セックス・アンド・ザ・スナック ~後編~
7月2日(金)
2000時/スナック
「ケンくん」
しっとりとした声色のアゲハさんは入室してきた男に歩み寄った。
枝垂れかかりながら頭を撫でられている様から察するに、恋人のようだ。
「あの女か」
「え? あ、うん。で、あの男の子が例の」
真っ黒なサングラスの奥で光る喧は俺へと向いた。
彼がこの店の主にして美人局の肝――、断罪人か。
「オレの女になにしてくれてんだ、ってのはベタ過ぎか」
ごつごつとヌバック製のブーツを鳴らすケンとやらの体躯は厳つい。
年の頃は三十といったところか。首や腕にはびっしりとタトゥーが入れられているあたり、アウトローなのだろう。
「座れガキ」
持ってきた椅子をテーブル越しの対面に置いたケンは腰を下ろし、煙草に火を点ける。
アゲハさんは甲斐甲斐しく灰皿を準備し、そのままケンの隣に座った。
「名は」
「椎名です」
「オレの店でオレの女となにしてやがった」
「おしゃべり、カラオケ、キス――」
バキンッッとガラスが砕けた。
放り投げられたグラスは俺の頬をかすめ、背面の壁に叩きつけられたのだ。
ミホさんやヨーコさんや月代はきゃあと悲鳴を上げ、俺から離れた。
「口に気をつけろ」
「自重します」
ニヤニヤしたミホさんとヨーコさんは聞いてもいないのに目の前の男の情報をくれる。
「アゲハの彼氏怖いよ~。県内にある半分のグループをまとめてるチームスのトップだから」
「ごめんねインポ童貞くん。まぁこれもベンキョーだから」
なるほど、そんじょそこらのチンピラではないわけか。
「ケンくん、やっぱりコイツちょっとおかしいからさ。それにあんまり……」
「あの~」
ふと、ケンの後方にある入口のドアが恐る恐る開いた。
「ケンさん、おれっちのこと忘れてないすかぁ?」
ケンと同じ編み込みドレッドに細身でメガネの男が顔を覗かせた。
「え、あの人誰?」
「ケンさんの知り合い?」
「ケンくん……?」
どうやらお嬢たちのシナリオに彼は載っていないらしい。
「ちっす。自分先週からケンさんのお付きやらせてもらってます、スケーターのカゲってもんで――」
「舎弟の鰤泥棒だ」
「も~ケンさん、本名は無しっすよぉ」
「鰤泥棒」
どう足掻いてもいじめを避けることができない名前じゃないか。
きっと彼は過酷な人生を送ってきたんだろ――⁉
「ッッ‼」
ゴキンッッと額に激痛が走り、世界は一瞬暗転した。
ズキズキとした鈍痛とチカチカと瞬く視界から察するに、思わず吹き出したことで下がった頭をケンに掴まれ、テーブルに叩きつけられたようだ。
「なにか面白いことでもあったかよ」
ぐいと持ち上げられた鼻先にはケンの顔がある。近い。
「変わった名前だなと思いまして」
正直に答えるとケンの眉間にしわが寄った。てか近い。
「どこにでもある普通の名前がウケるってか、確かにおかしな奴だ」
いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや。
「ケンくん、やり過ぎはダメ。というか、どうして鰤泥棒さんをここに?」
アゲハさんマジでやめてくれ。また机に叩きつけられる。
「女紹介してほしいんだと」
「初めましてアゲハ姐さん。いやぁ~噂には聞いてましたけどマジ美人っすね。そしてお友達もめちゃカワ」
鰤泥棒改めカゲとやらは笑みを全開にお嬢たちへ接触した。
しかしお嬢たちはウェルカムモードではなく、明らかに逆の感情を表している。
「ケンくん、他の男は連れてこないでって言ったじゃん」
「オレに命令するんじゃねえ」
ケンの威圧にアゲハさんは二の句を飲んだ。
実態は不明だが、やはり色々と想定外なことが起こっているらしい。
「おわっ! めっちゃカワイー!」
「ひッッ」
ひと際ハイテンションな賞賛の声。向けられた先は……先ほどから隅で小さくなっているこの場を作った張本人、月代。
「ねね、今度スケボーのイベントあっから来てよ。ゲストに名前入れとくからさ」
「ぁ、ぃ、ぃぇ、大丈夫、です」
ナンパされている月代はたじろぎながらヨーコさんの背に隠れた。――どこかで見た顔だ。
「ちょっとやめてよ。この子高校生なんだから」
「マジ⁉ JK⁉ うわクソ熱いわぁ~! 来てよかった! ID交換しよーぜ! ドライブ行こうよ!」
「近寄んなっての! ちょっとケンさんコイツ追い出して――」
「きゃんきゃんうるせえ」
重く響くケンの一声に場は鎮まる。
「騒ぐな。たとえ舎弟だろうが女だろうがガキだろうが歯抜けにすんぞ」
全員が口をつぐんで無言の満場一致を示した。この重圧を跳ね除けられる者などいない。
「話を戻すぞガキ。オレの女に手を出したけじめをお前はどうつける」
発言を求める意を込めて手を挙げたところ、お前は好きに話していいとケンは許可をくれた。
「被害者である当のアゲハさんの要求に従います」
この発言に対し、場の視線は俺に集まる。
「……てめえが加害者だって認めんのかよ」
「当事者であるアゲハさんがそう言うならそうでしょう。少なくとも俺や第三者が決められることじゃない」
「はっ、美人局で非を認める奴なんざ初めて見たぜ」
弁解を聞く気も許容する気もない者になにを言っても時間の無駄だろうに。
脳内でツッコんでいるとケンはアゲハさんの頬に手を添えた。
「小僧はお前の言い分に従うそうだ」
「う、うん」
「その権利……全部オレによこせ」
ごくりと唾を飲み込み、アゲハさんは恐る恐る移譲した……俺の生殺与奪権を。
「無駄話しない主義なら俺も倣うぜ。要求は金だ。てめえの親はなにをしてる」
「10年ほど前、両親共に他界しています」
場の静寂に違う色が混ざる。
「今日び親無しだ? ふかしこいてんじゃねえぞ」
「戸籍謄本の写しをpdfで所有していますので後ほどお見せできます」
「……引き取り手は」
「親族はいません。一人暮らしです」
「学費どうしてんだ。生活は」
「学費は生命保険で下りたお金から。生活はバイトで日銭を稼いで賄っています」
「生命保険とはまた太えじゃねえか。なら手始めに百万持ってこい」
「俺は未成年者なので、全ての保険金は裁判所から選任された管財人が管理しています。学費や光熱費、土地建物の固定資産税といった諸々の費用や税金等は自動的にそちらから支払われており、俺の意思で動かせるものではありません。これも書類の写しがありますので後ほどご確認ください」
「……ならてめえ個人の銀行口座には今幾ら入ってんだ」
「300万くらいです」
「ならそれを――」
「重ねて言いますが自分は未成年者です。税金が絡むかもしれない大きな金額を動かす際は管財人の承諾を得なければなりません。使用目的を明確にした書類を会計士と共同で作成し、管財人にそれらを提出し、発行された承諾書を銀行へ提出し、後ほど領収書と照らし合せて正式な――」
「なめてんのかてめえ‼」
思い切り鼻面を殴られ、背面の壁に叩きつけられてしまう。
当てが外れたからと言ってや八つ当たりはやめてほしい。
「ひッ、ひッッ」
鼻血を流す俺を月代が怯えた表情で震えながら見つめている。
こんなことになるとは思わなかった、そんな顔だな。どこまでも人を馬鹿にしている。
「要するに金を引っ張れる合法的な理由があればいいんだろうが。カゲ、てめえこのガキと飲み勝負しろ」
「おれっちがこのガキと? 酒でですか?」
なにやらわけのわからないことが始まりそうだぞ。
「いいかガキ。もしてめえが負けた場合、この店から正式に今日の酒代の全てを請求する。内訳や勘定科目はいじらせてやるから死ぬ気で管財人とやらに認めさせやがれ。そしてもしてめえが勝てば無償で解放してやる。女どもがここで撮った写真や動画も綺麗さっぱり消してやるぜ」
無傷でここを切り抜けられるかもしれない可能性(100%反故にされる)を餌に、改めて未成年飲酒の弱みを獲得して逃げ道を潰す算段か。
事を公にしたくない俺からすれば参加しようとせぬまいと、勝とうと負けようと、どう転んでも管財人へ出金理由をでっちあげて申請を通さなければならなくなる。実に手慣れているな。
「ちょ、ちょっとケンくん! 相手は未成年だよ!」
「いいじゃんアゲハ、わたしもこのクソ陰キャ潰したい。見てるだけでムカついてくる」
「なんでこんな状況で淡々としてんのコイツ。カゲさんがんばって~♡ ソッコーぶっ潰して飲み行きましょ~♡」
「おれっちに春が来たっしょこれぇぇぇ!」
「ぁ、ぁ、ぁ」
えらいことになったって顔してるが、それは俺のセリフだ月代。
「二人とも座れ。まずはクエルボをロングショットで連続五本だ」
「え"」
カゲが凍りついた。初っ端のハードルとしては高いらしい。
「うっわ鬼畜」
「バケツの準備しとこっか」
「……由美、あんたは帰んな。これ以上此処にいたらまずい」
「ざけんな」
震える月代の肩を抱いたアゲハさんの提案をケンは静かに却下した。
「場を開いたのはその女だ。けじめはそいつにもつけてもらう。この後いつものクラブでパーティーだから連れて来い。女が足りねえんだ」
「な!? ダメだよケンくんこの子は――ぐ、ゔッ」
「騒ぐなと言ったぜ」
アゲハさんが放とうとした必死の抗議もケンの手によって物理的に塞がれた。
首を掴まれて苦しそうなアゲハさんを解放してほしいとミホさんとヨーコさんはケンへと懇願し、その隙にカゲは月代に近づいて粉をぶっかけている。
当の月代はあぅあぅ言うだけで、連れ去られてやってきた猫のように縮こまっている。
ケンの支配からは誰も逃げられない。
「並べろ」
咳き込むアゲハさんと共に脇へ移動したケンの命令により、ミホさんとヨーコさんは10本の長細いグラスをテーブルに並べた。
俺の対面に座ったカゲも頬を叩き、気合いを入れている。
「行け」
「うっっす!」
「いただきます」
カゲはスピーディーにロングショットグラスを一本一本飲み干していく。
俺も遅れることなくそれに続き、立て続けに五本のグラスを空にした。
人生初のお酒……マズっ。
◇
2030時/スナック
「ひいまへんレンふぁん、も、ムリっっぇげろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろ」
開始から約15分、カゲは潰れた。
絶え間なく続くテキーララッシュによる責め苦は彼を吐瀉物の海に埋没させた。
「コイツなんなの……」
「なんでケロっとしてんの。マジ気持ち悪いッ」
なんかめちゃ引かれてる。
「根性無しが」
ケンはバケツを抱えて蹲るカゲの腹を思い切り蹴った。
更にドボドボ吐いている。下手すれば窒息死するぞ危ないな。
「ちっ、時間か。しゃあねえ、一旦ここまでだ」
後の予定を優先したこの言葉に場の空気は緩和した。
特に月代は涙目になっているから殊の外安心しているようだ
しかし目の前の男はそんなに甘くない。
「女どもは全員俺と来い。今日の支出はとりあえずてめえらのガラで支払え」
上げて落された女性陣の驚愕と恐怖は、彼女であるアゲハさんすらも束縛に捕らえた。
腐っても経営者、支出はその日の内にきっちり補填する。空けた酒代は数十万円ぶんにも匹敵する以上、彼女たちは異を唱え難い。人を陥れ慣れているな。
「嫌よ嫌よも正気の内、一発キメれば全部吹っ飛ぶ。それか今すぐ百万持ってくるかだ」
「そ、そんなッ、話が違うじゃないですかケンさん! なんでわたし達が⁉」
「い、嫌ッ、あんなイカれたパーティー、行きたくない‼」
「させないからねケンくん! 絶対させない‼」
アゲハさんを筆頭にして殺到する抗議を、抵抗を、懇願を、暴圧によって踏み躙るケンには一切の情も手抜かりもない。
「今から人と車を呼ぶ。男の寄りつかねえツラにされたくなきゃ黙ってついてこい。ガキ、てめえはここで待て。たとえ日を跨ごうと、土日を過ぎようとも帰れると思うな」
ケンは月代を、お嬢たちを、そして俺を喰い物にしようとしている。
しかしそんなことはどうだっていい。心の底からどうでもいい。
ただ困るのは、とても困るのは、非常に困るのは……土日を跨ぐってことだ。
それだけはなにがあっても絶対に避けねばならない。許容できない。
何故なら日曜は、日向との初タンデムがあるのだから。
俺の彼女はとても、とっても楽しみにしているのだから。
それを邪魔するというのなら、ケンよ。
俺はお前を――、潰す。
「座れ木偶の坊」
ピシリッッ、とゆるんだ空気はまたも締まる。しかも……今日イチの剣呑で。
「……なに言ったコラ」
おお、こめかみの血管がみるみる浮き出てくる。怖い怖い。
「座れって言ったんだ。女や子分に威張り散らすしか能のないトーテムポール」
ミシミシミシと空気が、空間が、ケンの拳が犇めいていく。
片や女性陣の顔面は輪をかけて蒼白になっている。
「アゲハさん、ミホさん、ヨーコさん、あるだけの強い酒バケツに入れて持ってきてください。二つ」
「……持ってこい」
「「「は、はひっ」」」
三人は言われるままバタバタとカウンター奥へと入っていった。
「脅しじゃねえ……殺す」
どかりと俺の正面に腰を下ろしたケンから放たれるプレッシャーはえげつない。
まさか本気で殺人上等なのかこの人。気合い入ってるな。
「あ、あの、持って、きた、けど」
テーブルの上に濁った酒が満杯に入れられたバケツが二つ、乗せられた。
空になった瓶から察するに、テキーラ、ラム酒、ウイスキー、泡盛、焼酎、ブランデー、なんでもござれだ。
「し、死ぬっ、椎名くん、死んじゃうっ」
「さっきあんだけテキーラ空けといて、ムリだってッ! 謝んなよアンタ!」
「ねぇやばいって! 絶対やばいって! あーしらもう行こうよッ!」
「サダオッ、サダオッッ」
月代、俺はサダオじゃない。
「合図で一気だ。口離したり零したり飲み込むのを止めたりしたら――」
「予防線はいいからさっさとしろシラフ中年」
「行けェ‼」
両者同時にバケツをガッと掴み、ぐいと煽り、ごぼごぼと体内へ流し込んでいく――。
一滴も零してなるものか。
言い訳などさせてたまるか。
文句などつけさせるものか。
相手より先に飲み干してやる。
倒れ伏せる相手を見下ろしてやる。
この空間の全てをねじ伏せてやる。
そんな想いを俺とケンは共有した。
――ろうそくの灯が揺れる。
ここはケンの国。
ケンが支配する世界。
全てを決められるケンこそが法であり神。
なんのチカラも持たない脆弱な俺、そんな俺を取り巻く今現在の環境において、暴力も権力も人力も有する絶対君主を確実に倒せる手段とはなにか。
一切の力量差も強弱も無効化でき、圧倒的に開いた兵力差をものともせず、暴虐の支配者を一瞬で屠れる手段とはなにか。
その答えはひとつ。為すべきはひとつ。
伝統という実績に裏打ちされた盛者必殺の理――、"毒殺"だ。
「ぶはぁ」「ぉああ」
俺とケンは同時に酒を飲み切った。ゴングみたくガランとバケツが哭く。
「ッッぁあ、ぜェぜェぜェぜェぜェぜェぜェ」
サングラスを外して息を切らすケンは明らかに酩酊している。
その目つきは据わり倒していて俺への敵意も残っているが、意識の混濁具合は著しい。
「はぁ、はぁ、アゲハさん」
同じく息を切らす俺は転がった二つのバケツを拾い、重ね、アゲハさんへ突き出す。
「もう一杯」
ケンは目を剥いて驚愕。月代は腰を抜かして座り込んだ。
「て、てめえぇぇッ」
「先に飲んでた俺がおかわりと言ってるんだ。あんたに断る権利はない。アゲハさん、ミホさん、ヨーコさん、早く」
「ででで、でも、もうこれ以上はッ」
「いいから黙って言うことだけ聞いてろよクソ豚」
突然の乱暴な物言いにお嬢たちは息を止めた。
「男のチカラにしゃぶりつかないと後輩のケツひとつまともに拭けない。そんなマンカスにはそれくらいの芸しかできないだろ」
この言葉に返る意は……ない。あるわけがない。
「ぐ、ゔ、ゔッ」
二杯目のバケツカクテルを目の前にしてケンは震えている。先ほどまでの威圧もどこ吹く風だ。
「ぐくッ、ここ、こ、マジで、死ぬぞてめえッ」
毒々しい酒の水面にケンは映している。俺の死を、そして……己の死を。
「行け」
「おあああああああああああああああああああああああ‼」
ケンの先払いされた断末魔を合図に、両者は再びバケツを煽る。
またもごきゅごきゅと音を立てて飲み込まれていく猛毒は――、
「むぐぐぐぐぐぐぐっっっっっっっ」
空になる前にケンの意識をぶち切った。
「えれれれれォ」
大量に残った酒をばしゃあと零しながらケンは昏倒。
もはや返事のないしかばねも同然だが、最後の詰めは必要だ。
「んぐんぐんぐんぐ、っっはぁ、はぁはぁはぁ……ケンさん」
二杯目を飲み干した俺はバケツを片手に倒れ伏せるケンの顔面をバシバシと叩き、無理やり覚醒させる。
「ぁ……ぁ……」
「ごちそうさまでした。ハタチになったらまた誘ってください」
眼球がぐるんと裏返って再び意識を消失させたケンを確認後、出入り口脇に置いておいた鞄のサイドポケットから携帯用バッテリーと繋がったもう一台のスマホを取り出す。
「今までのアレコレは俺も録画していました。未成年者への軟禁・淫行・暴行・恐喝・飲酒の強要、あなた方の人生が丸ごとひっくり返るフルコースです」
月代に連行される途中で準備できたカメラは入室時点で設置できていた。荷物のチェックをしなかったのは彼女らの大きなミスと言える。
つまりお嬢たちがずっと俺に対して行なっていた、スマホや録音機器の没収を目的としたセクシャルなボディチェックは全て無駄だったということだ。
「クラウドストレージにリアルタイムでデータは送信されているので、スマホを壊したり奪ったりしても無駄です。定時に自宅のPCを触らないと自動的に警察の通報用サイトにデータが送られるよう設定しているので、監禁も無駄です」
女性陣の声は聴こえない。まばたきすらも止めている。
「俺もノーダメージでは済みませんが、あなた方より遥かにマシです。なにしろこちとら――、"未成年の被害者"ですから」
言っといてなんだが、完全に悪人のセリフだな。
「お互い事を荒立てず、今日という日を忘れ、いつもの日常を過ごすことをお勧めします。ケンさんにも言っといてください。あと急性アルコール中毒っぽいんで救急車は呼んでおいた方がいいと思います。スリ取ったスマホ返してください」
鞄を背負い、お嬢たちの前に立って手を差し出す。
茫然としながらミホさんは俺のスマホをゆっくりとした動きで返却した。
「ありがとうございます。では、月代は俺が連れて帰ります」
眼下にて腰を抜かして座り込んでいる月代に手を伸ばす。
俺にとっては当たり前のことであるが、彼女らにとっては違うようだ。
「な、なんで、由美を、キミが」
「救急隊員や医師からも経緯は聞かれます。馬鹿正直に話す必要はないですが、今日行われたのは単純に飲み会でその場に未成年者などいなかったと徹底しておかないと、双方にとって都合が――」
「じゃなくて! 言ってみればキミは由美に嵌められたんだよ⁉ その結果殺されかけたんだよ⁉ なんでそんな由美を保護するような真似すんの⁉ アンタ感情おかしいよ!」
ほっといてくれ。
「ア、アンタはッ」
震える声色で一生懸命俺に語りかけるは半べその月代。いつもの威勢は欠片もない。
「どうして、どうしていつも、あたしをっっ」
何度も言っただろうに。徹頭徹尾、月代の思惑など俺にはなんの関係もないんだ。
いくら迷惑をかけられようと、いくら罠に嵌められようと、俺はどうこうならない。
なにも変わらない。なにも損なわれない。なにも得られない。なにも動かない。だから無意味だ。
何故なら俺には、絶対に成し遂げねばならないことがあるのだから。
「どうしてっっ!?」
とはいえ、月代の疑問も至極当然だ。
今後も同じようなことがあるのであれば破滅しておいてくれた方がいいに決まってる。
しかし。しかしだ。
少し前ならよかったのだが、今の俺にとって月代の破滅は喜ばしくないものになってしまった。
何故なら月代が破滅すれば――、
「月代になにかあれば――、日向が悲しむ」
想い起されるのは、俺と日向の初デート、その締めくくりの一席。
ビュッフェレストランで日向が語った月代への友愛は本物だと感じた。
日向は月代を大切にしている。親友だと言って憚らない。
こんなにも性格の悪い人間をどうして、などとは思わない。
月代の不幸は日向の不幸、それがわかるから、それでいいんだ。
「行こう」
座り込む月代の細い腕を掴み、引っ張り起こす。
月代からの抵抗は――、
「……はい」
なかった。