35. どうしてキスをした
サフィラたちはドミナの家を後にして、騎士団の宿舎へと向かった。
若手向けの寮になっているのだというその建物は、年季の入ったレンガ造りのがっしりとしたつくりをしている。
手続きをして中に入れば、中は無機質な白い塗り壁だった。部屋は二人部屋になっている、とアウクシリアは説明する。
「騎士がひとり余っているらしいから、俺はそこの部屋を使う。お前らは、二人でこの一部屋を使え」
え、とサフィラは声を上げる。ぎくしゃくとクラヴィスを見ると、彼は平然としてサフィラを見た。
「分かった。行くぞ、サフィラ」
「あ、う、うん」
荷物を持って先を行くクラヴィスを、サフィラも追いかける。クラヴィスが扉を開ければ、そこは寝台が左右の壁際に一台ずつ置かれていた。他には小さな机と椅子がそれぞれに備え付けられているだけの、簡素な部屋だ。
クラヴィスは荷ほどきをはじめる。サフィラも荷物を入れた鞄を開き、必要なものを取り出した。とはいっても、着替えや身支度を整えるためのわずかな道具くらいしかないのだが。
「サフィラ」
名前を呼ばれて振り向くと、クラヴィスが彼の寝台に座っていた。その表情はやわらかく、どこかだらしないほど緩んでいる。なに、と尋ねると、彼は首を横に振った。
「一緒の部屋で過ごせて、嬉しいだけだ」
「……ほんの短い間だけだよ」
そっぽを向くサフィラに、「うん」とクラヴィスは頷いた。
「それでもだ」
「そう」
サフィラはどうにも調子が狂って、頭をかく。サフィラも寝台に座り、クラヴィスと向かい合った。それでも気まずくて、うろうろと視線がさまよう。
「クラヴィス。その、……」
口ごもるサフィラをよそに、クラヴィスは立ち上がった。サフィラの隣にためらいなく座る。
驚くサフィラに、「続けてくれ」と彼はサフィラを見つめながら言った。
「ああ、うん」
場の雰囲気に押されて、サフィラは頷いた。それで、と言葉を選びはじめる。
だけど、言うべきことは何も出てこなかった。今朝のことを思い出すと、身体がひりついて舌が強張る。その、と口ごもるサフィラに、「キスはしない」とクラヴィスが言った。
「うあ」
思わずサフィラが間抜けに呻くと、クラヴィスは脚を組んでじっとその顔を見つめる。
「壁の薄い隣の部屋に、これからしばらく顔を合わせる相手がいるんだ。さすがの俺もしない」
「そ、う、じゃなくて」
たどたどしく言って、サフィラはクラヴィスの腕を引っ張った。
「な、なんで……今朝、したの?」
やっとの思いで尋ねると、クラヴィスは「したかったからだ」とあっさり答える。
「ずっとしたかった」
「わーっ!」
サフィラは羞恥に耐えかねて、頭を布団の中に突っ込んだ。震えるサフィラの腰に、クラヴィスの手が触れる。
「ひゃっ」
その手は無遠慮にサフィラの身体を掴み、布団から引き抜く。サフィラの顔を見て、クラヴィスは笑った。
「真っ赤だな」
腹立ち紛れに枕でクラヴィスを叩くと、「すまん」と全然申し訳なさそうな声で謝る。
ひとしきり気が済んで、サフィラはベッドに寝転がって背中を向けた。
「……やっぱり、なかったことにしよう」
「なかったことにするな、と言っただろうが。往生際の悪い」
サフィラも自分が最低なことを言っている自覚はあった。それにしてもクラヴィスが真正面から打ち返してくるので、悶絶してしまう。
「嫌だったのか?」
「い、いや、いやだった……!」
ぐずるように言っても、まるで何の説得力もない。サフィラが胎児のように丸くなっていると、クラヴィスは「そうか」とサフィラの頬を指の背で撫でた。その優しい手つきに、そわりと首筋までがやわらかくざわつく。
「嫌ではなかったんだな」
「言葉の、裏を、読むな」
サフィラは起き上がり、クラヴィスを押しのけた。それからできるだけ露悪的な言い方で、冷たい声色で突き放す。
「僕は本当に嫌だった。気持ち悪かった、二度としてほしくない」
「そうか?」
「そ、そうだよ。部屋だって今から、僕とアウクシリアで代わってもらった方がいい」
最初からこうすればよかった、と言いながら、サフィラは荷物をまとめはじめた。クラヴィスはじっと、その背中を見つめている。
「サフィラ」
名前を呼ばれて振り返ると、クラヴィスは怖いくらいの無表情だった。目はわずかに細められ、その視線は絶対零度。
これは、本当に怒っているときか、本当に悲しんでいるときの顔だ。
「ク、クラヴィ、ス」
サフィラが固まると、クラヴィスはベッドから降りてサフィラに視線を合わせた。
「俺に隠しごとをしているのは、もういい。今更だ」
声は沈んで重たく、張りがない。その視線に気おされて、サフィラは後ずさる。クラヴィスは、ただじっとサフィラを見つめていた。
「だが、キスをそこまで言われると、さすがの俺もいやだ。はじめてだったんだぞ、あれ」
はじめてだった。その言葉に、場違いにもサフィラの心臓が跳ねる。そう、と視線を逸らすサフィラの顔を、クラヴィスが覗き込んだ。
「あんなに気持ちよさそうにしていたくせに。よくそんなことを言えるな」
「う、うう」
「サフィラ。俺は、気持ちよかったし、嬉しかったんだ」
こんな言い方でも、クラヴィスは怒っていない。ただひたすらに、彼なりの表現で、悲しみを表現しているだけだ。それになおさら罪悪感が募って、サフィラは唸る。
「い、いや……! 一緒の部屋はいやだ。アウクシリアと代わってもらう」
それでも拒否すると、クラヴィスがのしかかるように抱き着いてきた。サフィラの頭は、クラヴィスの体温とにおいでいっぱいになる。
(抱きしめられるのって、こんなに気持ちよかったっけ)
ふにゃふにゃになったサフィラの耳元で、やっと気分が回復してきたらしいクラヴィスが笑った。
「かわいい」
そんなことを言わないでほしいのに、勝手に身体が嬉しがって胸を高鳴らせる。
(そもそも、突き放し切れない僕が悪い。クラヴィスにも申し訳ない。僕がここにいられるのも、……生きているのも、新月の晩が明けるまでなのに)
あと二週間もない。だからそれまでに、クラヴィスを突き放さないといけないのに。
ただひたすらに、彼の腕の中が心地よかった。
「キス、気持ちよかった。サフィラとはじめてのキスができて、嬉しい。今度は、デートをしよう」
「デートって」
「それで、あの島の連中に、俺とサフィラの仲を見せびらかすんだ。アルスの悔しがる顔も見たい」
唇にキスの感触が蘇る。それにアルスの笑顔。リートレとウェントスの声。
サフィラの中の未練が、クラヴィスの手によって引っ張り出されていく。
「あたたかいな。こんなに抱き心地がいいなら、もっとはやく抱きしめておけばよかった」
クラヴィスはゆるみきった声色で、サフィラに囁く。じんわりと身体中に熱が通い、とくとくと心臓が脈打った。
(ああもう、なんで、こんなことで)
情けないことに身体の力が抜けて、離れがたい。せめてもの抵抗に身体の間に腕を入れた。
それごと強く抱きしめられて、腕を構えても何の意味もない。




