プロローグ
株式市場はマイクロンの躍進に沸いていた。
和子の周り――と言っても、主にネットニュースやSNS――は、どこを見てもマイクロンをはじめとするAI関連株一色だった。
「私、実はマイクロンの株持ってたんだ」
足立区の静かな喫茶店。
推しの舞台を鑑賞後、冷たい紅茶で一服しながら舞台の感想を語り尽くした、その一瞬の空白に、和子が言った。スマホでXのタイムラインをスクロールしていた由恵が顔を上げる。
「マジ?」
「マジマジ」
「いくらで買ってたの?」
「百十ドル」
「うっわ」
由恵はスマホをテーブルに置き、和子に向き直った。
「じゃあ今すごいじゃん」
「すごいよ」
「十倍くらい?」
由恵が本気で羨ましそうな顔をする。和子は少し黙った。そして言った。
「でも昨年末、百九十ドルで売った」
数秒の沈黙。
「姉ちゃん」
「何」
「馬鹿だね」
「知ってる」
「どれくらい儲けそこなったの?!」
「考えたくもない」
由恵は大笑いし、和子も少し笑った。笑うしかない。
「株のリターンが一番高いのは死者らしい」
和子が言った。
「聞いたことある」
「私みたいにちょこちょこ動かしたくなる人間は駄目なんだ」
「それな」
由恵が笑う。
「未来から来た人間なら勝てるんじゃない?」
「チートすぎるだろ」
「アップルを上場時に買って」
由恵が指を折る。
「マイクロソフトを買って」
「うん」
「アマゾンを買って」
「うん」
「エヌビディアを買って」
「うん」
「ずっと持つ」
由恵はスマホを再び手に取った。
「チャッピーに聞いてみる。『アップル、エヌビディア、マイクロソフト、アマゾン、マイクロンの上場時期とその時の値段と、今日時点の株価を教えて。そしてその株を今まで持っていたらいくらになっていますか?』と。……うわ、エグい。見てよ」
「エグいな……」
画面を見せられた和子が息を呑む。
同じ二十代のボーイズグループに仲良くはまった二人は、四十五歳と四十一歳の姉妹であるが、推しが言う「エグい」が口癖になっているのであった。
「どれも何千倍か。差はあるけど、千倍超えたらもう誤差だな……」
由恵はスマホをテーブルに置き、喫茶店のペーパーナプキンに書き始めた。
Apple 1980/12/12
NVIDIA 1999/1/22
Microsoft 1986/3/13
Amazon 1997/5/15
Micron 1984/6月1
「何してんのよ?」
「いくら未来人でも、データがないことには勝てんからな」
「どうやって過去に戻る気だよ」
「それは……知らんけど」
二人は腹が捩れそうなほどに笑う。
由恵はまた画面を確認すると、折りたたまれていたペーパーナプキンを広げて、続ける。
1989末 日経平均ピーク
1990 バブル崩壊
1995 Windows95
2000 ITバブル?
2001 ITバブル崩壊・9.11
2008 リーマンショック
2011 東日本大震災、原発事故
2016 熊本地震
2020 コロナ
2024 日経平均更新?
2026 AI株好調
「ざっと書いてもこれだけのことが起きるのか……この中で株を持ち続けるのは至難の業だね」
和子は溜息を吐きながら、新しいペーパーナプキンを取ると、由恵のペンを奪い取った。そしてスマホを見ながら七人分の名前と日にちを書き始めた。
「ついでに推しの入所日も……」
「それはいるな」
「最重要よな」
二人は真面目な顔で頷き、目を見合わせ、同時に笑った。
喫茶店を出て、地下鉄の駅へと歩く。大通りから一本入った道は、街灯が少なめだった。遠くで車の音がする。二人はまだ株の話をしていた。
もし80年代に戻れたら、どの銘柄を買うか。
何年まで持つか。
親をどう説得するか。
証券口座はどうするか。
そして推しの入所日に何をするか。
そんな馬鹿な話をして、二人で大笑いしていた。
だから、気付かなかった。
近づいてくる眩しい光に。
車に。
世界が白く染まる。
強い衝撃。
身体が宙に浮いて、どちらが地面なのかも分からない。
誰かの叫び声がする。
地面が、近づく……
その瞬間に、和子の脳裏に浮かんだのは、本当に脈絡のない疑問だった。
由恵は、あのナプキンを持って帰ったのだろうか。
※小説家になろうとカクヨムで投稿しています。




