スニーク
山を登る。
手に握られているのは、いつものあの廃校舎で借り受けて使っていたタックル(釣り道具のこと。ここでは竿とリール)ではない。
自分自身が使い慣れた、トラウトを釣ったりするのに使う細くしなやかなロッド(竿)だ。
二度目という事もあり、今回は自分で、自身のタックルを持って登る。
スーさんは片手に山刀を手に、時折、枝を払い、草を刈っては進んで行く。
彼女の背には水と食料の入ったザック。
そのザックを、スーさんの後ろ姿を見つつも、後を付いていく。
私の背のザックにはごくごく僅かなルアーの入ったタックルボックスだけだ。
季節はそろそろ春の気配が感じられる頃。
再び第3ビオトープの、あのボウズ(釣果0のこと)で終わった湖を目指して山道を歩く。
いくらか気候が緩んできたとはいえ、まだまだ朝の山中では、吐く息は白い。
そういえば、この辺りで霧に見舞われたんだっけ。
そう思うと、やはり今回も、山肌を舐めるように真っ白な霧が降りてきた。
ホワイトアウトする視界。
一面の白。
スーさんが制止するまでもなく、足を止めた。
そう、この霧はすぐにいなくなる。
何も心配はいらない。
そう考えていると、脇を何かが通り抜ける気配がした。
ひどく生あたたかいそれは、まるで吐息のようで。
思わず振り返りかけて、肩を誰かに掴まれた。
心臓を直接掴まれたかのように、驚きにバランスを崩す。
そんな私を肩を掴んだ誰かが支えた。
視界はゼロのまま。
それでも、私を抱えるように支えた誰かはすぐにスーさんであると、支えられて分かった。
変に動こうとして、また足を滑らせたりしたらたまらない。
スーさんには悪いけれども、身を預けるようにして、霧が晴れるのを待った。
支えられて改めて思う。
たくましく思えても、その手はやっぱり女性のそれで、決して大きくはない。
そう、その腕は細いと言える範疇だった。
しかしながら、か細い訳では無い。
まるで芯の通った鋼のような揺るぎなさが感じられる。
それが昔映画で見た、未来からやってきた人間そっくりの殺人ロボットを連想させた。
埒もない考えに、思わず笑いそうになってしまう。
口元が緩みそうになったその時、霧が薄くなりはじめている事に気が付いた。
女性に抱えられてニヤニヤしていたら、変態の烙印を押されかねない。
あわてて口元を引き締める。
薄くなった霧からぼんやりとスーさんの表情が見えてきた。
その表情を見て、ニヤニヤしていなくて良かったと改めて思う。
スーさんの口元はいつもの通り。
不機嫌そうにも見えるへの字の口だった。
「すみません。ありがとう」
特に何かを口にするでも無く、スーさんは霧が晴れると、そのまますっと離れ、また歩き出した。
そして数歩進んで、振り返る。
本当にこの人はアンドロイドか何かなのではないだろうか?
足を止め、真剣に疑い始めた私の事などまるで頓着しないように、彼女は首をぐいっと山の向こうへと向ける。
さっさと行くぞ。
ちんたらするな。
その目はそう言っているようで、青春時代の男女ならドキドキイベントものの今あったことも既に忘却の彼方と言わんばかりだ。
思わず天を仰ぎ、木々の隙間から見える青空が僅かである事を嘆くように息を吐いた。
視線を下ろし、目を閉じ、頷く。
「はい。今行きます」
そうだ。
私たちはこれから釣りに行くのだ。
神聖な儀式に挑むように、気持ちを落ち着けなくてはならない。
見れば既にスーさんは歩き出している。
「さて、今日は釣れますかね?」
しっかりとした足取りで山道を進んで行くスーさんに遅れまいと、足下をしっかりと確認しながら、私もその後を進んだ。
◇
「スーさん」
木々の間からあの湖が、正確にはまるでトンネルのように切り開かれた葦の切れ間から桟橋が覗いた瞬間、スーさんに声を掛けた。
私の声に反応して、スーさんは立ち止まり、振り向く。
私はその場で腰を下ろす。
スーさんにも手振りで同じく腰を下ろすように伝えた。
周囲に何か危険が迫っていると勘違いしたのか、姿勢を低くして辺りを彼女は見回す。
そうではないんだけどな。
しかし、それを言葉以外で伝えるのは難しいので、微笑みながら私は私の準備を始めた。
実際、私が知らないだけで熊などはともかく、イノシシくらいはいるかもしれない。
警戒してもらっておいて困る事はないだろう。
ガイド(竿についている、糸を通すための輪っか)に糸を通し、そのまま糸の先をリールの辺りまで延ばす。
今回の竿についているのはスピニングリールだ。
今までこの釣り堀で使っていたベイトリールは竿の上側に付けていたけれども、このスピニングリールは竿の下側についている。
このリールの利点は軽いルアーを投げやすいということ。
竿と平行についた筒のようなシルエットのそれに巻いてある糸は目を凝らさなくては見えにくい程に細い。
それは極力、魚に違和感を与えないため。
糸が太ければ魚にも見える事もあるし、水面にあればごくごく微妙な波紋も起こす。
それが魚のストレスになる。
あの魚のように警戒心が強い魚であればなおさらに。
背中のザックを下ろし、手の平を広げた程の決して大きくはないタックルボックスを開く。中に入っているのは前回は持って来なかったルアーたち。
一見すればただの金属片に針を付けただけのような、到底、魚のエサには見えないようなスプーン。
一説には、湖畔で食事中に落としたスプーンに魚が食い付いた事から生まれたと言われているルアーは、まんま食器のスプーンの先の丸い部分に穴をあけて針を通しただけの飾りか何かのような物だ。
針金に弾頭にも似た重りを通し、そしてそこにスプーンと同じような木の葉型の金属片と針を取り付けたルアー、スピナー。
水中で引けばその金属片、ブレードが回り、その煌めきと水中に伝わる振動が魚を誘う、スピナーベイトと同じような働きを持つルアー。
どちらもトラウトやイワナのような、上流域の綺麗な水域に棲んでいる魚に対して効果が高いと言われているルアーだ。
その中から、ひとつを選びつまみ出す。
糸の先に結びつけたそれは、かつて叔父からもらったスプーン。
親指ほどの金色の金属片の表側には薄い緑色のグラデーション。
幾度となく岩にぶつけたそれには、よく見るといくつもの傷や小さなへこみがある。
針は既に錆びだらけになっていたので、来る前に新しいものに付け替えた。
特にアドバイスされて選んだ訳では無い。
ちらりとスーさんを見れば、未だ辺りを見回している。
思えば前回の時もスーさんはどこか私の事よりも、周囲の事を気にしていたような?
「スーさん」
待っててください。
そう言うように、手振りで示し、私自身はそろそろとあの桟橋に向かって進み始める。
ゆっくりと。
地面をはうような慎重さで。
思い出していた。
影と振動。
このふたつに気をつけなくてはならない。
そのどちらも決して水中には届かせてはならないと。
魚は消えていなくなったりはしない。
いるべき所に必ずいるのだ。
もしもいないとするのならば、それはお前が脅かして逃げてしまったから。
忘れてしまっていた。
久しく山の魚を狙う事はなかった。
人の生活圏に近い魚たちはどこか人の存在に鈍感な所がある。
鳩や雀、カラスが逃げるにしても、かなり接近してから逃げるように。
山に生きる生き物たちは違う。
その事を忘れていた。
僅かな気配でも、彼らは逃げる。
自分たちを脅かす可能性のある存在に彼らは敏感なのだ。
あの桟橋を見て、私はどこか管理釣り場(釣り堀のこと)のように気楽に釣れるだろうと楽観していた。
そう、なにしろ私が通っているのは名目上は釣り堀だったのだから。
周囲を見回せば、そこにあるのは山だ。
ここまで通ってきたのはまさしく獣道。
人の手になる造形はあの桟橋くらいで他には何も無い。
釣り堀と言えども、ここは自然そのままと変わりない。
そんな環境で育った魚を、餌付けされて育ったような管理釣り場の魚と同じように考えていては、それは釣れないだろう。
わずかに進んでは、止まり、間を置き、再びそろそろと進み出す。
未だ桟橋は遠い。
焦るな。
足をゆっくりと下ろす。
振動は地中を伝わって水中へと届く。
それを極力消す。
100投して1匹釣るのと、1投して1匹釣るのにどんな違いがある?
足早に向かえば、投げられる数は増える。
下手な鉄砲撃ちも数撃てば当たるかもしれない。
でもそれは獲物がいてこそだ。
魚の警戒心を呼び起こしては意味が無い。
あの湖で一番のポイントはどこだ?
それは間違い無くあの桟橋に他ならない。
なればこそ、あそこに魚がいるのだと考えなくてはならない。
いや、いる。
前回も、湖に入る時に、真っ先に桟橋はルアーを通した。
しかし、それは近すぎた。
もっと慎重に距離を測り、その限界よりも手前から投げなくてはならなかった。
一度逃げた魚は戻って来ない。
そしてそんな水中の異常が湖全体に伝われば釣れる魚はいなくなる。
それくらいに神経をとがらせて。
敏感に。
鋭敏に。
距離があり、葦がまるで門のように茂るその合間から覗く桟橋へと向けて、私は竿を振り、ルアーを放った。
ミスキャスト(狙った所とは別の所に投げてしまう事)をすれば終わり。
ルアーは針が剥き出しで、桟橋に引っかかれば、当然回収のためには近づかなければならなくなる。
そうなればおしまいだった。
しかし、集中して投げた一投は狙いを外さずに、桟橋の少し先へと緩やかな放物線を描いて着水した。
良し。
良し。
良し!
水中へと沈んだスプーンから伸びる糸は、そのままスプーンが通るコースになる。
それは見事に桟橋のすぐ脇で、絶好のコースだった。
僅かな間を置いてリールのハンドルを巻く。
ゆっくりと、じっくりと魚にアピールするように。
きらきらと光を反射し、細かく揺れるスプーンは今いる位置からは見えない。
それでも竿に伝わってくる振動で、スプーンがきっちりとアクション(魚にアピールする動きを)しているのは分かる。
息を吸うのも忘れたように、糸を巻き。
そして私は息を吐いた。
来なかった。
葦際まで寄せて、引っかからないようにそこで巻くのを止めた。
いなかったか。
気を落とさず、そして気を荒立てず。
一投目で駄目なら二投目を。
そのために、慎重に。
また投げるためには、手元にスプーンを手繰り寄せないといけない。
そのためには近づく必要がある。
ここからでは葦と桟橋の間に引っかかってしまう。
そろそろと気配を消すように、姿勢を低くして桟橋へと近づいた。
桟橋の近くまで寄り、葦の影に身を隠すようにして止まる。
そこから竿を延ばしてスプーンは無事に回収した。
僅かに覗き込んだ先に見えるのは、まるで鏡のように静まり返った湖面。
空を写し、真っ青なそこには雲ひとつ浮かんでいない。
葦と同化するように、ただその鏡面世界を見つめた。
そしてただ待った。
その瞬間はあまり長くは待たずに訪れる。
静まり返った湖面に水しぶき。
それと同時に翡翠の輝きが日の光を受けて煌めく。
それを見て、私はただ静かに竿を振った。
それは弓を絞るように。
それは矢を射るように。
スプーンは僅かな煌めきを残して飛び去る。
翡翠が跳ねたその場所へ。
スプーンは跳ねた場所の僅か先へと着水する。
時を置かずにハンドルを回し、糸を引く。
水面近くのスプーンは日の光を受けて、さらに強く輝いているはずだ。
巻くスピードはさっきよりも早い。
逃げ惑う小魚のように。
少し巻いては竿先を小刻みに振り、スプーンのバランスを細かく崩す。
逃げる魚は平を打ち、決してまっすぐには泳がない。
逃げる獲物。
それを目の前にすれば。
水中から伸びた糸が水面で横に疾走する。
そう、追わずにはいられない。
ただ静かに竿を立て、リールを巻き、無心で合わせた。
魚の疾走が竿を通じて腕に、体に伝わってくる。
乗った?
乗った!?
ゆるめに設定していたドラグが僅かに音を鳴らす。
それに合わせて桟橋の上へと足を踏み出した。
糸は極限と言って良い程に細い。
無理をすれば切れる。
翡翠は横に、時折反転してはさらに横に走る。
それに合わせて竿を動かし、無理は決してしない。
今までの怪魚じみた獲物に比べれば、その引きは決して強くはない。
それこそ渓流の強い流れと共に泳ぐ山魚の範疇だ。
必要なのは力ではない。
魚の動きを鋭敏に感じ取って、その動きに即応する。
気が付けば微笑っていた。
楽しい。
力でねじ伏せるのではなく、お互いの動きを探り合う。
こちらの竿の動き、たぐり寄せる糸に反応して相手も疾走の仕方を変える。
そこにあるのは相手との駆け引きだ。
糸が切れれば負け。
針が外れれば負け。
それが為されれば相手の勝ち。
「負けない」
負けない。
勝つ。
いつまでそうしていたのか。
疾走は長く続いた。
時折弱まり、それに合わせて相手をたぐり寄せる。
視線は糸の先、疾走の先、そしてまた糸へと戻り、気が付けば水中に翡翠の輝きが覗く。
青い水面から覗く、宝石にも似た緑の輝きが光を放つ。
確かにそれが見えた。
それに目を奪われ、そしてその瞬間、手から走り続ける相手の疾走の感触が消えた。
「っ!? ……スーさん」
心底驚いた。
一瞬、逃げられたのかと思った感覚の喪失は、いつの間に近づいてきていたのか、スーさんによって差し込まれた網の中へと納められたからだった。
スーさんの顔を見れば、いつも不機嫌そうに見える口元が微妙に笑っていた。
それを見て、私も笑った。
そう、確かに釣ったのだ。
逸るようにスーさんが手元へと寄せた網の中を見る。
そこにあるのは宝石そのもの。
深く、僅かに光を放っているように見える翡翠の魚体。
文字通り、翡翠と呼ばれる魚だった。
流線型と呼ぶに相応しい細く、ゆるやかな曲線を描く体は艶かしい。
特に体に模様はなく、鱗は一見して分からない程に細かく繊細。
目はやや大きく、そして網の中で僅かに開いては閉じを繰り返す顎は肉食の獣のような強かさ。
そしてそこに、しっかりと叔父のスプーンの針が刺さっていた。
そっと針を外す。
そして腰が抜けたように、後ろへとすとんと座り込んだ。
「はぁー、疲れたぁ」
投げたのはただの二投だけ。
それでももう帰っても良いと思えるだけの満足感があった。
そんな私を一瞬だけちらりと見ると、スーさんは腰にあった山刀を抜き、翡翠を手にすると、あっとういう間にその腹を裂く。
どこか鉱物じみた輝きを放つそれが、簡単に引き裂かれるのは意外に思えた。
「え?えーっと、どうされるので?」
問い掛ける間にも内蔵は引き出され、そのまま桟橋から乗り出して魚を洗う。
すぐに身を起こすと、未だ座り込んだままの私に視線を止め、そのままついてこいと言うように首を振った。
◇
スーさんの後をついていくと、いつの間に用意していたのか、石を組んだ即席のかまどがあり、そこには火が起こされている。
スーさんは座り込むが早いか、そこに立てかけてあった削った枝に翡翠を突き刺し、ザックの中から取り出した塩を振り、そのまま火にかけた。
「ああ、今回は食べるんだ」
いったいどういう風の吹き回しなのか。
今までに釣った魚を食べた事はなかった。
それが今回だけは違うらしい。
間を置かずに、魚の焼ける匂いが、なんともいえない香ばしいかおりが立ちこめる。
その身からは脂がしみ出し、ぽたりぽたりと垂れていた。
それが視覚的にも何とも言えない食欲を誘う。
やがて焼き上がったそれをスーさんはかまどから引き抜き、私へと差し出す。
受け取ると、食べろと言わんばかりに頷いた。
「スーさんは?」
釣り上げたのは1匹だけ。
今日、もう1匹釣り上げるのは難しいだろう。
あれほどに警戒心の強い魚だ。
一度、翡翠があれだけ走り回った後では、かなりの時間、場を休ませないと駄目だろう。
軽く、差し出そうとした手を見てスーさんは首を振り、決して受け取ろうとはしなかった。
それを受けて、僅かに手を戻すと、彼女はあるかなしかの微笑を口元に浮かべてうなずいた。
釣った私が食べるべきだ。
つまりはそういう事だろう。
スーさんにも食べて貰いたかったら、また来て、また釣れば良い。
そう決めて、私は一口、背びれの辺りから背中側へとかじりついた。
ぱりっとした皮を、私の歯は簡単に突き破り、それはその身へと至る。
身にはしっかりとした弾力。
しかし、噛み締めると身はほどけ、口の中でほろりと広がる。
しっかりと塩が振ってあるにも関わらず、甘い。
魚の肉の甘み。
それを確かめるように鼻から息を吸えば、体中にその甘みが香りとして広がるような錯覚があった。
いや、本当に錯覚ではなく、肉に、血に、骨に、体中にその甘みが染み渡るような感覚がある。
「……なんだこれ。なんだこれ」
気が付けば口から言葉が漏れていた。
もう一口。
もう一口。
口に運ぶ度に香りは広がる。
美味かった。
言葉にすればそれだけ。
そこにある感動は陳腐な表現で言ってしまえば違和感しか覚えないだろう。
言葉に出来ない。
そんな事が本当にこの世にあるなんて。
気が付けば、翡翠は頭と骨だけになっていた。
それすらも食べてしまった方が良いのではないのか?
そんな悩みがよぎる程に名残惜しかった。
ふと、視線に気付き、顔を上げればスーさんが私を見ていた。
しまった。
完全に忘れていた。
一口だけでも、なんて言うには既に頭しかない。
そんな気まずさを許すように、スーさんは口をへの字に曲げながらも、その目はいつもとは違って猫のように細められていた。
うまかっただろう?
そこに言葉は無い。
でも、彼女の目は確かにそう言っていて。
「はい。とてもおいしかったです」
言葉は伝わらずとも、一心不乱に食べ尽くしてしまった姿は見られている。
何を言っているかは丸分かりだ。
私の言葉に応えて、彼女はただ一度、首を縦に振った。
良かったな。
言葉は無い。
でも、私は答えた。
「はい。良かった。本当に良かった」
結局、私は翡翠の頭も残さず食べ、そして私たちは山を下りた。