5
怪我人の手当てに屋敷の修理、侵入者の追跡。あれこれと後始末に追われているうちに、あっという間に三日が過ぎた。
疲労困憊した俺は、ピスターチュにマッサージを頼んだ。
「あっ、あっ……そこ、そこだ」
自分の口から漏れているとは思えないほど、甘ったるい声だった。
「すごく硬いですね。とっても頑張ったんですね」
白く細い指が、凝り固まった背中の筋肉にぐっと沈み込む。
「ああ……」
「我慢しなくてもいいんですよ。もっと力を抜いてください」
これ以上どうやって力を抜けというのか。そう言い返したくなるほど、俺の身体はすでに脱力していた。
それなのに、ピスターチュの指先が肌を滑るたび、残っていた力まで抜けていく。身体の輪郭が曖昧になり、内側からどろどろに溶かされていくようだった。
「本当に強情な人ですね」
彼女の指が、凝り固まった筋肉を丁寧にほぐしていく。
筋繊維が一本ずつ解きほぐされるような感覚。それに合わせて、意識までもがほどけ、ばらばらになっていく。
もはや抵抗する気力もなかった。
俺はいつの間にか、心地よさの底へ沈み込み、そのまま意識を手放していた。
騒がしい物音に目を覚ますと、目の前に妙な光景が広がっていた。
ピスターチュが、ガウルに縛られている。
「よい夢をご覧になれましたか?」
俺が起きたことに気づくと、ピスターチュは縛られたまま、穏やかな顔で尋ねてきた。
「悪夢のような光景だな。何があった?」
できるだけ冷静に尋ねる。
「ピスターチュが、殿下の書類を読んでいたんです」
ガウルが答えた。
視線を向けると、雑然とした俺の机の上に、いくつもの書類の山ができていた。
「そうなのか?」
「はい」
ピスターチュは、あっさりと認めた。
「マッサージは終わったのですが、殿下が眠ってしまわれて。暇でしたので」
「だったら本でも読んでいればよかっただろう」
壁際の棚には、何冊も本が並んでいる。
「そうですね。でも、勝手にお借りするのはよくないかと思いまして」
「机の上の書類を勝手に読むのも、よくないだろう」
「そうですね。申し訳ありません」
悪びれる様子もなく頭を下げる。
「ガウル、縄を解いてやれ」
「よろしいんですか?」
ガウルは不満そうに眉をひそめた。
「片付いていない部屋に招き入れたうえ、寝てしまった俺にも責任がある」
「それはそうですが、まだピスターチュの疑いが晴れたわけじゃありませんぜ」
「私は何を疑われているんですか?」
縄を解かれたピスターチュが、小首を傾げた。
「……この前、賊が押し入ったとき、お前の部屋にも侵入者が入っただろう。あの窓は内側からなら簡単に開くが、魔法がかかっているから外からは開けられない」
「私が窓を開けて、賊を招き入れたと疑っているのですか? うーん……でも、私は寝ていましたよ」
「それを証明できる者はいない」
「いますよ」
「誰だ?」
「賊の方です」
「……確かにな」
思わず苦笑すると、ピスターチュはにっこりと微笑み返してきた。
「まだ捕まっていないのですか? 私の無実を証明するためにも、早く捕まえてください」
「捕まえるさ。お前のためじゃないがな」
不機嫌に言い返す。
こちらも手をこまねいているわけではない。あちこちに手を回しているが、手掛かりらしい手掛かりがなく、捜索は難航していた。
「そういえば、何か用があったのか?」
俺はガウルに尋ねた。
ピスターチュを現行犯で捕まえたということは、ガウルがこの部屋に来るだけの理由があったはずだ。
「ああ、そうでした。火曜日様から書状が届いております」
『火曜日様』とは、二番目の兄を指す符丁だ。
「兄上から?」
嫌な予感を覚えながら、書状を受け取る。
こういうときの予感は、たいてい当たる。
「憲兵隊が賊を捕らえたそうだ」
俺は書状を机に放った。
中身を覗き込もうとするピスターチュをさりげなく避けながら、ガウルも書状に目を通す。
「やられましたな」
「捕まったのなら、いいじゃないですか」
ピスターチュが不思議そうに言った。
「憲兵隊に捕まったんじゃ、俺たちが直接尋問できない」
「お兄様に頼めばいいじゃないですか」
「借りを作ることになる」
「それはいけないことなのですか?」
「駄目だろう」
そう答えかけて、言葉が止まった。
本当に駄目なのか?
借りを作れば、返す必要が生じる。つまり、次につながるということだ。今度はこちらが貸しを作る側になるかもしれない。
そもそも兄上が賊を捕らえられたのは、こちらから情報を流したからでもある。
「返すのが無理なら、踏み倒せばいいではないですか」
せっかくいい具合に考えがまとまりかけていたのに、なぜぶち壊すんだ、この元伯爵令嬢は。
「どうせ裏家業なのでしょう?」
ピスターチュは、にっこりと笑った。
その笑顔を見ていると、背筋に薄ら寒いものが走る。
底知れない迫力、とでもいうのだろうか。
国家転覆未遂の罪で国外追放された女だ。世間知らずの呑気なお嬢様かと思えば、ふいに正体の知れない威圧感を見せる。
その落差が気になって、つい目で追ってしまう自分がいる。
本当に、この女はいったい何者なのだ。
「裏家業には裏家業の仁義ってものがあるんだ」
「そんなものが嫌で、王宮を飛び出したのではないのですか?」
「……なんで知っている?」
思わず声が鋭くなった。
ピスターチュは、きょとんとした顔で俺を見返す。
「何をですか?」
「俺が王宮の人間だということだ」
「ええっと……」
彼女は困ったように目を泳がせた。
「今さらですか? だって、ガウルさんは殿下と呼んでおられますし……」
「だから、やめろと言っているだろう」
俺は、何食わぬ顔で会話を見守っているガウルを睨んだ。
「もうすっかり癖になってしまいましてな」
ガウルは顎を撫でながら、まるで悪びれない。
もう二十年近い付き合いだ。今さら呼び方を変えろというのも無理な話か。
「それに、隣国の第五王子は放蕩息子だという噂が、私の国では有名でしたよ」
「……市井に下っているだけで、放蕩しているわけじゃない」
闇の商売とはいえ、俺はきちんと仕事をしているのだ。
「ええ、そうですね。噂とは尾ひれがつくものですから」
しれっと言ってのける。なかなか面の皮が厚い女だ。
「……それは、お前自身の噂について言っているのか?」
王子の気を引くために聖女にモンスターをけしかけ、国内に麻薬を蔓延させ、婚約を解消された挙げ句、国外追放になった極悪の伯爵令嬢。
それが、世間で語られているピスターチュの姿だ。
噂のどこまでが真実なのか。本人が目の前にいても、さっぱり分からない。
そもそも、この女は本当に元伯爵令嬢なのだろうか。
噂をもとに、誰かが伯爵令嬢を演じているだけという可能性はないか。
だとしたら、何のために?
王子の関心を引くためなら、手段を選ばない連中はいる。そういう輩を、俺は何人も見てきた。
ピスターチュも、その一人なのか。
そもそも、なぜこの女は貧民街の路地裏に座り込んでいたのだろう。
若い女が一人でいていいような場所ではない。危険だと分かっていないはずもない。
まさか、俺に拾われるのを待っていたのか?
普段の俺なら、路地裏でうずくまる女にわざわざ声をかけたりはしない。
では、なぜあのときは声をかけた?
俺は、何かの罠にはめられたのだろうか。
「どうなさいました?」
ピスターチュが小首を傾げる。
金色の髪が、さらりと肩を滑った。
何でもない仕草だった。それなのに、胸がどきりと跳ねた。
……どうした。不整脈か?
伯爵令嬢は黒髪だという。人を騙そうとしている女が、そんな単純なところで間違えるだろうか。
何が真実で、何が嘘なのか。
「……あのとき」
問いかけたところで、返ってくる答えが真実かどうか確かめる術などない。それでも、俺は尋ねずにはいられなかった。
「路地裏で座り込んでいたお前に声をかけたとき、どうしてついてきたんだ?」
「だって……」
ピスターチュは両手を顔の前で合わせ、頬を赤らめた。
「ご飯を食べさせてくれるとおっしゃったからです。私、とてもお腹が空いていたんです」
あまりにも緊張感のない答えに、力が抜けた。
「飯さえ食えれば、誰にでもついていったのか?」
「そうですね。たぶん、ついていったと思います。……あ、そうだ。思い出しました。あのとき、あなたはご飯を出してくださらなかったんですよ。お酒を飲ませて、酔っ払わせたんです」
抗議するように頬を膨らませる。
……なんでこんな仕草を可愛いと思うんだ?
「お前が勝手に一気飲みしたんだろう」
「喉も、とても渇いていたんです」
ピスターチュの表情は、くるくると目まぐるしく変わる。
どれが本当の彼女なのだろう。
どこにも本物などおらず、すべてが演じられた役なのかもしれない。世間知らずのお嬢様も、得体の知れない威圧感を漂わせる女も、俺をからかうように笑う娘も。
そんな役の一つ一つに、俺の心は揺り動かされている。
馬鹿馬鹿しい。
俺はこの女を、何か金儲けの種になるのではないかと考えて拾ったのだ。厄介事に巻き込まれたのなら、それを逆手に取って利益を得る。そういうつもりだった。
ところが、屋敷を襲撃され、命まで危うくなった。襲撃者の正体も、こいつが何者なのかも、いまだに分からない。
商売の種どころか、損失の種にしか見えない。
なのに、追い出そうという気にはならなかった。
……いや、追い出せば、こいつが何を企んでいるのか分からなくなる。そう、監視のためだ。屋敷に置いておくほうが都合がいい。
自分に言い聞かせるように、俺は深く息をついた。
「では、改めて飯を食わせてやろう」
「あら、なにか作ってくださるのですか?」
「なんでそうなる。外に食べに行くんだ」
「うれしい。ありがとうございます」
屈託のない笑顔を向けられ、俺は返す言葉を失った。
この笑顔が作りものだとは、とても思えない。
ただの食いしん坊な元伯爵令嬢にしか見えないのだ。
……だからこそ、油断ならないのかもしれない。
「では、支度をしてまいります」
ピスターチュは軽やかな足取りで部屋を出ていった。だが、すぐに戻ってくる。
「デザートも食べていいですか?」
「なんでも食べろ。お前の名前の由来になった菓子でもいいぞ」
「それは無理ですよ」
いたずらっ子のように笑う。
「東方のお菓子ですから、多分、この国にはございません」
「だったら取り寄せればいいだろう」
俺を何だと思っている。闇商売の親玉だぞ。菓子の一つや二つ、取り寄せてみせる。
……いや、待て。
なぜ俺は、わざわざそんなことを約束しているのだ。
菓子を取り寄せたところで、こいつが何者なのか分かるわけでもない。商売につながる保証もない。
なのに、こいつがどんな顔でその菓子を食べるのか、少し見てみたいと思った。
まったく、意味が分からない。
ふと気がつくと、ガウルが呆れ果てた目で俺を見ていた。
「なんだ? お前もさっさと支度をしろ」
「私もついて行っていいんですか?」
「当たり前だろ」
あの娘と二人きりになったら、自分が何をしでかすか分からない。そんなことは、さすがに口に出せなかった。
ガウルが部屋を出ていくと、俺も立ち上がって服を選び始めた。
普段なら、着るものに困ったりはしない。どうせ商売相手と飯を食うだけだ。身なりなど、相手に舐められない程度に整えておけばいい。
だというのに、今日はなかなか決められなかった。
派手すぎるのも違う。かといって、いつもの格好では味気ない気がする。
……何を考えているんだ、俺は。
ただ飯を食いに行くだけだぞ。
相手は、国家転覆未遂の罪で国外追放された悪役令嬢だ。正体も分からなければ、目的も分からない。屋敷を襲った連中との関係だって、まだ疑わしいままだ。
信用などできるはずがない。
それなのに、あいつが装いでくるのかを、少しばかり楽しみにしている自分がいる。
金になるかどうかも分からない相手に、こんなふうに振り回されるとは。
まったく、とんでもない悪役令嬢だ。
了
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