38「想いを継ぐ者」
【新宿中央公園・午前8時】
ベンチに横になった私の耳に、話し声が聞こえてきた。
薄目を開けると、ガラの悪そうな男たちが数人、私の周りを囲んでいた。
「結構いい体してるな、あとで高く売れるぞ」
「このままさらっちまおうぜ」
一人の男が私の肩に手をかけた。
——やばい!
酔いはすでに覚めていた。すぐに身体を動かそうとする。
でも、動かない。
「おい、起きてるぞコイツ」
「とりまドラッグでもいれとくか?声出されたら面倒だ」
男が腰のポーチから何かを取り出す。
心臓が激しく打つ。喉が渇いて声が出ない。
昨夜から何も食べていない上に身体は冷え切って、まるで鉛のように重かった。
「ここで出すなよ、誰か来るかもしれねえだろうが」
「大丈夫だって、こんな朝早く誰も来ねえよ」
男の手が私の腕を掴む。
——動け!逃げなきゃ!
でも身体が言うことをきかない。
恐怖で指先すら動かせない。
「いったん、車に運ぶぞ」
男たちが私を抱え上げようとした、その時だった。
「おい、そこの蛆虫ども」
聞き慣れた声。
振り返ると、見覚えのある強面で筋骨隆々の男性。その隣にはゆいが立っていた。
——カズさん?
それはスナック韻の常連客のカズ。元レスラーで、常にタンクトップという威圧感のあるひとだ。
男どもは、その姿を見るや否や蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「チッ、つまんねー」
カズが舌打ちしながら呟く。
ゆいが駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、なにやってんのよ!」
「……なんでここがわかったの?」
するとゆいがスマホを見せた。
「これ婆さんのスマホ。さっき意識を取り戻したの」
「最近のワイヤレスフォンって、GPSで追跡できるんだよ」
画面には私の位置情報が表示されている。
そうか、婆さんから渡されてたイヤフォンが私を救ってくれたんだ。
「それより」
ゆいの表情が急に厳しくなった。
「ねえYUICA、いい加減にして」
——え?今私をYUICAって呼んだ?
ゆいの目に涙が浮かんでいる。でも怒りの方が強い。
「あの後。あたし一人で病院走り回って」
「お姉ちゃんの連絡先を医師に聞かれても答えられなくて」
「家族なのに連絡もつかないのか?って呆れられて」
声が震えている。
「婆さんが意識戻した時、最初に『YUICAは?』って聞いたの」
「『あの子に会いたい』って」
——婆さんが私を?
「それなのにお姉ちゃんは何?こんなところで一人で勝手に消えようとして」
「違う、私は——」
「違わない!」
ゆいが初めて、本気で怒鳴った。
「あたしが2年間、毎日毎日配信して」
「たった30人くらいの視聴者に『ありがとうございます』って頭下げて」
「それでも全然人気出なくて」
涙がポロポロ落ちている。
「お姉ちゃんが一回配信しただけで、一夜で人気者になって……」
「あたしには絶対できない罵倒で、いまや130万人のトップスター」
——やっぱり。ゆいは我慢してたんだ。
「そりゃ悔しかったよ?正直、めちゃくちゃ悔しかった」
「なんであたしじゃダメで、お姉ちゃんだったら……って」
私の胸が痛くなった。
「でも、お姉ちゃんの動画を見て理解したの」
「これはあたしには絶対に出せない。本物の輝きだって」
「だから決めたの。YUICAはお姉ちゃんのものだって」
「あたしのYUICAじゃなくて、お姉ちゃんのYUICAになってほしいって」
ゆいが一歩前に出る。
「でも今のお姉ちゃんはなんなの?」
「一人で勝手に傷ついて、YUICAを背負う覚悟も、130万人の期待を背負う覚悟もないの?」
「そんなことない……」
「……でも、もう自分が望むもののために、誰かを、何か失うのが怖いの!」
私の声が震えている。
「お父さんもお母さんも、私の誕生日のために無理して帰ろうとして……」
「婆さんも、私がMCバトルやるって言ったから無理して……」
「ゆいだって、無理してYUICAを私に……」
ゆいが静かに首を振った。
「お姉ちゃん、それ全部間違ってる」
「……なんで?」
「お姉ちゃんは、みんなの『選択』を否定してるんだよ」
ゆいの声が、いつになく真剣だった。
「お父さんとお母さんは、お姉ちゃんの誕生日を祝いたくて、帰ろうとして事故にあった」
「それは二人が危険よりも、愛を『選んだ』結果なんだよ?」
「でも……」
「婆さんだって、自分でお姉ちゃんを指導することを『選んだ』」
「あたしだって、お姉ちゃんにYUICAを託すことを『選んだ』」
ゆいが私の目を見つめる。
「それを全部『犠牲』って言うのは、その人たちが『選んだ』気持ちを踏みにじってるんだよ!」
私は言葉を失った。
「愛するって、何かを与えたくなることじゃない?」
ゆいの言葉が胸に響く。
「お姉ちゃんが何も望まなかったら、あたしたちの愛情はどこに行くの?」
「誰かが、YUICAのために何かしたいっていう気持ちは、どこに向ければいいの?」
「YUICAは偽物じゃないって、信じて待ってるブタどもの気持ちはどうなるの?」
「『選んだ』ことを『間違い』だって思わせることこそ、誰かを一番苦しめることになるんだよ」
——私は……
「お姉ちゃんは、自分のことを世界の中心だと思ってるの?」
「お姉ちゃんが動けば誰かが不幸になって、お姉ちゃんが止まれば誰も不幸にならないって?」
ゆいの言葉が、私の心の奥に届く。
本当にそういう思考に陥っていたから。
「それ違うから。みんな自分で考えて、自分で決めて、自分で行動してるの」
「お姉ちゃんはその中の一人でしかない」
「ゆい……」
「でも、あたしにとっては、世界で唯一の家族なの。かけがえのない一人なのよ……」
私の目から涙が溢れた。
「みんなYUICAが好きで、お姉ちゃんのために何かしたいと思ってる」
「それを『迷惑』だと、『不幸』だって思うなら——」
ゆいが少し笑った。
「それこそ、とんでもなく『傲慢』だよ」
——傲慢。
その言葉が胸に突き刺さる。
私は、隠れることでみんなを守っているつもりだった。
でもそれは、みんなの気持ちを無視していたんだ。
——そのとおりだ。
私の目から涙が溢れた。
「そうだね……私は、傲慢だった」
「でも、あたしはお姉ちゃんを信じてる」
「YUICAは……お姉ちゃんにしかできない!」
ゆいの目が真剣だった。
「だから最後に一回だけ聞く」
「YUICAとして生きる覚悟、ある?」
私は震える手で立ち上がった。
「わかった……病院に、行こう。婆さんに会わなきゃ」
【病院・午後/MC婆の病室】
酸素の音が、かすかに響く静かな部屋。
眠るように目を閉じている婆さんの、ベッドの横の椅子に座る私の耳に、小さな音が届いた。
「……おい、泣いてんじゃないよ……YUICA」
か細い声で、私は顔を上げた。
MC婆が目を開けて、私を見ていた。呼吸が浅く、苦しそうだ。
「ば……婆さん……!」
声が震える。言葉が出てこない。
「驚かせたな……」
婆が咳き込む。
「……まだ死んでねぇよ、あたいは」
にやっと笑おうとするが、すぐに息切れして表情が歪む。
それでも、いつもより少しだけ優しい気がした。
婆はゆっくりと上半身を起こそうとして、途中で苦しくなり手を止める。
自分でリクライニングのボタンを押すが、手が震えている。
「これ……」
息を整えてから、ベッド脇の引き出しを開ける。
「……あたいのマイクだ。持ってみな」
渡されたのは、黒と銀色のマイク。
どこかクラシックなフォルムなのに、手に取った瞬間、ズシリとした重みが伝わってくる。
銀色に見える部分は、手との摩擦で下地の金属が露出したものだった。
「こいつと……アメリカで、何度も……」
婆が痛そうにお腹を抑える。しかしすぐ気丈な表情になって窓の外を見つめる。
「……勝ち抜いた。最後まで……あたいの声を拾ってくれた相棒だ」
話すのも辛そうで、一文ごとに息を整えている。
「技術者に……調整してもらって……今でもバトルに対応できる」
婆の唇が、震えていた。
「……でもな」
目を閉じて、大きく息を吸う。
「日本じゃ……一度も使えなかった」
しばらく黙って呼吸を整えてから、静かに語り始めた。
「あたいが……アメリカから戻った時は……もう三十代後半だった」
「技術じゃ……誰にも負けない……自信はあった」
また咳き込む。
「でもな……怖かったんだよ」
「"オバサンがラップ?"……"女のくせに?"……そんな空気に……あたいは負けた」
「また逆戻りするんじゃないか……てな」
婆の声がかすれている。
「後悔してる……今でもずっと。もし……あのとき挑戦していたら……何か変えられたんじゃないかってな」
大きく息を吸って、続ける。
「でもこの様さ……何もできないまま……寿命が尽きようとしている」
「そんな……」
「だからかね……お前の話を聞いたとき……運命のようなものを感じたのさ」
婆が私の顔を見る。目に力を込めて。
「36歳……素人でバトルに挑戦しようとしている……無茶な女」
息が苦しくなり、一度止まる。
「しかもVtuberって仮面背負って……偽物と罵られても……勝負に出ようとしてやがる」
「お前は……あたいが諦めた未来を……拾おうとしてる」
婆の手が震えている。
「だったら……この婆の残った時間くらい……渡してやりてぇじゃんか」
「……」
「でも勘違いすんなよ……YUICA。あたいは……お前のために渡すんじゃねぇ」
「これは……あたいのわがままなんだ」
痛みに一瞬顔をしかめながら、続ける。
「お前に……この後悔を……背負わせようってんだからな」
「でも……それで婆さんの余命が」
「死ぬのは怖くない……でもな……後悔だけは残したくないんだよ」
「だから自分を責めるな……これはあたいのために『選んだ』ことだ」
婆が震える手でマイクを指す。
「YUICA……このマイクを……お前に託したい」
「あたいができなかった……その先の風景を……こいつに見せてやってくれないか」
私の手にある、黒と銀色のマイク。
婆さんがずっと握っていたからか、驚くほど手に馴染む。
でも、それだけじゃない。このマイクには、得体のしれない重みがある。
婆が生きてきた後悔ごと、夢ごと、全部が詰まってる。
……そんな重さだ。
——受け取りたい。
心の底からそう思う。
でも同時に、別の感情が湧き上がってくる。
——今の私で、いいのか?
マイクを握る手に力が入らない。
——こんなに実力があるのに、アメリカから戻って一度も日本で戦えなかった。
——その婆さんの想いを背負うには、今の私は……。
あまりに中途半端だ。
まだ何も成し遂げていない。
自分で自分に納得できていない。
——このまま受け取って、何ができる?
——また自分に負けるんじゃないか?
いや、違う。負けるのは構わない。
ただ、この気持ちから逃げたくない。
だからこそ——
私はそのマイクを婆のベッドに置いた。
「婆さん、ごめんなさい」
私は深く頭を下げた。
「これは、まだ……まだ受け取れません」
「え?」
ゆいが驚く。
「お姉ちゃん、何言ってるの?」
「私には、まだその覚悟がない」
婆の表情が少し寂しそうになる。
「そうか……さすがに重すぎるよな、YUICA……」
ゆいが心配そうに前に出る。
「お姉ちゃん、また逃げるの?」
「違う!」
私は顔を上げた。
「このマイクの重さが、わかるから……」
「いまの、中途半端な自分で受け取りたくないんだよ」
私は立ち上がった。
「もう逃げない。だからこそ、ちゃんとしたいんです」
深く息を吸う。
「私はまだ、婆さんに勝ててない」
「バースの途中で……倒れた時点で……あたいは負けたんだよ」
婆が息を整えながら言う。
「でもそれじゃ、私が納得できない」
「YUICA……」
「これは私のわがままです」
「私は36年間、自分の中に引きこもって現実を見ようとしてこなかった」
「流れに任せて、自分で選んでこなかったと思う」
婆が興味深そうに聞いている。
「だからせめて、自分で『選んで』……そのマイクを受け継ぎたいんです」
私はマイクを見つめる。
ゆいが心配そうに言う。
「お姉ちゃん……」
すると婆が息を整えながら、ベッドサイドから小さな鍵を取り出した。
「YUICA……これを持っていけ」
「これは?」
「スナック韻の鍵だ……今夜からお前が……店に立て」
咳き込みながら続ける。
「あたいの人脈に……声をかけとく。誰が……客で来るかわからない」
「え?つまり私がラップで接客するんですか……」
「ああ……カウンターと客席とで……1対8のフリースタイルバトルだ」
息を整える。
「中にはプロも……混ざるだろう。難易度は……模擬戦の比じゃないぞ」
「最終日には……KENが来る。そこであいつを……MCで納得させたら……お前の勝ちだ」
婆が私の目を見る。
「これが……本当に……最後の試練になる。覚悟は……あるよな」
私は鍵を受け取った。
「ありがとうございます、婆さん。……やってみせます」
病室を出る前に振り返る。
「必ず、戻ってきます」
夕日が廊下を照らしていた。
——これは、私が本物になるための、最後の仕上げだ。
(つづく)
次回——「鞠躬尽力、死して後已まん」




