亡命//エーミール・ハイデッガー
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──亡命//エーミール・ハイデッガー
エーミール・ハイデッガー。
ドイツ系カナダ人。年齢67歳。男性。
「元マサチューセッツ工科大学教授。10年前にメティスに移籍」
「元じゃないぞ。こいつは終身在職権を持ってる。今もマサチューセッツ工科大学の教諭だな。ハイデッガー博士じゃなくて、ハイデッガー教授ってわけだ」
「なるほどね」
大学の終身在職権は定年までの在職を保障するものだが、その定年は過去とはことなる。高度な医療とアンチエイジング技術によって定年は今や100歳が基準だ。つまりハイデッガーは100歳までマサチューセッツ工科大学の教授である。
「このログは興味深いな。“人格回復は夢の技術?”だって」
「話題になったな。ログを再生してみよう」
李麗華が見つけたログをフォックスロットが再生。
『人格再生ってのは妙な話だ。だってよ。人格ってのは変化するものだろう? 年齢や経験、積み重ねてきたもので変わるはずだ。20歳の俺と今の俺は絶対に違う』
そう主張するのは火星で有名になった刑事ドラマの主人公アバターをした男性だ。
『一種のアンチエイジング処置みたいなものじゃないか? あなたの心を若々しいままにってさ』
『明確な健康への悪影響である身体の老化と違って、精神の発達はどこまでも成長だ。脳の機能低下で思考力が低下することはあっても、価値観などは成長とともに身に着けていったものだろう』
このトピックで話題になっていたのは人格回復の回複とは何かということへの議論であった。
『待て待て。メティスが提案しているのは、いわゆる電子ドラッグや外傷によって脳の機能が明らかに破損した場合の人格回復だ。つまり、メティスは明らかにそうなるべきではなかった人格の変性というケースに限定している』
ここでそう発言するのは2050年代に発行されたヒーローものコミックの脇役のアバターをした女性。
「あったよな、こういう話。精神は老化によって劣化するのかって話」
「あったねー。人格回復を傷を癒すような技術ではなく、人格を自在に改変できる技術だって思っている人は結構いた。そして、誰もが自分が自分でなくなることを恐れているってわけだ」
「人格回復なんて相当な金持ちしか受けられないだろうに。余計な心配だな」
「それはそう。で、ここでハイデッガー教授の名前が出るはずなんだけど」
フォックスロットが皮肉げにそう言い、李麗華がログを続ける。
『この技術ってのは誰が作ったんだ?』
『メティスのハイデッガー教授。ほら、例のマトリクスゴーストに関するごたごたに加わっていた人間だよ。覚えてないか?』
『ああ。マトリクスに自分の記憶と人格を保存して不老不死をってやつか』
『そうそう。あれの開発グループに加わっていたひとりだ』
ここでようやくハイデッガー教授の話が出た。
「マトリクスゴーストに関係してる人だったのか」
「夢の不老不死。金持ちが永遠に社会を牛耳るための技術」
「そして、社会に認められなかった技術。マトリクスゴーストに人権を与えようという議論は結局否定されて終わったでしょ?」
「だったな。まあ金持ちが永遠に金持ちのままで、居座り続けるなんてごめんだぜ」
マトリクスゴースト。マトリクスに高度に保存された記憶と人格によって、本人の死後もマトリクスで生き続けるという技術とその産物。
これによって生み出されたマトリクスゴーストに人権などの権利を与えるという議論は、大勢の反対によって否決されている。
それは地球でもそうだし、火星でもそうだ。
「人格回復にマトリクスゴースト。彼は人間が人間であるのに、神秘なんて必要ないって思っているように思える。人間が人間であるための人格すらも、マトリクスでたやすく合成できるんだって示すことで」
「いや。そうじゃないと思うぞ。俺はメガコーポ勤めの技術者の肩を持つつもりはないが、俺の検索エージェントが興味深い情報を拾ってきた」
「何々?」
フォックスロットがそう言うのに李麗華が興味を示す。
「ハイデッガー教授の家族だ。こいつの妻と子供は第二次ケベック動乱に巻き込まれている。そこでPTSD──心的外傷後ストレス障害となった。で、その挙句に自分の頭をドカンしちまってる」
「第二次ケベック動乱ね。自国民同士の凄惨な虐殺の嵐だったって聞いたけど、それに巻き込まれていたのか……」
「俺が思うに治療できなかったことを悔いてたんだろうな。まあ、メガコーポに人間にちょびっとしても人間としての血が流れていればの話だが」
フォックスロットはどうでもよさそうにそう語った。
「ハイデッガー教授についてはこれ以上分かりそうにないね。じゃあ、シンポジウムが平和裏に終わらなければ、またトピックで会おうか、フォックスロット?」
「ああ。金持ちどもが滅茶苦茶な目に合うのを期待してる」
「だといいね」
君が期待しているような滅茶苦茶をするのはあたしたちなんだけど、と思いながら李麗華は一度BAR.黒猫を出た。
「さて、これからはあたしの仕事だ。オービタルシティ・ドーンの当日の警備状況を明らかにしておかないと」
問題はハイデッガー個人がどうのこうのという話よりも、彼をどのようにして拉致して、ジェーン・ドウに引き渡すかだ。
「フォックスロットは自殺だって言っていたけれど、あたしには隙があるように思えるんだよね。火星と地球の現在の対立を考えるならば」
李麗華はそう言って、検索エージェントを走らせ、さらにはオービタルシティ・ドーンのネットワークに近づく。オービタルシティ・ドーンのネットワークは、当然のことながら強固な氷に防衛されていた。
「火星は地球を警戒し、地球は火星を警戒している。とは言え、彼らはこれ以上緊張が高まり、戦争になることは望んでいない。だからこそ、過剰な戦力を投入するのは危ないってことを理解しているはず」
地球と火星が火星の軌道上で衝突することは、誰も望んでいない。そうであるが故に李麗華はある結論に至っている。
「ビンゴ。ウォッチャー所属の戦闘艦は1隻のみ。駆逐艦コメットだけ。ドーンに配備される地上戦力もコメットの陸戦隊だけだ」
ウォッチャー・インターナショナルは独自の戦闘艦も保有している。その数はそこまで多くないが、駆逐艦1隻しか配備できないほど少なくはない。
つまり、ウォッチャーは戦力を完全には展開していない。李麗華が考えるには無駄に戦力を配備して、地球側と偶発的衝突が起きることを危惧しているのだ。
「こうなると地球側も過剰に戦力を配置して、火星に危機を煽られるのを避けるはずだけど、さてさて……」
李麗華は火星の宇宙空間における運輸を管轄している、火星運輸省のサーバーに検索エージェントを入り込ませて、シンポジウム当日におけるオービタルシティ・ドーン周辺の宇宙区間に関する情報を取得。
「やっぱりね。地球は国連宇宙軍からコルベット2隻のみ護衛につけている。それも旧式艦だ。宇宙海賊との戦闘は想定してても、火星とやり合う気はない」
ちなみに地球にはメガコーポの傀儡としての国連が今も存在するが、火星は国連非加盟国である。何もかつての台湾やパレスチナのように加入を拒まれているわけではなく、地球の影響を避けるために火星が加盟を申請していないだけだ。
「地上戦力はメティス系列の民間軍事会社であるベータ・セキュリティから若干名っぽいけど。ベータ・セキュリティはかなり高度な生体機械化兵を保有しているから要注意だね」
生体機械化兵とは文字通り人体を機械に置き換えたサイボーグの兵士たちであり、生身の兵士より遥かに高度な作戦遂行能力を有する。
その生体機械化兵に与えるインプラントにおいて優れたものを研究し、製造しているのが、まさにメティスというメガコーポだ。
『李麗華。そっちはどうだ?』
と、ここでアドラーから連絡が入った。
「ぼちぼちってところ。合流する?」
『こちらも少しばかり情報が手に入った。合流しよう』
「了解。マンションで待ってるよ」
アドラーからの連絡に李麗華はそう応じる。
「警備状況は分かったけど、問題はどうやって潜り込むか、だねえ……」
李麗華の前には未だに強固な氷に阻まれたオービタルシティ・ドーンのネットワークが存在している。
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