SS-8「三分の一」
セイラからのDMは、いつも長い。
『なあYUICA。FAKE-3の新曲についてだけど、これまでの視聴者データを分析した結果面白いことが分かった。とはいえまだ仮説だ。それを検証する意味でおまえの意見を聞きたい。聞きたいといっても任せるって意味じゃない。そもそも、おまえのアイデアはいつも——』
こんな調子で、まず長文が来る。
返事しようとすると、また次が来る。
三行で済む話を三十行かけて、議題と思考と依頼と否定を全部盛りにして送ってくる。
こっちが丁寧に咀嚼しながら読んでると「既読したならすぐに返事しろ! おまえ今日は暇だろうが!」と理不尽にブチ切れる。
「なんで暇だって決めつけてるの?」と返事したら「おまえの動向は、常にゆいちゃんに確認してるから」と来た。おまえは鬼マネージャーか。
それが、この人の平常運転だった。
だから、その日の通知を見たとき、私は指を止めた。
『今日、うち来れるか?』
一行だった。
前置きも、講釈も、「おまえは」もない。
『何かあった?』
既読は、すぐについた。だが、返事は、来なかった。
麦茶を一杯飲み終わる頃、ようやく画面が光った。
『18時な』
——質問に、答えてない。
この人が、聞かれたことに答えないのを、私は初めて見た気がした。
答えたくないことすら、いつもは冗談でくるんで三行にする人なのに。
だから私は、それ以上聞かなかった。いや、聞けなかった。
時計を見たら、もうすぐ17時だ。
私は鞄を取って、すぐに家を出た。
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セイラの暮らす高級タワーマンションの最上階でエレベーターを降りる。
この階には、ドアがひとつしかない。つまり、セイラ専用のペントハウスだ。
セイラが許可しないと、エレベーターのフロアボタンすら反応しない、超プライベートスペース。どれだけ稼いでいたら、こんなマンションに住めるんだろうか。
エレベーターを出ると、部屋への入り口のドアが、開いていた。彼女にしては随分と不用心だ。だから、少し警戒しながら、ドアをくぐった。
「……セイラ?」
返事の代わりに、リビングの奥から水の音がした。
入って、私は立ち止まった。
床に、大きな白いバケツが五つ並んでいる。
どれも、水がなみなみと入っていた。
その横にホースと、棒みたいな温度計と、空のポリタンクが二つ。
——なんだ、これ。
引っ越し? 防災? それとも何かの企画の準備?
どれも違う気がした。
この人が何かを「企画」するときは、もっと事前に、自慢げに、事細かく説明があるはずだ。
バケツの水は、静かに澄んでいた。
その向こうに、セイラがいた。
水槽の前の床に、膝を抱えて座っていた。
部屋着で、すっぴんで、髪を適当にひとつに縛って。
私に気づいて、顔を上げた。
「……おう」
表情が、なかった。
「ありがとな。来てくれて」
——礼を、先に言った。
いつもなら「遅い」とか「アラフォーの足は重いな」とか、まず一発入れてくる人が。
「水換え、手伝えよ」
それだけ言って、水槽に向き直った。
なんで今日なのか。なんで私なのか。なんで水換えなのか。
説明したくてたまらないはずの人が、何ひとつ説明しない。
——何か、あったんだな。
私は、鞄を床に置いた。
聞かない。
この人が言わないと決めているうちは、聞いても出てこない。
だったら、手を動かすだけだ。
「……了解。何すればいい?」
セイラの肩が、ほんの少しだけ、ゆるんだ気がした。
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水槽は、リビングの奥の壁際にある。
低い水槽台の上に載った、横一メートルの、ごく普通のガラス水槽だった。
何度も見ている。でも、こうして作業のために近づくと、思ったより小さい。
この人の生活の中で、ここだけが「日本一」じゃなかった。
天井は、普通のマンションの倍はある。
その高い壁の、水槽のちょうど真上に、額装された大きな絵が飾ってあった。
赤い軍服。腰に手を当てて、銀河を見下ろす絶対者の顔。艦長姿のセイラだ。
五周年のときに事務所から贈られたものだと、前に聞いた。
その完璧な自分に見下ろされながら、本物のセイラは、この小さな水槽の前でメダカに餌をやりながら寂しそうに微笑んでいた。その姿を初めて見たとき、私はこの人のことをもっと知りたいと思った。理解したいと思った。
——自分と同じだと、思った。
広いリビング。高い天井。壁の絵。
そのぜんぶの中で、この一メートルだけが、この人の家だった。
セイラが、水槽の蓋を外した。
それから床に膝をついて、ホースの端を咥えた。
どうやらサイフォンで水を通そうとしてるようだった。
そして、おもむろに、むせていた。
「……っげほ。おい笑うな」
「笑ってない」
「心が笑ってんだよ」
まったく笑ってないのに、なんて理不尽な奴だ。
すると、ホースに水が流れ始める。
底に溜まった白いものが、吸われていく。
「そっち、動かすなよ。底を掻き回すと濁る」
「わ、わかった」
「水位、三分の一まで。それ以上は抜くな」
「了解」
指示は飛ぶ。でも、それだけだった。
いつもなら、ここで水槽の設計思想について三十分は語る。濾過がどうの、水流がどうの、この水草は誰々に似てるだの。そもそもなぜ底砂をこれにしたのか。など。
今日は、数字と手順だけ。
——この人は、答えたくないとき、正確な話をする。
水の音が、広い部屋に響いていた。
ふと、シオンの顔が浮かんだ。
——これ、あの子が見たら食いつくだろうな。
出不精だから、最初は絶対ブツクサ言う。「えー、今日は足痛い」「うち、夜行性やねん」とか。
でも確実に来る。
あの子の、知らない知識への好奇心は化け物だから、「水槽の水換えだ」と言えば絶対に来る。来たら来たで腕まくりして、サイフォンの原理を調べ始めて、帰り際に「別に楽しくなかったけど」と言う。
そこまで想像して、私は口を開きかけて——
やめた。
——この人が、それを思いつかないわけがない。
人の性格を読ませたら日本一の人だ。シオンの殻を破ったときだって、あの子が煽られると本音が出ることを計算して、わざわざ憎まれ役をやった人だ。
シオンが絶対に来ると、分かっている。
分かっていて、呼ばなかった。
つまり、これは——シオンに見せられないものなんだ。というより、見せたくない自分なんだろう。
私は、ホースを支える手に、少しだけ力を込めた。
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水位が下がったところで、セイラが小さな網を手に取った。
「掃除の間、こっちに移す」
バケツのひとつに、水槽の水を汲む。
そして、一匹ずつ、すくっていく。
「星羅」
ピンクがかった小さいの。
「月菜」
よく動く、青みがかったの。
「天音」
静かに泳ぐ、緑っぽいの。
「小春」
一番小さい、黄色いの。
網が、止まった。
「……よし。全員」
——四匹しかいない。
私は、水槽を見た。
水草が揺れている。石の影がある。
一番大きい、銀色のメダカの姿が、どこにもなかった。
「……セイラ」
「ん」
「銀河は」
セイラの手から、網が、バケツの縁にことりと置かれた。
長い沈黙があった。
ポンプの音だけが、していた。
「……死んだよ」
声は、平坦だった。
「先週の朝。起きたら、底に沈んでた」
セイラは、水槽を見たまま続けた。
「メダカの寿命なんて、二年か三年なんだよ。普通は」
「……」
「あの子は、銀河は、五年だ。五年も、生きてくれた」
その声に、少しだけ、誇るような響きが混じった。
「最初に迎えた子でさ。まだ銀河歌劇艦隊がアタシひとりだった頃だよ」
セイラの指が、水槽のガラスに触れる。
「餌のとき、いちばん先に来るんだよ、あの子。でかい図体で、ふよふよと。ちっさいのを押し退けてさ」
——来るんだよ。
私は、その言い方に気づいた。
セイラも、気づいた。
「……来た、んだよ」
言い直した声が、掠れた。
「たかが魚だって、分かってた。命も短いって」
肩が、震え始めていた。
「メダカだぞ。手のひらより小さい、ただの魚だ。なのに、なんで——」
言葉が、途切れた。
セイラが、うつむいた。
束ねた髪が、肩から落ちて、顔を隠した。
水槽の光に照らされて、その頬を、何かが伝って落ちるのが見えた。
——ああ。
この顔だ。
450万人が知らなかった顔。完璧な仮面を身につけた絶対者が、決して見せない顔。メンバーにも、モブ兵団にも、シオンにも、見せられない顔。
五年間、水槽のメダカたちにしか見せてこなかった顔を、今、この人は、私の前で晒している。
私は、何も言わなかった。
ただ、隣に膝をついて、その背中に手を当てた。
——いつか、婆の墓地で、この人が私にしてくれたことを、そのまま返すみたいに。
あの日、婆の墓の前で泣きじゃくる私を、セイラは何も言わずに抱きしめてくれた。
泣きたいだけ泣いていい、と言ってくれた。
だから、今度は私の番だ。
セイラの肩が、しばらく、小さく震え続けた。
水槽のポンプだけが、変わらない音を立てていた。
やがて。
「……ダッセぇよな」
鼻声が、言った。
「日本一が、魚一匹で泣いてんの」
セイラが、顔を上げないまま、バケツのメダカたちを指差した。
四匹のメダカは、何も言わず、ただふよふよと、水の中を動いていた。
「鳳凰院セイラなら、あいつなら、こんなことで泣かないはずなのに」
「……そうだね」
私は、セイラの頭に手を添える。
「でも、私はあの艦長より、こっちの方が好きだよ」
セイラが、顔を上げた。
目が真っ赤で、鼻も赤くて、絶対者の面影なんて、どこにもなかった。
「……こんな顔、シオンには見せらんねえだろ」
「うん」
「古谷君にも、四天王にも、見せられるわけないだろ」
「そうだね」
「見せたら、みんな心配する。艦長が壊れたって、限界だって、休ませろって大騒ぎになる」
「うん」
「でも、おまえは——」
セイラが、手の甲で乱暴に目元を拭った。
「おまえは、絶対に騒がねえから、何も聞かないから」
「うん」
私は、頷いた。
「いいんだよ、出して」
それだけ言った。
セイラは泣いた。どれくらいかわからない。少なくとも気づくと膝が痛くなっていた。特に感情も高ぶらず、かといって冷めてもいない。ただ、ひたすら、待てた。この性格が、生まれて初めて、役に立った気がした。
水槽の中の空白を、水草と二人の影だけが、静かに埋めていた。
しばらくして、セイラが立ち上がった。
「……続き、やるぞ」
声は、まだ少し鼻にかかっていたけれど、手つきはもう、いつもの正確さに戻っていた。
ポリタンクの水を、バケツに移す。温度計を差す。
「二十四度五分。……よし、合った」
新しい水を、水槽に注いでいく。
バケツを傾ける角度が、最初から最後まで、同じだった。
「三分の一だけな」
「なんで?」
セイラが言った。
「全部替えたら、この子たちまで死ぬ。水が綺麗になっても、慣れた水じゃなくなったら、死ぬんだよ」
「……そうなんだ」
私は、水槽の中を見ていた。
新しい水が、古い水に、ゆっくり混ざっていく。
——三分の一しか、替えない。
ということは。
残りの三分の二は、昨日までの水だ。
銀河が、泳いでいた水が、残りの子たちを生かしていくんだな。
私は、それを言わなかった。
四匹を、水槽に戻す。
少し戸惑ってから、いつもの場所に散っていった。
その中で、ピンクがかった一匹だけが、ガラスの内側に寄ってきた。
セイラの指が、そこにあったからだ。
何も変わっていないみたいに。
バケツは、二つ、手つかずのまま残っていた。
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道具を片付けて、手を洗って、ソファに並んで座った。
セイラが麦茶を持ってきた。目はもう、赤くなかった。
二人で、しばらく水槽を眺めた。
「……ありがとう」
私は、言った。
セイラが、グラスを持つ手を止めた。
「は? 手伝ったのはおまえだろ」
「そうじゃなくて」
私は、水槽を見たまま続けた。
「呼んでくれて。……私を頼ってくれて」
沈黙があった。
セイラは、グラスをテーブルに置いた。
「……それ、やめろ」
「なんで」
「礼を言われるとさ」
セイラが、水槽の方を向いた。
「……遠くなんだよ」
「……」
「借りた、返す、って話になる。返すためにはちゃんとしなきゃって、なる。そうやってまた——」
言葉を、途中で飲み込んだ。
「……おまえとは、そういうんじゃねえだろ」
私は、麦茶を一口飲んだ。
それから、言い直した。
「アンタ、バケツの数が雑」
「……はぁ?」
「五つも要らないでしょ。一人でできる作業に人を呼びつけて、段取りも悪い」
セイラが、二秒ほど固まって——
噴き出した。
「……はは。おまえ、ほんっと」
「何」
「最低の友達だな」
目元を拭いながら、笑っている。
今度の涙は、さっきのとは違うやつだった。
「……それでいい」
セイラは、そう言って麦茶を飲み干した。
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帰りぎわ、玄関で靴を履いていると、後ろに気配が立った。
ドアを開ける。廊下の空気が、少し冷たい。
振り返ると、セイラはまだそこに立っていた。
何も言わずに。
私は、手を振った。
「じゃあね」
「……おう」
ドアが、閉まる。
エレベーターを待ちながら、私は思っていた。
あの人は、あの部屋に帰るたび、水槽に「ただいま」と言う。
言う相手が、一匹減った。
でも、水は残っている。三分の二、ちゃんと残っている。
だから、三分の一ずつでいいんだ。
水も。
たぶん、悲しみも。
(了)




