エピローグ
2026(令和8)年7月、足立区の喫茶店。エアコンの効いた店内で、二人の姉妹が興奮気味に話している。
「推し、ヤバかったよね!」
「ヤバかった!」
「姉ちゃんのこと、見てたんじゃない?」
「まあ、ね。私たち、デビュー前にバックで踊ってる時から、現場たくさん行ったもんなぁ」
「いわゆる『認知』だね!」
推しの舞台を観劇した直後で興奮冷めやらぬ、和子・四十五歳、由恵・四十二歳。語彙力は相変わらずだが、今や立派な中年である。今日は、『あの日』だった。
「行くべきか迷ったけど、来てよかった」
和子がアイスティーを一口飲んで言うと、由恵は口に運びかけたハーブティーをいったんテーブルに置いた。
「なんで?」
「なんでって……、死ぬようなリスクはやっぱり避けたいじゃない? うちら、前回、まさに今日死んだんだよ?」
「まあ、ね。でも考えてみてよ。私たちがどんなに頑張っても、アンコはだめだった。逆に、ばあばみたいに変えられたこともあった。全部が全部思い通りになるわけじゃない。でも、できることがないわけではないんだと思う。だから今日は注意しつつ、でも普通に過ごそうよ」
「それは、そうかもね。前回は地震のせいで死んじゃったじいちゃん、今回は大往生だったもんね」
「姉ちゃんが結婚式した甲斐もあったってもんだね」
そう言うと、由恵はようやくハーブティーを飲んだ。和子は頭を振って、しみじみと言った。
「あれから、もう十年かぁ……。早かったね」
「あの時は大変だったなあ。みんな、あの後、結局一週間くらい東京にいたもんね」
「そうそう、由恵が急遽取った『早割』のホテルでね」
「あの人数だと、ポイントも相当違ってくるから、そこは譲れんかった……。お互い、事前に食料や物資を送ってた友達からの連絡が鳴り止まなくて、すごかったよね」
「渡辺家は半壊したけど、みんな無事だったしね。あそこの集落は、周辺とくらべてもずっと怪我人が少なかったし。もちろん全員を救うことはできなかったけど、由恵の、いや、『あのあのおばあさん』の功績は大きいよ。スピリチュアルは世界を救う……!」
「違いない!」
「でも今更なんだけどさ……」
和子はしょっぱいものを食べたような顔をして、由恵をじっと見つめた。
「おじちゃんとおばちゃんが協力者だったら、別に、私が結婚式する必要なかったことない? あんだけがっつり協力してくれるなら、じいちゃんとばあちゃん連れて、数日どこか行くくらいはしてくれたのでは……?」
「あ、やっぱり気づいちゃってた?」
「そりゃ、気づくだろ……」
由恵は肩をすくめると、言った。
「実はクマさんが明彦さんと二人で飲みに行った後、酔っ払った明彦さんがこう言ってたんだって。『和子は俺と結婚したくないんすかね? 俺、和子のウェディングドレス姿見たいっす……』って。結局のところ、親族全員を大移動させるのに結婚式以上にいい口実はなかったわけだし。だから、まさに一石二鳥だと思ってさ」
「明彦がそんなことを……。まあ、結婚式、なんだかんだ楽しかったから、いいけどね!」
二人は顔を見合わせて笑った。
ふと会話が止まった瞬間、和子はテーブルのナプキン入れから、一枚引き抜き、テーブルが濡れていないことを確かめてから、丁寧に広げた。
「帰りには、細心の配慮をするし、今日死ぬつもりはないんだけど……。でも。もしも、万が一、もし交通事故にあって、死ぬんだとしたら。そしてまた昭和に戻るのだとしたら……」
和子はそう言いながら、テーブルの上のスマートフォンのロックを解除し、チャットGPTを立ち上げて、なにやら打ち込むと、バッグから『極細』のボールペンを取り出した。ボールペンには会計済みテープが貼られている。
「日経平均とダウとナスダックの推移、それに『ナプキン株』の詳しい値動きを持っていければ、無双だよね。あとは世界と日本の主要な出来事について、詳しい年表を……」
背中を丸めて、ナプキンに小さな字でせっせと何やら書き始めた和子を見て、由恵は笑った。
「もう一度死んで、人生を一からやるために、備えてんの? 姉ちゃんって後ろ向きなのか、ものすごく前向きなのか分かんないね」
「前向きなんじゃない? なんてたって私は『スーパーポジティブな男』の姉だからね」
由恵は笑ったが、その笑いはすっと消えた。
「……今、死にたくないなあ。私、この人生に満足してるもん」
「由恵の人生、結構変わったもんね」
「姉ちゃんの人生は、案外変わらなかったね。まさか同じ会社に入って、同じ人と結婚するとは思わなかった」
「会社はともかく、結婚相手については同感。でもさ……」
「なに?」
「私、今回の明彦の方が結構、いや、だいぶ好きなんだよね。なんかさ、一回目より、かわいくなってない? 私のこと大好きだしさ」
「突然惚気るじゃん! それを言うなら、私はクマさんに出会えて、結婚できて最高に幸せだわ」
「照れるなら、言うなよ!」
耳まで赤くなった由恵の頭を、優しく小突いてから、またナプキンになにやら書きながら、和子は言った。
「でも、予想外だったのはさ、私がまだ働いてること。予定では、とっくの昔に何十億円かの資産を達成して、FIREしてるはずだったのに」
「姉ちゃん、私の進学の時に売った株を売らないで持っていたら、それだけで、『上がり』だったかもしれないよね……」
由恵が申し訳なさそうに言うと、和子は顔を上げて、ふんっ、と鼻で笑った。
「あれは、私がした最高の投資よ。おかげで、私はミーコを二十四時間、年中無休で見てくれる獣医師を、手に入れたからね。しかも、なぜか獣医師一人に、もう一人おまけがついてきた」
「まさかの『一個買ったら、一個無料』! ミーコのことは、私たちが永年治療費無料で見るからね」
「龍ちゃんの治療費だって、じいちゃんを助けるための結婚式の費用だって、全部必要な投資だったから、何も後悔はないよ」
「姉ちゃんの言う通りだね」
「それにさ……」
和子は由恵に顔を近づけると、声を潜めて言った。
「まだ会社辞めて完全にFIREするほどではないにせよ、ないわけでは、ない。コロナ・ショックもあったし。しかも今回、明彦も投資してるから、一回目よりは、まあまあ、いや、結構、あるかも」
「実は、うちも……」
二人は顔を近づけたまま、にやりと笑ったのだった。
喫茶店を出た二人は、周りをきょろきょろと警戒しながら、駅までの道を急いだ。今回は暗い裏通りを歩かずに、街灯がたくさんある明るい大通りを通り、二人は無事に駅に辿り着いた。
地下鉄が最寄駅に到着し、改札への階段を上りながら、由恵が言った。
「私たち、もう安心しちゃっていいのかな?」
「多分、ね。でも、これからがちょっと怖い」
「怖い? なんで?」
和子は眉根を寄せて答えた。
「だって、これから先は、未来に何が起こるのか、わからなくなるんだよ?」
由恵は吹き出した。
「姉ちゃん、それ当然のやつじゃん? 一回目の人生はずっとそうだったし、今回も言うほど私たち覚えてなかったからね。龍ちゃんという不確定要素もあったし」
階段を上りきると、改札の前で明彦とクマさんが話している姿が見えた。二人を見つけて、大きく手を振っている。
「それもそうか……」
和子はそう言うと、ずっと手に握りしめていたナプキンを破ろうとした。
「ちょっと待って!」
和子の右手首を、由恵は強く握った。
「姉ちゃん、まだ破らないで。一応、念のため、今晩は取っておこう」
「了解! 用心は怠らないのが、二回分の人生経験のなせる技、だな!」
そうして二人は静かな駅に笑い声を響かせながら、それぞれの夫のもとへ駆け寄っていった。
翌朝、目を覚ました和子の目に入ったのは、見知った天井、そして視界の半分はグレーと黒と白の混じりあった毛で覆われている。ミーコが和子の顔に尻を押し付けるようにして寝ているのだ。ミーコの尻がずっしりと重くて温かい。
「和子ー、起きてるー? 起きてるならパン焼くよー?」
「お願いー!」
そう言うと、和子はミーコの尻をそっと押しのけて、ベッドから立ち上がった。ミーコはいかにも迷惑だという顔で、和子をちらりと見ると、尻尾をマットレスに叩きつけるように大きく振った。
パジャマのズボンのポケットを探ると、昨日念のために持って帰ったナプキンが出てきた。和子はナプキンをじっと見つめたが、おもむろにびりびりと破いた。
「もう、いらないか……。だって、未来はもう、ナプキンには書いてないもんね」
そう呟くと、和子は破片をゴミ箱に放り込み、明彦の待つダイニングへと向かったのだった。
<FIN>
いつも読んでくださって、ありがとうございます。
本日7月25日、最終話となるエピローグを投稿しました。
とうとう最後を迎え、嬉しさと寂しさが入り混じった、なんとも複雑な気持ちです。
ここまで和子と由恵の物語を読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。
まだお読みでない方も、お時間のある時に最後までお付き合いいただけたら、とても嬉しいです。
そして、もし楽しんでいただけましたら、レビューやコメントなどで感想をお聞かせいただけると、本当に励みになります。
ここまで毎日更新を続けてこられたのも、読んでくださる皆さまのおかげです。
本編はここで完結となりますが、本編では書ききれなかったエピソードがいくつかあります。
番外編というか後日談を書きたいと思っていますので、「その後のみんなが少し気になるな」と思っていただけましたら、また読んでいただけると嬉しいです。
もし作品や、和子と由恵の姉妹を気に入っていただけましたら、引き続き★やブックマーク、リアクションなどで応援していただけると、とても励みになります。




