それから
あれは何年前のことだったか。
リクハルドと出会って3年はたったころだ。
私は、失恋した。久々の手痛い失恋だった。
造詣が深く解説も上手な歴史の教師に恋をしていた。年は20歳以上も上だが、偏ることのない知識を惜しみなく私に与えてくれるところがとても好きだった。
ある授業の日、必死に世界と我が国の道筋をたどっていたとき、ふと漏らした教師の発言に固まった。
「セシリア王女も、もちろん政略結婚を覚悟しておいでですね」
疑問系ではなく確定に近い言葉に、私は反応が遅れた。
考えなかったわけではない。周りからもそう期待されていたし、王女としての責務だと思っていた。しかし、やはり、好きな人に平然と言われると、その言葉は随分と重くなり私にのしかかってきた。
「せ、先生」
「はい、何でしょう」
「私は」
あなたが好きなのですとは続けられなかった。この人に告げたら、とんでもないと怒り出しそうだったからだ。歴史と伝統と秩序を重んじる教師は、王女の役目は国と国、人と人をつなぐための道具にすぎないと本心から思っていた。
あなたは私と身分が違うのですよ。
告げられたわけでもないのに、嘲笑されているように感じた。あなたは、私とは違い、恋愛などできないのですよ。そうやって、笑われた気がした。
突きつけられた現実に目の前が暗くなったが、どうにか歴史の授業をこなし、それでもやっぱり胸が苦しくて、私は部屋を飛び出した。
衝動的に飛び出して行き着いた先は、人の気配のない中庭の隅。日当たりもよくない場所に立つ細長い木の下だった。
頼りない木に背をあずけ、ふっと息を漏らす。
しょせん現実はとはこんなもの。何を期待していたのか。
じわじわとたまってきた涙をそのままに、しばらく目を閉じて静寂の中にいた。
心を無にして、平静を保つ。
「セシリア様」
いぶかしむ声に応えるように目をあけると、適度な距離をとって立つリクハルドが見えた。
あふれんばかりの涙に気づいたようで、一瞬、彼の呼吸が乱れる。そして何事もなかったかのように、私の隣へやってきた。それが当たり前と錯覚するほど自然に。
ただそれだけだった。
何も言わず、問わず、私の肩と彼の二の腕が触れるか触れないかのあたりに立つ。
リクハルドがここまで近づいたのは初めてかもしれない。兄が第一、他人は知らぬと常日ごろから態度で示していた彼は、容易に近づける人物ではなかった。
そんな彼が隣に来てくれた。すごくうれしくて、気が緩んだついでに涙がこぼれた。
しばらく2人で隣り合う。
気持ちよい。このまま空気に溶けてなくなってしまえばいい。
私がリクハルド・ユーセナを強く意識し出した、2回目の出来事。
再び彼が私の部屋を訪れたのは、あの拒絶のときから数日後だった。
「セシリア様」
兄の忠実な護衛官の顔は、相も変わらず平常運転、無である。
と、私に顔を向けると、その瞳で、私を射抜いた。
鋭すぎて私でさえも口を開けない。机に座り、ペンを持ったまま、リクハルドが動くのをじっと待っていた。この人のパーソナルスペースに入るときは、慎重に。
そして彼は、独断で私の正面に椅子を運び、座る。
「話をしても?」
「どうぞ」
「俺は」
一人称が俺になった。これはごく私的な話なのだろう。ヨンナに目で合図を送ると、彼女は承知とばかりに他の侍女を伴い隣の控室に消えていった。
私も少し姿勢を崩し、王女としての態度を和らげる。
彼もわずかに顔をゆるめた。
「俺は文官、武官両方の道が開かれていました。16のとき」
「ええ、うん。優秀だったとは聞いていたわ。将軍と宰相があなたを取り合ったとも」
「光栄なことです」
口の端を上げる。珍しく少し照れているようだ。
「アルマス殿下と手合わせをする楽しさも覚えたし、現状を分析して改善をする文官にもなりたかった。俺は将来を迷っていた。夜も眠れなくなるほど」
「え。そんなに迷っていたの」
あの当時のことを思い出す。確かに迷っている様子が見えたっけ。読み取るのが大変な表情の中から、焦りやなんかがちらりと見えていた時期があった。
「あるとき、セシリア様と話す機会が」
そうだ、思い出してきた。無表情が常の彼が珍しく憔悴していたので、100年以上生きているという大樹の下で日なたぼっこをしようと思い切って誘ったのだった。緑の迷路の真ん中にあり、しかもさらに低い木で周りを囲んでいて、他人の目を心配せずに寝ころがれる場所だった。きっと気が晴れるだろうと。私は11歳になっていたと思う。実に子供らしい発想だ。
「あのときに、セシリア様がおっしゃったのです」
『あのね。お兄さんとお友達になってほしいの』
「俺は驚きました」
リクハルドの瞳が細められた。
「あ、あら」
そんなことを言ったっけ。そこまで覚えていない。
子供と昼寝させられたことも、変な発言があったことも、不満があり今まで覚えていたのだろうか。全く執念深い……、いやいや、私が悪いんだけれども。
「ほら、私も子供だったし」
今さらながら、ごめんなさいね。
「うれしかったんですよ。あなたが『お兄さん』と殿下を称したことが」
「……ん?」
首をひねる。
うれしい? 不満ではなくて?
「気づいていませんか」
うっすらとほほえむリクハルドが私を見る。
「え?」
「あなたは自分に気を許した人にしか言わないのです。家族を、お兄さん、お父さん、お母さんと」
瞬間、かっと顔が熱を持つ。
気づかなかった!
そういえば、言われてみたら、公共の場はもちろん、そんなに親交のない人がいるところではお兄様、お父様、お母様と呼んでいる。
完全に無意識だった。
家族の呼称、これが私の境界か。その人が私の内側にいるか、外側にいるか。
そして、特に意識せず、私はまだ子供のときからリクハルドを内側に入れていた。
ああ……、熱い。両手を頬に当てる。
「そして、その一言で、俺は殿下のおそばにあろうと決めたのです」
忠実な護衛官がいつの間にか机の脇、私の左前に立っていた。
とてもじゃないが、彼の顔は見れない。非常に恥ずかしい。じっとテーブルの上を見詰める。
そんな私に目線を合わせるため、リクハルドは膝をつき、私が頬に当てていた両手をそっと外して自分のもので包み込んだ。
待って待って待って。何これ。
ぎょっとして反射的に顔を上げ相手の顔を見た。
……何それ。
さらに度肝を抜かれる。
そこには、とても優しく、情熱を秘めたものを私にそそぐ男がいる。
それはまるで。
「セシリア様」
思考が停止しそう。待って、本当に待って。少し考えさせて。
「俺は、あなたをずっとお慕い申しておりました」
思考が遮断された。
「リ、リクハルドは」
「はい」
「私と」
「はい」
「……ちゃんと恋愛してくれるの」
そうしなければならないと思ったので、私は正面からリクハルドを見た。
恋愛したい。そして、生涯にわたりお互いを支え合える人と結婚したい。
この夢を、ともに現実に。どうか。
彼は、もっと大きな笑みを浮かべてはっきり肯定した。
「はい、あなたとしたいのです」
ありがとうございました。