第2話 シェアハウスの融和な日常
朝の柔らかな光が、シェアハウス「シェアスマイル」の広々としたリビングルームを満たしていた。この家の中心となるリビングは、どの個室に行くにも、キッチンやトイレに行くにも必ず通らなければならない回廊型の構造になっている。
オープンすぎるアイランドキッチンに立ち、神崎結衣は小鍋の昆布出汁の香りを確かめていた。
シングルマザーである彼女は現在無職だが、実はこのシェアハウスのオーナーの娘でもある。根っからの世話好きである彼女は、共有スペースの掃除や希望する住人の食事作りを進んで一手に引き受けていた。住人たちも結衣の健康的で美味しい手料理に心から感謝し、大いに頼りにしている。食事については毎月定額の食費を事前に渡すシステムにしているため、頼む側としても気兼ねなくリクエストできる、非常に良好な関係が築かれていた。
「ふふっ、今日もいいお出汁が出たわ」
結衣は無意識に指先を小刻みに動かす癖を見せながら、満足げに微笑む。既製品や添加物を極端に敵視する彼女にとって、手間暇かけた手作りの和食こそが同居人たちへの「愛情」の証拠であり、自分がここに必要とされているという安心感の源だった。
ガチャリ、とリビングに直接面した個室のドアが開く。
「おはよー……ふわぁ」
現れたのは、マーブルカフェの髪色を揺らす美容師の遠藤美月だ。しかしその姿は、レースのキャミソールにショートパンツという無防備すぎる下着姿だった。
「ちょっと美月! 女の子同士だからってデリカシーがないわよ、何か羽織ってちょうだい!」
結衣が優しく、しかし母親らしい口調でピシャリと注意する。
「えー、ウチ、お水飲むだけだから一瞬だもん」
美月は全く悪びれず、会話の途中でハサミを動かすように人差し指と中指をシャキシャキと鳴らす癖を見せて笑った。
「美月ちゃんおっはー!」
結衣の娘で、十歳の凛が元気にリビングを走り回りながら美月に抱きつく。
「凛、走らないの。あら、葵ちゃんが帰ってきたわね。おかえりなさい」
玄関の方から、夜勤明けで少し疲れた顔の五十嵐葵がリビングに入ってくる。清潔感のある黒髪ショートヘアの彼女は、看護師として働いている。
「ただいま……ダメだ、もうバイタル低下気味……」
つい医療用語を口にしながらソファに倒れ込む葵に、結衣は彩り豊かな温かい朝食を運んだ。
「葵ちゃんには、仕事帰りのこってりゴハン。しっかり食べて休んでね」
「ありがとうございます、結衣さん。どれもおいしそう。いただきますね」
葵は習慣のようにアルコールスプレーを自身の手に吹きかけてから箸を取る。
結衣は、美味しそうにご飯を食べる彼女たちを愛おしそうに見つめた。自分が皆の健康を守り、頼りにされている。この「家族」のような温かい空間こそが、結衣にとって手放せない大切な居場所だった。
+++
夕方。
リビングに入る手前の玄関ホールには、壁一面の大きな鏡が設置されている。
その前で、夜職へ向かう前の杉浦玲奈が、派手めのメイクと服装を念入りにチェックしていた。
「玲奈ちゃん、お仕事?」
学校から帰ってきた凛が無邪気に尋ねる。
「そうっすね。今日もキャバクラでがっぽり稼いでくるっす」
玲奈は気怠い口調で返しつつ、凛の頭を優しく撫でた。子供の手前「キャバクラ」と誤魔化しているが、実際はファッションヘルスというさらにディープな夜の世界で働いている。男の醜い欲望ばかりを見る荒んだ日常だが、彼女の胸の奥には誰にも言っていない秘密の夢があった。
(もう少しこのクソみたいな仕事で稼いだら……絶対海外に移住して、自然の中で悠々と暮らしてやる)
リビングから聞こえる楽しげな笑い声だけが、今の彼女のすり減った心を繋ぎ止めている。
「玲奈さん、これから出勤? いってらっしゃい。そして私はただいまっと」
玄関のドアが開き、知的で清楚なオフィスカジュアルに身を包んだ藤原琴音が帰宅した。高校で国語を教える彼女は、眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら真面目な顔で言う。
「今日は園美さんのお別れパーティーがあるんですけど、あれ?」
「うん。ごめん琴音さん、アタシ今日仕事でパーティー出られないから。そうだ、お別れ言っとこっと」
玲奈はそう言うと、リビングに面した小河園美の部屋へ向かった。ドアは開け放たれており、すでに荷物の大半が運び出された後の空間が広がっている。
上品なワンピースを着た園美が、最後の荷造りをしていた。最年長組として結衣と共にハウスのルール作りを担ってきた「良心」的存在の彼女は、幸せの絶頂にいることが一目でわかる艶やかな表情をしている。
「園美さん、今日どうしても行かなきゃいけなくてごめん。パーティー出られないから、今のうちに挨拶しとく」
「玲奈ちゃん。わざわざありがとう。……あんまり無理しちゃダメよ? 美容に大切なのは、夜ゆっくり寝ることなんだからね。昼職、選んだ方がいいよ」
園美の「普通」を愛する少しお節介な言葉も、玲奈にとっては心地よかった。二人は仲の良さを確かめ合うように、軽くハグを交わす。
その様子を見ていた凛が、ふと玄関の下駄箱を指差した。
「ねえママ! 園美ちゃんの靴がなくなったのに、まだ下駄箱いっぱいで靴が入りきらないよ!」
キッチンから顔を出した結衣が、少し困ったように笑う。
「本当ね。ねえ、私たちって結構団結力あるし、今度みんなで大きな下駄箱をDIYで作ってみない?」
「それは良い提案ですね」
琴音が赤ペンを胸ポケットに刺したまま頷く。
「それに、園美さんが退室される以上、家賃のために新しい住人の募集も開始すべきです」
「そうだね。どんな人が来るか楽しみだわ」
結衣が明るく答える。シェアハウス「シェアスマイル」の住人たちは和気あいあいとしており、元気いっぱいで信頼し合う融和で良好な関係性を築いていた。
退去する園美は、皆の屈託のない笑顔を見渡しながら、自分が去った後もこの光あふれる日常が永遠に続くのだと信じて疑わずにいる。




