あの、帰りが遅くなりすぎてタクシーがつかまらなかったり、お父さまに迎えを頼めない時は、うちに泊まってください」
「え? いいの? やった、頼んじゃう」
うん。その方がいい。
お酒が好きな人は水分を控える傾向にある。けれど、ちゃんと水を飲んでおかなければ悪酔いするし、体に良くない。
夏祭りから帰ったら、冷蔵庫に冷たい水を用意しておこう。
◇◇◇
湖の側を走る車のライトが、水面に映っては消えていく。波間に揺れる車の光は一瞬、けれど湖の中央で静かにたゆたう月の光はいつまでも湖面に留まっている。
琴音と知夏は療養院を越え、三日月町に行く道から少しずれて森に入る。夏祭りに向かう人が多くなる。
暗い森の中に、ぽわっと明かりが灯っていた。境内に灯された提灯や屋台の明かりで、森の影はさらに深く感じる。
石の鳥居の前に、透真が立っていた。図書館の利用者だろうか、浴衣姿の親子連れが透真に会釈をして鳥居をくぐる。
夜だというのに境内が明るいからだろう。蝉の声が降ってくる。
三日月町は涼しいから、今年初めての蝉かもしれない。
「こんばんは」と右手を上げながら、下駄を鳴らして透真が近づいてくる。見慣れたアロハシャツではない、透真も浴衣を着ていた。
柳の葉のような、灰色がかった黄緑の柳染の落ち着いた浴衣は、透真によく似合っている。低い位置で帯を締めている。アロハ姿の時よりも、渋い雰囲気だ。
「浴衣がよくお似合いですね、琴音さん」
「あ、ありがとうございます。透真さんも似合っていらっしゃいます。着つけができるんですね」
「あー、いや……」と、透真はちらっと知夏に視線を向けた。知夏は鳥居で一礼して「じゃあ、今日はありがとね」と境内に入っていく。
「実は知夏さんに着付けをお願いしました。琴音さんよりも先に着付けてもらったんです。ぼくでは、ちんぷんかんぷんですから」
そして透真は続けた。今夜の知夏の飲食代が、着付けの報酬なのだと。
「えっ。じゃあ、わたしもお支払いしないと」
だからあんなに知夏は機嫌がよかったのか。しかも彼女はうわばみだ、月光食堂でもかなり飲む。
「いえ。知夏さんに渡した報酬は私たち二人分です。それに、琴音さんが縁日で欲しい物も私に買わせてください」
透真は柔らかく微笑んだ。
どうしてなのか、琴音は急に緊張してしまった。てのひらが湿ったように思い、指を開いたり閉じたりする。
「琴音さん。どうかなさいましたか?」
「いえ、なにも」と答える声すらも上ずっている。
まさか透真と出かけることに、手汗をかくほど緊張しているなんて。
三日月町にこれほど人がいるのかと思えるほどに、境内は賑わっていた。
人とぶつからないように歩くのがやっとだ。
琴音の隣を、兄妹ふたりが行き過ぎる。金魚すくいの小さな赤い金魚を入れた袋を、大事そうに持ちながら。
水の入ったままに金魚は宙を飛んでいるかのようだ。
遠くで祭囃子の音が聞こえた。琴音がイメージしていた軽快に太鼓を叩く音ではない。ゆったりと宵闇に溶けそうな笛の音と、硬く高い鉦の音。
音の波の中を、魚の群れになって進むかのようだ。
「『夜市』を思い出しますね」と、透真が呟いた。
「台湾の夜市ではなく、小説の方ですね」
琴音も読んだことがある。赤と黒の表紙に描かれた、闇夜に向かって泳ぐ金魚が印象的な本だ。
ホラー小説ではあるが、仄暗い雰囲気の話は怖いわけではない。むしろ切なくて、苦しくなるほど。
異界で開かれる夜市に迷い込んだ幼い兄弟。現実の世界に戻れたのは、兄一人。大学生になった兄は、弟を取り戻すために再び夜市に向かう。
子供の頃の兄は、野球の才能を得るために弟を売った。
そして弟は兄を待ち続けた。兄を信じて。なのに兄はどうして、いつまでも弟が変わらぬと思えたのだろう。
一人異界に残された弟が、純粋無垢なままだと思いたかったのだろうか。
琴音は母のことを思った。
母にとってもまた、琴音は永遠に別れた日の小さな女の子のままだったのだろう。
『夜市』の弟ほどではなくとも、琴音もまた年を重ねた。寂しい夜も膝を抱えてやり過ごした。
去ってしまった人にとって、残され置いていかれた人は静かな、しんと明るい場所で待っていると思いたいに違いない。
実際は、暗闇と泥のような地面に足を取られながら、仄かな明かりを手掛かりに進むしかなかった。
そして琴音は月光食堂にたどり着いた。
――必ず三人で縁日に行きましょうね。待っていますよ。
写真の裏に書かれた、先代との約束を母は果たせなかった。それでも先代の孫である透真と、琴音の二人はこの縁日にやってきた。
月光食堂はもう空っぽではない。この縁日も母の頃とは、出ている屋台もずいぶん違うだろう。それでも神社は昔のままで例祭も変わらないはずだ。
月光食堂の先代はいないが、孫の透真はいる。母はいないが、娘の琴音はいる。
「この間、療養院を訪れていた修道院長に、母のことを尋ねたんです。どうして誰も話題にしなかったのですか、と」
答えは思ってもみないものだった。
先日、静寂が満ちる療養院の庭を歩きながら、院長は静かに話しはじめた。灰色のベールをかぶった院長は透きとおった目をしていた。
『マナさんから、自分が天に召されても琴音ちゃんには話さないでと頼まれていたのですよ。あなたが死をちゃんと理解できないほどに幼かったのもあります。けれどそれ以上に、美化したくなかったのかもしれません』
『美化、ですか?』
白樺や落葉松に囲まれた小さな庭で、桔梗が風に遊ばれている。紫や白の折り紙でできたような花の周囲を、ミツバチが飛んでいた。ジジ、ジジジと微かな翅音が聞こえる。
『私やシスターたちがマナさんの思い出を語ることは、本来の自分がきれいな方に歪んでしまうと考えたのでしょうね。一人で琴音ちゃんを育てねばならぬ生活は、苦しいものでした。泣き叫ぶ赤ちゃんのあなたを抱いて、マナさん自身も「もうやだ。無理だよ」と大泣きしていたことが多かったのです』
子供を産んだ母親が途方に暮れて泣く? あり得ることなのに、琴音はこれまで想像したこともなかった。
きゅっと胸の辺りのシャツの布を握る。
『けれどあなたを保育園に預けて、パートの仕事をし始めてからマナさんは変わりました。泣く代わりに『よしっ、まだいける』とこぶしを握りしめたのです』
――よしっ、まだいける。
その言葉は知っている。琴音が自分を鼓舞する時によく使う。
けれど、確かにかつて聞いたことがあるのだ。
夕暮れの西日が痛いほどに差し込む部屋で。熱を出した琴音の病院帰りの道で。その人は確かに「よしっ、まだいける」と立ち上がっていた。何度も何度も。
琴音の口癖は、母親譲りだったのだ。自分でも知らぬ間に、母と同じように己を励ましていたのだ。
「お母さん――わたし、お母さんを忘れてなかった」
透真に見つめられて、琴音は我に返った。
「琴音さんは、孤独と共に呼吸をして生きていらしたんです。吸ってもつらい、吐いてもつらい日々だったと思います。琴音さんがこれから安心して深い呼吸ができるように、ぼくはあなたの隣にいますよ」
たとえどんな事情があったとしても、孤独に追いやられた者にとっての人生はただ苦しいものだ。
けれど透真は、琴音が抱え続けた寂しさを綺麗ごとにしない。「時間と共に傷は癒える」などと、上っ面を撫でるようなことを言わない。
本当に、琴音を思ってくれているのだ。
立ちどまった二人の周囲を人が行き来する。祭囃子が調子を上げて、透真ははっとした表情を浮かべた。
「あ、ほら、琴音さん。オーギョーチだそうですよ。何の屋台でしょうね」
「愛玉子ですね」
琴音の返事に透真は小首を傾げた。
「すみません。そのままの返事でしたね」
二人してぎこちないのが、どうにもおかしくて。琴音はつい頰を緩めてしまった。
「先日、知夏さんに誘われて海の近くのお店でいただいたんです。ゼリー状の愛玉子がレモンシロップに浸してあって、おいしかったですよ」
「琴音さんは物知りですね」
「まさか」と、琴音は首を振る。縁日の型抜きすら知らなかったのだ。愛玉子も、知夏に教えてもらって初めて存在を知った。
修道院育ちの琴音はハーブなどは詳しいが、まだまだ知らないことが多すぎる。夏場は味の濃い茶色い料理がおいしいことも。ミントジュレップを作る時は、木の芽のようにミントの葉を叩くことも。
三日月湖に沈む夕日は、天気や湿度によって空の色を日々変えることも。
先代が残してくれた月光食堂。透真が迎えに来てくれたからこそ、今の琴音がある。
だから、少しずつできることを増やしていきたい。
――これからふたりは、えんにちにでかけます。
『えんにち』の絵本のたった一文の言葉を思い出す。
少し離れた屋台から、カップ酒を手にした千夏が大きく手を振る。琴音と透真は顔を見合わせて微笑んでから、手を振り返した。
《了》
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