3、月灯り図書館【1】
梅雨明けまで琴音はウィリディタス修道院にお世話になっていた。その間に月灯り図書館の食堂で出すメニューの試作を重ねていたのだ。
『琴音ちゃん、大丈夫? 一人でやっていけそう?』
シスターたちは、子供の頃から修道院で暮らしていた琴音の保護者のようなものだ。
何度もキッチンに入ってきては『ルッコラがたくさん採れたのよ。パスタソースにどうかしら』と、藤のかごに山盛りのルッコラを琴音に渡したり。『やはり甘いものも必要ですよ、デザートも考えないとね』とお菓子作りの本を持ってきてくれる。
ロザリオを繰りながら敬虔に「主の祈り」や「アヴェ・マリアの祈り」を捧げるシスターの姿を知っているから、賑やかな様子に戸惑いながらもつられて楽しくなってしまう。
そして七月、晴れて梅雨明け。琴音は月灯り図書館へと向かった。
雨上がりの空は「さぁ、今日から夏ですよ」と宣言しそうな軽やかな青だった。
修道院前のバス停には、シスターたちが集まっている。その中央に旅行鞄を抱えた琴音が立っていた。
「よし、まだいける」
こぶしを握りしめた琴音を、なぜかシスターたちが凝視した。
「あ、すみません。クセなんです。『まだいける』って変ですよね。『大丈夫』って自分を鼓舞するのが普通ですよね」
慌てて琴音は訂正した。シスターたちは何も言わずに、互いに微笑を交わしている。そこには慈愛の色が浮かんでいるように思えた。
「いい言葉だと思いますよ。バスに乗ったらこれを舐めなさい」と、院長がミントの飴を手渡してくれた。
「琴音ちゃんに主のご加護がありますように」
「私たちも療養院に奉仕活動に行ったら、食堂に顔を出すわね」
修道院近くの停留所はバスがよく停まるので、利用者も多い。ただ療養院と月灯り図書館へと向かうバスは一時間に一本しかない。
普段はこんなシスターの集団は停留所にいない。なので、目立つ。とにかく目立つ。通学のバスを待つ学生たちは「なにごと?」とでも言いたげにちらちらと視線を向けてくるし。シスターの中心にいるのが地味な琴音だから、さらに人目を引く。
でも、いやじゃない。背中がくすぐったいけれど、爽やかな生まれたばかりの夏の風に撫でられているかのようだ。
アパートの火事が遠い日のことに思える。
シスターたちは定期的に療養院を訪れるのだから「さよなら」を言わなくていい。そのことが琴音をほっとさせる。
「きっとマナさんも喜んでくれると思うわ」
「マナさんですか?」
院長の挙げた名を聞いたことはあるが。その人の顔がすっと出てくるわけではない。
シスターたちは次々に琴音の手を握った。暖かな手、ひんやりとした手、筋張った手。突然戻ってきた琴音を優しく受け入れて、また送り出してくれる。
一人きりではないのだと、琴音は胸の奥がほっと温かくなるのを感じた。
琴音の乗ったバスは海岸通りを西に進み、坂を上った。まさに山道だ。細い道路に蓋を被せるかのように、枝が繫っている。乗客も少なく、車内が緑に染まりそうだ。
「りょ、療養所は空気の綺麗なところって、わかる、けど」
曲がり路ごとに体が右に左にと揺れて、お尻が痛くなる。けれど意外なことに気分が悪くならないのだ。
バス停で修道院長にもらった飴を舐めていた琴音は、ようやくミントが車酔いに効くことに気づいた。
キリスト教には、活動修道会と観想修道会がある。ウィリディタス修道院は教育や福祉に携わる活動修道会で、療養院を奉仕活動の場としている。
療養院に向かう乗客がほとんどで、一つ手前の月灯り図書館前で降りたのは琴音だけだった。
高原なので風が涼しい。
「膝がかくかくする」
情けない声で呟きながら、琴音は着替えなどの入った旅行鞄を持ちあげた。森のほとりにあるバス停から進むと、突然視界が開けた。
あまりの眩しさに琴音は瞼を閉じる。それでも瞼を通して光を感じた。
目の前に広がっていたのはアクアマリンを溶かしたような小さな湖だ。ところどころ深いのだろうか、蒼を凝縮した部分もある。
三日月湖だとシスターから聞いている。
「なんてきれいなの」
思わず歓声を上げていた。
水の中だというのに、一本の樹が生えている。細い幹はまるで水に足を浸して佇んで見える。
「琴音さん」
クックッという不思議な音と共に、、透真が湖の浜を歩いてきた。どうやら砂は石英の細かな粒のようだ、南の島のように浜辺は白い。
今日の透真はヨットが全面に描かれた半袖シャツだ。アロハではないが、いつも妙に派手なシャツを好んでいる。
「お疲れでしょう。荷物を持ちますよ」
琴音が遠慮する暇もなく、透真が旅行鞄を持ってくれた。「まずは食堂を案内しましょう。琴音さんが暮らすお部屋は食堂の二階になります」と森の縁を進む。
透真の栗色の髪に、湖面で反射した光が踊る。斜め前を進む透真の横顔も晴れやかだ。
「図書館はあちらです」と、透真は石造りの建物を指さした。
はちみつ色の石壁の小さな図書館だ。その隣に食堂が建っている。ウィリディタス修道院と同じ、うすべにの一重の薔薇が咲き誇っていた。
現実とは思えない素敵な場所だ。
「月灯り図書館は蔵書が一万冊しかないんです。館長といっても、まぁ肩書だけみたいなもので」
「多いように思えますが? 違うんですか?」
琴音の問いに透真は「んー、そうですねぇ」と首を傾げる。
「規模としては学校の図書室ぐらいですね。学校司書の仕事から、利用者の数をうんと減らした感じでしょうか」
「わかりやすいです」
ふふ、と琴音は笑みを浮かべた。修道院でシスターたちとレシピを考えていた頃も、自然と笑っていたけれど。
もう十数年もそんな暮らしをしていなかったのだと思い出した。
営業事務として働いていた頃も、閉じこもって作文や論文の添削をしていた頃も。いつも時間と仕事に追われて、いつしか表情すらも失っていた。
子供の頃は「普通」がもっと楽だったように思う。でも、いつからだろう。求められる「普通」が今では本当は「すごい」になっている。
「普通の底上げって……なんだか怖い」
呟いた琴音の言葉は、湖面を渡る風にさらわれた。二羽の白鷺が左右に分かれ、空にはぽっかりと青が残った。
「こちらが月光食堂、琴音さんの職場になります。生活は二階の部屋を使ってください」
簡素な白い壁の食堂は、窓枠が青に塗られている。テラス席には青と白のストライプの布が日除けとして張ってある。
透真がドアを開くと、繊細なウインドチャイムがリリリと煌めく音を立てた。
「うわぁ。素敵ですね」
思わず歓声を上げてしまったのは、透明で清らかな空気が食堂には満ちていたからだ。
テラスに続く窓からは三日月湖が見える。さして大きくはない湖で、対岸には森が見える。まるで額に飾った静謐な絵のようだ。
奥のキッチンも水色を基調としており、店内は白木のテーブルと椅子が並んでいる。
「最初は驚いたのですが、こちらではビールやハーブのお酒も提供するんですよ」
透真は壁に並んだ薬草酒の緑の壜を指さした。ふふ、と琴音は笑みをこぼす。確かに修道会は厳格なイメージがある。だが飲酒は禁じられていない。
「聖書でも葡萄酒はよく出てきますものね」
ミサの時も司祭がワインを用いている。子供だった琴音は口にしたことがないが、シスターによると「甘くて少し薬草の風味を感じる」そうだ。
修道院のビールなら、ベルギーのトラピストビールが有名だ。銘柄で言うならシメイ。
薬草酒ならフランスのシャルトリューズがよく知られている。緑のヴェールと黄色のジョーヌ。秘伝の製造法を知るのは修道士三人に限られるという。ブランデーをベースとして、アンゼリカやシナモン、ナツメグを初めとする百三十種類ものハーブを用いるらしい。
中世に生水を飲まぬように、修道院がビールを醸造していたのだという。そして今ではビールや薬草酒は収入源にもなる。だからお酒を醸造していないウィリディタス修道院でも扱っているのだろう。
「なるほど。療養院で過ごしている人でも飲酒が問題ないなら、お酒を提供する時間を設けてもいいかもしれませんね」
「アペロですか?」
琴音は問うた。アペロはヨーロッパで夕食の前に店に寄って、軽くお酒を飲む習慣だ。透真もアペロの知識があるようで「それはいいですね」と、あごに手を添えてうなずいた。
きっと頭の中で電卓を叩いているのだろう。
食堂の運営には経費がかかる。一番困るのは料理や食材が余ることだ。だから月光食堂の食事は予約制にしていると透真は話してくれた。
ただしカフェや、夕方にお酒と軽食を提供するアペロの利用は予約なしでも大丈夫。療養院のお見舞い帰りに、図書館に立ち寄るついでに、近所の人たちの散歩の目的地として。
キッチンは清潔で、ガスコンロもシンクも磨きあげられていた。かつてこの食堂で働いていた人が、どれほど丁寧であったのかが伝わってくる。
透真が孤軍奮闘してでも月光食堂を残そうとした気持ちが分かった。
きっととても大事な場所なのだ。琴音はそれを託されたのだと身が引き締まる思いがした。