85「それぞれの覚悟」
一日目の夜。
都内の病院。
白い天井。消毒液の匂い。点滴のチューブが、セイラの腕に繋がっている。
私とシオンは、ベッドの横に立っていた。
セイラが——ゆっくりと、目を開けた。
「……ここ、どこ」
かすれた声。
私は、息をついた。
「病院。フェス会場から救急搬送されたの」
「そっか……」
セイラが、天井を見上げる。
「勝ったんだよな?」
その言葉に、私は一瞬、言葉を失った。
死にかけていたのに、目を覚まして最初に聞くことが、それなのか。
「……勝ったよ。ダントツの1位」
「そっか……よかった」
セイラが、小さく笑った。
その笑顔が——どこか、痛々しく見えた。
医師の説明では、倒れた原因は高熱による脱水症状。
すぐに処置したから命に別状はなかったが、放置すればかなり危険だったらしい。
——もし一人で倒れていたらと思うと、背筋が凍る。
「迷惑かけちゃったな……」
セイラが、私たちを見た。
「明日はしっかり休むからさ。三日目には——」
「なあ……セイラ」
シオンが、口を開いた。
その声は——いつもより、低かった。
「三日目、棄権しよう」
空気が、凍った。
セイラの目が——見開かれる。
「……何言ってんだよ」
「無理や」
シオンの声が、震えていた。
「もううち……あんたを見とったら、まともにギター弾ける気がしない」
「こんなの大したことないって! ちょっと休めば——」
「大したことあるやろ!」
シオンが、声を荒げた。
私は——黙って、二人を見ていた。
「シオン、おまえ……フェスであいつらと決着つけるんじゃなかったのか?」
セイラが、ベッドから身を起こそうとする。
「別にアタシのこと嫌ってもいい。でも音楽で決着つけるんだろ?お前の覚悟ってそんなもんなのかよ」
「そうやない」
シオンの目から——涙が、こぼれた。
「なんでわからんねん」
「シオン……」
「うち、出会う前からセイラのことが嫌いやって言うたよな」
シオンの声が、かすれている。
「なんでか、わかったんや」
沈黙。
点滴の雫が、静かに落ちる音だけが聞こえる。
「あんたな……お父さんに、似てんねん」
私は——息を呑んだ。
シオンが——ずっと抱えていたもの。
その正体が、今、明かされようとしている。
「しんどくても笑って誤魔化して、強いふりして」
シオンの声が、震える。
「うちのことクソガキって呼ぶところとか、前しか見んところとか、勝手なところとか」
「ぜんぶ……ぜんぶ、そっくりや」
セイラの顔から、表情が消えた。
「……シオン」
「やから——」
シオンが、セイラを見つめた。
その目には、怒りと、悲しみと、恐怖が混じっていた。
「やから、あんたが嫌いなんや!」
その言葉が、病室に響いた。
セイラが——拳を握りしめた。
「アタシは……おまえの親父じゃねえから」
「もういやなんや……」
シオンの声が、崩れていく。
「大事なひとが……目の前から突然消えるのが……」
涙が、頬を伝う。
「こわいねん……」
私は——胸が締め付けられた。
シオンは、ずっとこの恐怖を抱えていたんだ。
父を失った、あの日から。
目の前で倒れる人を見るたび、あの記憶が蘇る。
だから——セイラを見ていられない。
「だまれよ」
セイラの声が、低くなった。
「おまえの親じゃねえって言ってんだろ」
セイラが——ベッドから身を乗り出した。
「アタシはアタシだ! 同じ運命にはならない!」
その目が、燃えている。
「だから三日目も立つ!そして——ステージで死んだりしない!」
「もうええわ」
シオンが、顔を背けた。
「うちは行かへん」
その声は——冷たかった。
「勝手に倒れて、しねばいい」
そう言って——シオンは、病室を飛び出していった。
バタン、とドアが閉まる音。
遠ざかる足音。
そして——静寂。
セイラが、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見つめたまま、動かない。
「……」
私は——ようやく、口を開いた。
「ねえ、セイラ」
「……なんだよ」
「今のは、言い過ぎだよ」
セイラが、私を見た。
その目には——怒りがあった。
「……おまえまでアタシに説教か」
「そうじゃない」
私は、ポケットに手を入れた。
そして——控室のゴミ箱から拾ったものを、取り出した。
「私にも……嘘ついてるでしょ、セイラ」
セイラの目が——見開かれた。
ペンニードル型の注射器。
使用済みの、解熱消炎剤。
「それは……」
「これ、調べたんだよ」
私の声が、静かに響く。
「そしたら、単なる解熱剤じゃなかった」
「……」
「使用量を超えると、意識を失うか——最悪、死ぬって書いてあった」
セイラが——目を逸らした。
「……そっか。バレたんだ」
その声には、諦めがあった。
「黙ってて、ごめん……ほんとに」
私は、ベッドの横に座った。
「私はあなたの『選択』を責める気はないよ」
「……」
「でもね」
私は、セイラの手を握った。
「前にも言ったよね。一人で抱えるなって」
「あなたの重荷は、私が一緒に背負うって」
セイラの目が——揺れた。
「なんで信じてくれないの?」
私の声が、震えた。
「なんで……一人で背負っちゃうのよ」
セイラが——小さく、笑った。
でも、その笑顔は——どこか、泣いているようにも見えた。
「……わかってんだよ」
かすれた声。
「わかってんだけどさ……」
セイラが、天井を見上げた。
「止まらないんだよ」
その言葉が——胸に、突き刺さった。
止まらない。
止まれない。
ずっと走り続けてきた人間は、止まり方がわからないんだ。
長い沈黙。
「今夜と、明日は、病院で休んで」
私は、立ち上がった。
「でも、アタシも準備しなきゃ——」
声のトーンを落とし、セイラの言葉を遮った。
「これはお願いじゃない」
セイラを見下ろした。
「命令だよ」
私は出来うる限り、有無も言わせぬオーラを出した。
セイラが——目を見開いたまま震えている。
私がこんな言い方をしたのは、生まれて初めてだったかもしれない。
でも——今は、これしかない。
私は、帰り支度を始めた。
「……どこ行くの」
セイラの声が、小さくなった。
「一緒にいてくれないの……」
振り返ると——セイラの目が、泳いでいた。
不安そうに、こちらを見ている。
こんな気弱なセイラを見るのは、初めてだった。
「決勝までに、やることができたから」
私は、笑った。
できるだけ、いつも通りに。
「大人しくしてて」
そう言って——私は、病室を出た。
ドアを閉める瞬間、振り返らなかった。
振り返ったら——多分、立ち止まってしまうから。
◇
病室に、一人残されたセイラ。
白い天井を、見つめている。
点滴の雫が、静かに落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
シオンの言葉が、頭の中で響いている。
『あんたな、お父さんに似てんねん』
『だから、あんたが嫌いなんや』
そして——YUICAの言葉。
『なんで信じてくれないの?』
『なんで一人で背負っちゃうのよ』
セイラは——天井を見つめたまま、呟いた。
「……信じてるよ」
誰にも聞こえない声。
「信じてるから……迷惑かけたくないんだよ」
目から——一筋の涙が、こぼれた。
頬を伝って、枕に染み込んでいく。
「……また」
声が、震えた。
「また、ひとりになっちゃった」
水槽の光も、メダカたちも、ここにはいない。
ただ——白い天井と、点滴の音だけ。
セイラは、目を閉じた。
涙が、止まらなかった。
◇
私は、新宿の路地に立っていた。
見慣れた看板。
『スナック韻』
ラッパーとしての私が始まった場所。
MC-婆の魂を継いだ、聖地。
深呼吸して——ドアを開けた。
カウンターに、見慣れた顔が並んでいた。
伝説のラッパー、KEN 4 RAW。
死神、Misty。
言葉の魔術師、MC-CODAMA。
「ごめんね、呼び出しちゃって」
私が言うと、CODAMAが立ち上がった。
「初日一位おめでとう! 今日は祝勝会か?」
KENが、グラスを掲げる。
「俺たちは三日目のチケットしかもらってないから、正直ヒヤヒヤしてたよ」
ミスティが、静かに言った。
「決勝戦……応援するからね、YUICA」
相変わらず無表情だが、その目は微笑んでいるように見えた。
「でもすごいな、あのジェイクが認めるなんて」
KENが、感心したように言う。
「もう偽物って笑うやつはいないな」
CODAMAが頷く。
「婆も……きっと喜んでる」
ミスティの視線が、壁に向いた。
そこには——MC-婆のトロフィと、写真が飾られている。
「『あたいが選んだんだ、あたりまえだ』……って言ってそうだな」
KENが、少し笑った。
みんなの視線が、婆の写真に集まる。
少し、しんみりした空気。
でも——私には、時間がなかった。
「今日呼んだのは、お願いがあったからなんだ」
私の言葉に、三人が振り返った。
「どうした? まさか俺と付き合う気になったとか?」
CODAMAが茶化す。
私は、それを無視した。
横で、ミスティが少し吹き出しそうになっている。
「あのね」
私は、三人を見渡した。
「私と勝負してほしい」
空気が——変わった。
「勝負? フリースタイルで?」
KENが、眉をひそめる。
「もう君には修行なんて必要ないだろ」
「三人まとめて、かかってきてほしい」
沈黙。
そして——空気が、張り詰めた。
「なめてるの?」
ミスティの目が、鋭くなった。
「サシでもあんたに負ける気はないよ」
「おい、技術ならまだ俺の方が上だぞ」
CODAMAが、気色ばむ。
「……調子乗ってんのか?」
KENの声が、低くなった。
「誰だと思ってる」
三人の視線が、私に集中する。
伝説のラッパーたち。
日本のMCバトル界を築き上げた、本物の怪物たち。
でも——私は、引かなかった。
「私は、このあと二人分背負わないといけない」
私の声が、静かに響く。
「だから今のままじゃ足りないんだよ」
「……本気なのね」
ミスティが、呟いた。
私は、頷いた。
真っ直ぐに、三人を見つめた。
有無を言わせない——そういうオーラを、纏っているつもりだった。
ミスティが——小さく息を呑んだ。
冷や汗が、額に滲んでいる。
KENも、CODAMAも——同じだった。
「婆は……」
KENが、低く呟いた。
「とんでもないバケモンを育てたな」
CODAMAが、カウンターから立ち上がった。
「なあ、YUICA」
「……なに」
「リスクがない勝負なんて、意味がないと思わないか?」
その目が、真剣になっていた。
「そうだね。何か賭けようか」
「もしこっちが勝ったら——」
CODAMAが、一歩前に出た。
「俺と付き合え」
「……は?」
「俺の彼女になれ。いや——」
CODAMAが、真顔で言った。
「結婚してくれ」
沈黙。
ミスティが、呟いた。
「たしかに……それくらいの地獄じゃないと、本気出ないでしょ」
「……言い過ぎだろ、ミスティ」
CODAMAが、傷ついた顔をする。
でもKENは、ニヤリと笑った。
「CODAMAだけ得してるのは気に入らないが——たしかに興が乗るな」
「よし、いいよな、YUICA!」
CODAMAが、拳を握る。
「俺たちの未来をかけた勝負だ!」
私は——深く、息を吸った。
セイラが、病室で一人でいる。
シオンが、どこかで泣いている。
二人を——私が、背負う。
そのために——今の私を、超えなきゃいけない。
「いいよ」
私は、言った。
「死んでも負けない」
CODAMAが——一瞬、言葉を失った。
その目が、揺れている。
私の覚悟が——伝わったのかもしれない。
「……」
「じゃあ、始めようか」
KENが、マイクを手に取った。
スナック韻の奥にある、小さなステージ。
婆がずっと立っていた場所。
私は——婆のマイクを、握りしめた。
(つづく)
次回——「人智を超えた存在」




