22. 潜水
クラヴィスは二人を抱え、難なく西の塔へとたどり着いた。
そこは礼拝堂になっているらしく、雑踏の中からちらほらこちらを指さす者もいた。それを意にも介さず、クラヴィスは海へと向かう。
「ここか?」
塔のてっぺんでサフィラをおろし、ペクタスは抱えたままでクラヴィスが尋ねる。ペクタスは頷き、「あそこから海に入ります」と、海へと降りる整備された階段を指差した。
しかしそこには、既に追っ手の姿が見える。
「どうしよう」
うろたえるペクタスの額に、サフィラがひたりと手を置いた。
「海の神々、海の精霊たちよ。母なるマーレ、その眷属たちにウォルプタース家のサフィラが希う。この者に加護を」
ペクタスの鼻、胸、そして両方の肩をサフィラがなぞる。
「今のは?」
戸惑うペクタスに、「海中での無事を祈る魔術です」とサフィラが微笑む。
そのまま踊るように、塔の頂点から海へと、身を投げ出した。
「は!?」
驚愕に固まるペクタスを抱え直し、「ああいう奴なんだ」とクラヴィスがため息をつく。下では、サフィラが海面へ飛び込んだ水しぶきが立っていた。
クラヴィスはペクタスをおろすと、無造作に鎧を脱いだ。身軽になり、腰にロングソードだけを提げて、腕を振る。
「俺たちも続くぞ。息を吸い込め」
ペクタスは慌てて、肺を空にするために息を深く吐く。胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込んでいるのを見計らって、クラヴィスも海へと飛び込んだ。
どぷん、と音を立てて、視界が青に染まる。
水を通して太陽光が降り注ぎ、魚影がちらほらと視界をよぎった。クラヴィスの腕から放たれたペクタスは、先に飛び込んでいたサフィラを手招いて進む。
その先には、大きな暗い穴があった。
サフィラが明かりを灯す。ペクタスはそれを頼りに、一点を示しながら泳ぐ。二人もその後に続き、一分ほど泳いだだろうか。
三人の肺が限界を迎えるより少しだけ先に、息継ぎのできる空間に出た。三人は空気を求めて水面から頭を突き出し、必死に深い呼吸を繰り返す。
「ここです」
荒い息を吐きながら、ペクタスは水から身体を引き上げた。サフィラはローブを脱ぎつつ続く。最後にクラヴィスが、背後を警戒しながらあがった。
そこは誰もいないのに、全体が魔法で明るく照らされている、静かな空間だった。
壁には色褪せた蛇と海亀、星々の壁画。それを彩るように、何度も書き足されたのだろう古代文字が踊っている。地面には、魔法陣が描かれていた。
「海蛇伝承だ」
サフィラは壁に目を走らせ、古代文字を解読していく。その間、ペクタスは身体に張り付いた衣服を脱いでしぼっていた。
「サフィラさんは、あれが読めるんですね。俺の周りは、誰も読めないのに」
「あいつはこういうのが得意なんだ」
クラヴィスが代わりに答えると、ペクタスは瞬きをしてクラヴィスを見上げる。
「そういえば、お二人はどういう関係なんですか? すごく親そうですけど」
「……幼馴染だ。ただの、な」
どこか自虐的な響きの声に、ペクタスは首を傾げる。クラヴィスは辺りを見渡しつつ、剣を抜いて警戒態勢に入った。
その抜き身の刃物にペクタスが目を見張る。クラヴィスは「来るぞ」と囁いた。
海面に、あぶくが湧く。それは人の影になり、次々と男たちが頭を突き出した。彼らは陸にあがり、三人へ刃物を向けてくる。
「そこのガキを渡せ。さもなくば……」
暗器を構えた男たちを一瞥し、サフィラは「クラヴィス」と杖を取り出した。
「十分間……いや、五分もたせて。ペクタスくんはこちらでかばう」
「了解」
サフィラは、「ペクタスくん」と呼んだ。当の本人が戸惑っている間に、男たちは刃物をちらつかせる。クラヴィスは怯まず、剣の切っ先を向けた。
「どうしてペクタスを渡さなければいけない。彼は何もしていないだろう」
「彼は神聖な務めを怠ったのだ。それだけで生贄に値する。……お前たちの命も、ともに捧げてしまおう」
そうか。クラヴィスは頷いて、上段に構えた。男たちはそれを無視して、ペクタスに襲いかかろうとする。
その足元に、海水が這った。
「海の神々、海の精霊たちよ。母なるマーレ、その眷属たちにウォルプタース家のサフィラが希う」
サフィラが杖を一振りする。水がぐるりと渦巻き、立ち上がった。その細く激しい水流が籠や壁のように、サフィラとペクタスを取り囲む。
クラヴィスは怯む男達にゆらりと近づき、「そちらへは行くな」と一人の首根っこを掴んだ。途端に男たちの敵意がクラヴィスへ向き、その間にサフィラは壁画へ視線を走らせる。
「あ、あの、サフィラさん」
「大丈夫。クラヴィスは強いんですよ」
振り返って、不安がるペクタスを安心させるように微笑んだ。サフィラが練り上げた水の籠から無理矢理腕を伸ばす者もいるが、すぐさまクラヴィスが引きはがす。
ペクタスはあちこちに視線をさまよわせ、所在なさげにたたずんでいた。服の裾を掴み、サフィラに尋ねる。
「その、五分っていうのは、なんの時間なんですか」
「僕が壁の古代文字を読み終えて、次の行動に出るまでです」
サフィラは再び、視線を壁へと向ける。
「心配しないでください。あなたは、助かります」
サフィラはそう言いつつ、懐から短剣を取り出した。その鋭い切っ先で、ためらいなく掌を引き裂く。
「ひっ」
息をのむペクタスに「驚かせてごめんなさい」と微笑みかけて、サフィラは地面を見下ろす。
そして跪くように、膝を地面へとつけた。躊躇いなく、傷口を土の上へとなすりつける。
ちょうど、魔法陣の中心だ。
「ぐ」
痛みに、低い呻き声が漏れる。クラヴィスがサフィラを呼ぶ声が、遠くに聞こえた。それに振り向きもせず、サフィラは、古代文字を解読して得た呪文を口にする。
「其は聖なる光、天空の神。海の息子にして夫、我らが大いなる父神なり。偉大なるテストゥードーよ――」
そして一瞬のためらいの後、サフィラはその言葉を口にする。
「我が血肉は汝の糧に。我が魂は海への贄に」
もう取り返しがつかない。サフィラの口の端が、震えながらつり上がった。
「顕現せよ。泳ぐ太陽、我らの救い主。我が贖いに、こたえかし」
その瞬間、サフィラの血が魔法陣全体へと走った。それは真っ赤に染まり、神々しい白い光を放つ。その光に、その場にいる誰もが目を細めた。
そして、土がぼこりと盛り上がった。何かが土を掘って、地上へとあがってくる。
白い嘴が突き出たのを、サフィラの暗くなっていく視界が捉えた。




