エピローグ:終わりへの始まり
"What we call the beginning is often the end. And to make an end is to make a beginning. The end is where we start from."
(我々が、始まりと呼ぶものは、しばしば、終わりである。そして、終わりを、迎えることは、始まりを、作ることだ。終わりこそが、我々の、出発点なのだ)
– T.S. Eliot/トーマス・スターンズ・エリオット
鎌倉の午後の陽光は、蜂蜜のようにとろりとして、庭の若葉の上で、きらきらと踊っていた。縁側で、青木義成は、眠る息子・明の、柔らかな髪を、指でそっと撫でていた。潮の香りを運んでくる、穏やかな風。妻・由紀が、キッチンで鼻歌を歌う、平和な音。
中国での、あの、血と、硝煙と、偽りに満ちた日々は、まるで、遠い前世の、悪夢のようだ。彼は、帰ってきた。この、平凡という名の、奇跡の中へ。
その、静寂を破ったのは、父・楡生からの、一本の電話だった。
「…義成か。少し、相談があるんだが」
電話の向こうの、父の声は、いつになく、真剣だった。彼は、あの、須藤翔太からの、奇跡のような手紙のこと、そして、実母・美佐子の、最後の遺言について、静かに語った。
「…父さんと、母さんは、最後の旅に出ようと思う。俺の、そして、俺たちの家族の、始まりの場所へ。上海へ、そして、海南島へ。お前も、一緒に、来てはくれないか」
義成は、黙って、父の言葉を聞いていた。
父は、多くを語らない。だが、義成には、わかっていた。父が、この旅を、どれほどの、覚悟を持って、決意したのかを。そして、その旅が、中国という、かつて父を、そして、自分自身を、深く傷つけた土地へ、再び、足を踏み入れることを、意味するのかを。
「…父さん。少し、時間をください。準備が、必要です」
電話を切った後、義成は、書斎に入り、鍵をかけた。そして、何年も、触れることのなかった、引き出しの奥から、一つの、暗号化された、衛星電話を、取り出した。
深く、息を吸い込む。
これから、かける電話は、彼が、捨て去ったはずの、過去へと、彼を、引き戻す。だが、彼は、迷わなかった。家族を、守るためならば、彼は、再び、龍となることを、厭わない。
コールサインが、数回、鳴った後、懐かしい、あの、能面のような声が、聞こえた。
「…俺だ」
「…佐藤さん。ご無沙汰しています。青木です」
「…君か。何の用だ」
声は、変わらず、無機質だった。だが、義成は、その奥に、微かな、驚きを、感じ取った。
義成は、父の計画を、簡潔に、説明した。
「…そういうわけです。父と、母、そして、私の家族全員で、中国へ、渡りたい。あなたとの、最後の、約束を、果たしていただきたい。我々、家族の、安全を、保証すると」
電話の向こうで、長い、沈黙があった。
やがて、佐藤は、重々しく、言った。
「…わかった。君は、この国に、大きな『貸し』がある。約束は、守ろう。君と、君の家族が、中国に、滞在する間、いかなる『影』も、君たちに、近づくことはないと、国家が、保証する。心置きなく、行ってくるといい」
「…感謝します」
電話を切った義成は、もう一つの、準備に、取り掛かった。
彼は、書斎の、金庫から、小さな、黒い、箱を、取り出した。中に入っていたのは、数枚の、クリスマスカードと、一つの、小さな、USBスティックのような、物体。仮想通貨の、ハードウェアウォレットだ。
それは、日本に、帰国して以来、毎年、欠かさず、香港の、あの女から、送り届けられてくるものだった。
林祖苑。
カードには、いつも、美しい、筆記体で、洒落のきいた短い文面でこう、書かれているだけ。
『Mary Xmas. Your Hines.』
(メリー・クリスマス。私の陛下)
二人の間に、直接の、連絡は、一切ない。だが、この、カードと、毎年、莫大な、金額が、チャージされていく、ウォレットが、彼女が、今も、どこかで、元気に、そして、おそらくは、さらに、強大な、なにかを手中に収め続けるとしていることを、物語っていた。
義成は、ノートパソコンに、ウォレットを、接続した。そして、その、天文学的な、暗号資産の一部を、彼が、かつて、中国の、闇の中に、築き上げた、いくつかの、ヒューミントの、口座へと、送金した。
上海の、裏社会勢力、かつて便宜を図らったいくつかの組織のボスへ。
そして、あの、荘園の地下で、地獄を見た後、彼が、密かに、支援を続けてきた、チベットや、ウイグルや、法輪功の人々のために発生続けてきた人権活動家たち。
彼らに、その「仕事」を、依頼するためだった。
『青木家の、人間が、上海と、海南島を、旅する。彼らが、心地よく、そして、安全に、旅を終えられるよう、影となり、日向となり、すべてを、整えよ。これは、私からの最後の依頼、である』
すべての、布石は、打たれた。
国家という、光の、盾。
そして、裏社会という、闇の、剣。最後に一般社会における些細な防波堤、
その、全方位から、彼は、静かに、そして、完璧に、手配したのだ。
数週間後。
青木家の、四世代にわたる、長い旅が、始まった。
上海、呉淞港の、埠頭。
父・楡生が、実母と、育ての父の、魂を、東シナ海の、風に、還している、その、背後で。
義成は、由紀と、明を、抱きしめながら、遠くの、倉庫の、屋根の上に、立つ、二つの、人影を、認めていた。屈強な、男たち。裏の勢力の一部であろう。彼らは、青木家の、一行が、危険に、晒されることがないよう、見えない場所から、すべてを、監視していた。
福島、相馬の、太平洋。
母・美佐子の、遺骨が、日本の、青い海に、還っていく、その、光景を、見守りながら。
義成の、携帯が、短く、震えた。佐藤からの、暗号化された、メッセージだった。
『対象周辺、異常なし。旅を、続けよ』
そして、海南島、楡林港。
すべての物語が、始まった、あの、楡の木の下で。
父が、七十数年の、歳月を経て、ようやく、その、魂の、原点に、たどり着いた、その、瞬間。
義成は、少し、離れた場所から、その、光景を、見つめていた。
父が、木の根元に、掌を、置く。
母・京海が、その、夫の、肩に、そっと、手を、添える。
妻・由紀が、息子・明の、手を引き、静かに、手を合わせる。
四世代の、魂が、一つの、円環となって、繋がった、その、奇跡の、瞬間。
義成の、心に、これまで、感じたことのない、深く、そして、穏やかな、感情が、満ち溢れていくのを感じた。
ああ、これだったのだ、と。
自分が、この、十数年間、あの、奈落の底で、戦い続けてきた、理由。
自分が、人間としての、魂を、売り渡し、怪物の、仮面を、被ってまで、守りたかった、もの。
それは、国家でも、イデオロギーでもない。
ただ、この、ささやかで、かけがえのない、家族の、光。
この、穏やかな、時間。
そのために、自分は、存在したのだ。
「おじいちゃん」
息子の、明の、小さな手が、楡生の、ズボンを、きゅっと掴んだ。
楡生は、振り返り、孫を、そして、彼を、愛おしそうに見つめる、息子夫婦と、妻の京海の顔を、見つめた。
潮騒が、優しく、足元を洗う。
遠くで、船の汽笛が、一声、長く、そして穏やかに鳴った。それは、かつて母と子を引き裂いた、悲しい汽笛ではなく、新しい旅立ちを祝福するような、希望の音色に聞こえた。
義成は、父と、母、そして、妻と、子の元へと、歩み寄った。
彼の、顔には、もう、何の、迷いも、影も、なかった。
彼の、聖戦は、終わった。
龍は、その、すべての、戦いを、終え、ようやく、その、鱗角をたため、休めることができる。
彼は、もはや、龍ではない。
彼は、ただの、青木義成。
父であり、夫であり、そして、一人の、息子。
彼の、魂の、羅針盤は、もはや、光も、闇も、指してはいない。
ただ、目の前で、微笑んでいる、愛する、家族の、いる、場所だけを、まっすぐに、指し示していた。
楡の葉が、風に揺れ、きらきらと、南国の陽光を反射していた。
それはまるで、天国の、すべての、魂たちが、この、長い、家族の物語の、終わりと、そして、新しい、始まりを、祝福しているかのようだった。
~完~




