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 怪我人の手当てに屋敷の修理、侵入者の追跡。あれこれと後始末に追われているうちに、あっという間に三日が過ぎた。


 疲労困憊した俺は、ピスターチュにマッサージを頼んだ。

「あっ、あっ……そこ、そこだ」

 自分の口から漏れているとは思えないほど、甘ったるい声だった。

「すごく硬いですね。とっても頑張ったんですね」

 白く細い指が、凝り固まった背中の筋肉にぐっと沈み込む。

「ああ……」

「我慢しなくてもいいんですよ。もっと力を抜いてください」

 これ以上どうやって力を抜けというのか。そう言い返したくなるほど、俺の身体はすでに脱力していた。

 それなのに、ピスターチュの指先が肌を滑るたび、残っていた力まで抜けていく。身体の輪郭が曖昧になり、内側からどろどろに溶かされていくようだった。

「本当に強情な人ですね」

 彼女の指が、凝り固まった筋肉を丁寧にほぐしていく。

 筋繊維が一本ずつ解きほぐされるような感覚。それに合わせて、意識までもがほどけ、ばらばらになっていく。

 もはや抵抗する気力もなかった。

 俺はいつの間にか、心地よさの底へ沈み込み、そのまま意識を手放していた。


 騒がしい物音に目を覚ますと、目の前に妙な光景が広がっていた。

 ピスターチュが、ガウルに縛られている。

「よい夢をご覧になれましたか?」

 俺が起きたことに気づくと、ピスターチュは縛られたまま、穏やかな顔で尋ねてきた。

「悪夢のような光景だな。何があった?」

 できるだけ冷静に尋ねる。

「ピスターチュが、殿下の書類を読んでいたんです」

 ガウルが答えた。

 視線を向けると、雑然とした俺の机の上に、いくつもの書類の山ができていた。

「そうなのか?」

「はい」

 ピスターチュは、あっさりと認めた。

「マッサージは終わったのですが、殿下が眠ってしまわれて。暇でしたので」

「だったら本でも読んでいればよかっただろう」

 壁際の棚には、何冊も本が並んでいる。

「そうですね。でも、勝手にお借りするのはよくないかと思いまして」

「机の上の書類を勝手に読むのも、よくないだろう」

「そうですね。申し訳ありません」

 悪びれる様子もなく頭を下げる。

「ガウル、縄を解いてやれ」

「よろしいんですか?」

 ガウルは不満そうに眉をひそめた。

「片付いていない部屋に招き入れたうえ、寝てしまった俺にも責任がある」

「それはそうですが、まだピスターチュの疑いが晴れたわけじゃありませんぜ」

「私は何を疑われているんですか?」

 縄を解かれたピスターチュが、小首を傾げた。

「……この前、賊が押し入ったとき、お前の部屋にも侵入者が入っただろう。あの窓は内側からなら簡単に開くが、魔法がかかっているから外からは開けられない」

「私が窓を開けて、賊を招き入れたと疑っているのですか? うーん……でも、私は寝ていましたよ」

「それを証明できる者はいない」

「いますよ」

「誰だ?」

「賊の方です」

「……確かにな」

 思わず苦笑すると、ピスターチュはにっこりと微笑み返してきた。

「まだ捕まっていないのですか? 私の無実を証明するためにも、早く捕まえてください」

「捕まえるさ。お前のためじゃないがな」


 不機嫌に言い返す。

 こちらも手をこまねいているわけではない。あちこちに手を回しているが、手掛かりらしい手掛かりがなく、捜索は難航していた。

「そういえば、何か用があったのか?」

 俺はガウルに尋ねた。

 ピスターチュを現行犯で捕まえたということは、ガウルがこの部屋に来るだけの理由があったはずだ。

「ああ、そうでした。火曜日様から書状が届いております」

 『火曜日様』とは、二番目の兄を指す符丁だ。

「兄上から?」

 嫌な予感を覚えながら、書状を受け取る。

 こういうときの予感は、たいてい当たる。

「憲兵隊が賊を捕らえたそうだ」

 俺は書状を机に放った。

 中身を覗き込もうとするピスターチュをさりげなく避けながら、ガウルも書状に目を通す。

「やられましたな」

「捕まったのなら、いいじゃないですか」

 ピスターチュが不思議そうに言った。

「憲兵隊に捕まったんじゃ、俺たちが直接尋問できない」

「お兄様に頼めばいいじゃないですか」

「借りを作ることになる」

「それはいけないことなのですか?」

「駄目だろう」

 そう答えかけて、言葉が止まった。

 本当に駄目なのか?

 借りを作れば、返す必要が生じる。つまり、次につながるということだ。今度はこちらが貸しを作る側になるかもしれない。

 そもそも兄上が賊を捕らえられたのは、こちらから情報を流したからでもある。


「返すのが無理なら、踏み倒せばいいではないですか」

 せっかくいい具合に考えがまとまりかけていたのに、なぜぶち壊すんだ、この元伯爵令嬢は。

「どうせ裏家業なのでしょう?」

 ピスターチュは、にっこりと笑った。

 その笑顔を見ていると、背筋に薄ら寒いものが走る。

 底知れない迫力、とでもいうのだろうか。

 国家転覆未遂の罪で国外追放された女だ。世間知らずの呑気なお嬢様かと思えば、ふいに正体の知れない威圧感を見せる。

 その落差が気になって、つい目で追ってしまう自分がいる。

 本当に、この女はいったい何者なのだ。


「裏家業には裏家業の仁義ってものがあるんだ」

「そんなものが嫌で、王宮を飛び出したのではないのですか?」

「……なんで知っている?」

 思わず声が鋭くなった。

 ピスターチュは、きょとんとした顔で俺を見返す。

「何をですか?」

「俺が王宮の人間だということだ」

「ええっと……」

 彼女は困ったように目を泳がせた。

「今さらですか? だって、ガウルさんは殿下と呼んでおられますし……」

「だから、やめろと言っているだろう」

 俺は、何食わぬ顔で会話を見守っているガウルを睨んだ。

「もうすっかり癖になってしまいましてな」

 ガウルは顎を撫でながら、まるで悪びれない。

 もう二十年近い付き合いだ。今さら呼び方を変えろというのも無理な話か。

「それに、隣国の第五王子は放蕩息子だという噂が、私の国では有名でしたよ」

「……市井に下っているだけで、放蕩しているわけじゃない」

 闇の商売とはいえ、俺はきちんと仕事をしているのだ。

「ええ、そうですね。噂とは尾ひれがつくものですから」

 しれっと言ってのける。なかなか面の皮が厚い女だ。

「……それは、お前自身の噂について言っているのか?」

 王子の気を引くために聖女にモンスターをけしかけ、国内に麻薬を蔓延させ、婚約を解消された挙げ句、国外追放になった極悪の伯爵令嬢。

 それが、世間で語られているピスターチュの姿だ。

 噂のどこまでが真実なのか。本人が目の前にいても、さっぱり分からない。

 そもそも、この女は本当に元伯爵令嬢なのだろうか。

 噂をもとに、誰かが伯爵令嬢を演じているだけという可能性はないか。

 だとしたら、何のために?

 王子の関心を引くためなら、手段を選ばない連中はいる。そういう輩を、俺は何人も見てきた。

 ピスターチュも、その一人なのか。

 そもそも、なぜこの女は貧民街の路地裏に座り込んでいたのだろう。

 若い女が一人でいていいような場所ではない。危険だと分かっていないはずもない。

 まさか、俺に拾われるのを待っていたのか?

 普段の俺なら、路地裏でうずくまる女にわざわざ声をかけたりはしない。

 では、なぜあのときは声をかけた?

 俺は、何かの罠にはめられたのだろうか。


「どうなさいました?」

 ピスターチュが小首を傾げる。

 金色の髪が、さらりと肩を滑った。

 何でもない仕草だった。それなのに、胸がどきりと跳ねた。

 ……どうした。不整脈か?

 伯爵令嬢は黒髪だという。人を騙そうとしている女が、そんな単純なところで間違えるだろうか。

 何が真実で、何が嘘なのか。

「……あのとき」

 問いかけたところで、返ってくる答えが真実かどうか確かめる術などない。それでも、俺は尋ねずにはいられなかった。

「路地裏で座り込んでいたお前に声をかけたとき、どうしてついてきたんだ?」

「だって……」

 ピスターチュは両手を顔の前で合わせ、頬を赤らめた。

「ご飯を食べさせてくれるとおっしゃったからです。私、とてもお腹が空いていたんです」

 あまりにも緊張感のない答えに、力が抜けた。

「飯さえ食えれば、誰にでもついていったのか?」

「そうですね。たぶん、ついていったと思います。……あ、そうだ。思い出しました。あのとき、あなたはご飯を出してくださらなかったんですよ。お酒を飲ませて、酔っ払わせたんです」

 抗議するように頬を膨らませる。

 ……なんでこんな仕草を可愛いと思うんだ?


「お前が勝手に一気飲みしたんだろう」

「喉も、とても渇いていたんです」

 ピスターチュの表情は、くるくると目まぐるしく変わる。

 どれが本当の彼女なのだろう。

 どこにも本物などおらず、すべてが演じられた役なのかもしれない。世間知らずのお嬢様も、得体の知れない威圧感を漂わせる女も、俺をからかうように笑う娘も。

 そんな役の一つ一つに、俺の心は揺り動かされている。


 馬鹿馬鹿しい。


 俺はこの女を、何か金儲けの種になるのではないかと考えて拾ったのだ。厄介事に巻き込まれたのなら、それを逆手に取って利益を得る。そういうつもりだった。

 ところが、屋敷を襲撃され、命まで危うくなった。襲撃者の正体も、こいつが何者なのかも、いまだに分からない。

 商売の種どころか、損失の種にしか見えない。

 なのに、追い出そうという気にはならなかった。

 ……いや、追い出せば、こいつが何を企んでいるのか分からなくなる。そう、監視のためだ。屋敷に置いておくほうが都合がいい。

 自分に言い聞かせるように、俺は深く息をついた。


「では、改めて飯を食わせてやろう」

「あら、なにか作ってくださるのですか?」

「なんでそうなる。外に食べに行くんだ」

「うれしい。ありがとうございます」

 屈託のない笑顔を向けられ、俺は返す言葉を失った。

 この笑顔が作りものだとは、とても思えない。

 ただの食いしん坊な元伯爵令嬢にしか見えないのだ。

 ……だからこそ、油断ならないのかもしれない。


「では、支度をしてまいります」

 ピスターチュは軽やかな足取りで部屋を出ていった。だが、すぐに戻ってくる。

「デザートも食べていいですか?」

「なんでも食べろ。お前の名前の由来になった菓子でもいいぞ」

「それは無理ですよ」

 いたずらっ子のように笑う。

「東方のお菓子ですから、多分、この国にはございません」

「だったら取り寄せればいいだろう」


 俺を何だと思っている。闇商売の親玉だぞ。菓子の一つや二つ、取り寄せてみせる。

 ……いや、待て。

 なぜ俺は、わざわざそんなことを約束しているのだ。

 菓子を取り寄せたところで、こいつが何者なのか分かるわけでもない。商売につながる保証もない。

 なのに、こいつがどんな顔でその菓子を食べるのか、少し見てみたいと思った。

 まったく、意味が分からない。

 ふと気がつくと、ガウルが呆れ果てた目で俺を見ていた。

「なんだ? お前もさっさと支度をしろ」

「私もついて行っていいんですか?」

「当たり前だろ」


 あの娘と二人きりになったら、自分が何をしでかすか分からない。そんなことは、さすがに口に出せなかった。

 ガウルが部屋を出ていくと、俺も立ち上がって服を選び始めた。

 普段なら、着るものに困ったりはしない。どうせ商売相手と飯を食うだけだ。身なりなど、相手に舐められない程度に整えておけばいい。

 だというのに、今日はなかなか決められなかった。

 派手すぎるのも違う。かといって、いつもの格好では味気ない気がする。


 ……何を考えているんだ、俺は。


 ただ飯を食いに行くだけだぞ。

 相手は、国家転覆未遂の罪で国外追放された悪役令嬢だ。正体も分からなければ、目的も分からない。屋敷を襲った連中との関係だって、まだ疑わしいままだ。

 信用などできるはずがない。

 それなのに、あいつが装いでくるのかを、少しばかり楽しみにしている自分がいる。

 金になるかどうかも分からない相手に、こんなふうに振り回されるとは。


 まったく、とんでもない悪役令嬢だ。


了

最後までお読みいただきありがとうございます。


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