エピローグ:Goodness of God ― 三つの音が紡ぐ、ひとつの祈り
あれから、二年が過ぎました。
十三歳になった光音は、少し長くなった髪を後ろで結び、バイオリンケースを抱えて演奏するホールのドアを押しました。
外はしんしんと冷え込む、クリスマス・イヴ。
廊下の奥からは、どこか懐かしい温かな熱気が漂ってきます。今年はヒカリにとって、そして何よりあつらえたように特別な、最後のクリスマス発表会でした。
高校受験を翌年に控えた奏多先輩は、この演奏会を最後に音楽教室を卒業することが決まっていたからです。
「こんばんは、光音ちゃん」
楽屋のドアを開けると、そこには黒のスーツを着こなしたカナタ先輩が立っていました。少し背が伸び、大人びた横顔。けれど、光音に向けられる笑顔は、あの日と変わらない柔らかさを湛えています。
「こんばんは、カナタ先輩。……スーツ、すごくお似合いです」
「ありがとう。光音ちゃんも、なんだか少し大人っぽくなったね」
そう言って笑う先輩の姿に、胸の奥がキュッと甘く締めつけられます。
その隣で、ドレスに身を包んだお母さん——琴葉が、二人の姿を眩しそうに見つめながら優しく微笑みました。
「ふふっ、二人とも本当に素敵よ。カナタ君、これまでヒカリの憧れの先輩でいてくれて、本当にありがとうね。……ヒカリ、緊張してる?」
「ううん、お母さん。すごく……ワクワクしてるの」
光音の言葉に、お母さんの琴葉は愛おしそうに娘の頬に手を添えました。
「今日の曲ね、『Goodness of God』……神様の愛を讃える教会の歌でしょう? お母さん、歌詞を読み返すたびに胸が熱くなるの。『あなたの恵みと温もりが、どこまでも私を追いかけてくる(Your goodness is running after, running after me)』って……。あの冷たい異世界で絶望に押し潰されそうだった時も、本当は目に見えない温かな愛が、ずっと光音を追って導いてくれていたんだなって」
お母さんの温かな言葉が、光音の胸の奥深くにじんと染み渡っていきます。
かつて見知らぬ異世界の冷たい雪の中で、「もう二度と会えない」と泣きじゃくっていたあの少女は、もういません。あの過酷な冒険と絶望を乗り越えた光音は今、こうして大切な人たちの隣に立ち、まっすぐ未来を見つめることができていました。胸に秘めた言葉にできない甘い恋心も、家族への深い感謝も、すべてこのバイオリンの音色に込めて届けると決めていたのです。
光音は静かにケースからバイオリンを取り出し、弓を構えました。
「A」の音を鳴らし、弦のペグを少し回してチューニングを整えます。
キーンと澄んだ糸のようなバイオリンの音が楽屋に響く。
隣で、カナタ先輩がピアノの鍵盤を一つ、優しく叩いて音を合わせました。二人の音が重なり、そこにお母さんのハミングが寄り添うように重なります。三つの音が溶け合った瞬間、指先からじわじわと温かな幸福感が広がり、最高の夜になる予感が光音の全身を駆け巡りました。
やがて、プログラムのすべての演奏が終わり、会場が大きな拍手に包まれました。
アナウンスが流れ、高橋先生が笑顔でステージの中央に立ちます。
『本日はようこそお越しくださいました。最後に、長年教室を引っ張ってくれた高橋教室の奏多君から皆様へ、特別なサプライズ・プレゼントを用意しております』
ホールが静かなざわめきに包まれました。
『プログラムには書いておりませんが……今夜最後を飾るのは、将来を期待される奏多君と、光音さんとお母様のアンサンブルです』
暗転するステージ。
スポットライトが三つ、静かに降り注ぎました。
上手にはグランドピアノに向かうカナタ先輩。
下手には、バイオリンを顎にあてた光音。
その横にマイクを手に優しく立つお母さん。
お互いに顔を上げ、視線が重なり合います。言葉はありません。けれど、三人の呼吸がひとつに重なるのがわかりました。
カナタ先輩の指先が、そっと鍵盤へと舞い降ります。
ぽろん——。
それは、誰もが幼い頃から知っている、聖なる夜の静けさと温もりが宿る柔らかな一音でした。鐘の音が夜空に響き渡るような、優しくあたたかな音色。
続いて光音が弓を滑らせました。絹のように滑らかな弦の響きが、ピアノの旋律にそっと寄り添い、優しく抱きしめるように溶け込んでいきます。
そして、お母さんが静かに息を吸い込み、澄み渡る歌声を響かせました。
あなたの声が好き。どんな激しい炎の中でも、私を導いてくれた……
(I love Your voice, You have led me through the fire……)
私の生きてきたすべての瞬間、あなたはいつでも真実で……
どこまでも、どこまでも恵み深かった
(All my life You have been faithful……
All my life You have been so, so good)
お母さんの温かな歌声が、言葉の意味を超えてホール中に広がっていきます。
ヒカリのバイオリンがその歌声に胸を焦がすような切なさを乗せ、カナタ先輩のピアノが優しく包み込む。
(カナタ先輩となら……お母さんとなら、どこまでだって飛んでいける)
過去の絶望も、未来への不安も、すべてをこの輝く音色に変えて——。
言葉にならない恋心が、溢れるほどの感謝が、三つの音となって黄金色の光となり、ホール全体の空気を優しく満たしていきます。
やがて歌声と旋律は、誰もが知る聖なる夜の祝福のメロディへと、ゆっくりと形を変えていきました。
降る星のように優しく降り注ぐ、ピアノの鈴のような打音。
雪景色をあたたかく包み込むような、バイオリンの伸びやかなレガート。
そして、世界中の幸せを祈るような、あたたかな余韻。そのメロディが耳に届いた瞬間、誰もが心の中で聖夜の鐘を鳴らし、大切な人の笑顔を思い浮べていたからです。
ふたたび訪れる静寂の中、客席からは溢れんばかりの拍手が巻き起こりました。
先輩と重なる視線の中で、光音の胸は高鳴り続けます。
未来への最高の予感と、胸を満たすあたたかな愛を乗せて——
奇跡のような聖夜の音色は、いつまでも、聴く人の心の中に響き渡っていくのでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
あなたにとって、クリスマスとは何でしょうか。そこに、神様の愛を感じることはありますか。
「いつか大切な人に、バイオリンを奏でて、自分の気持ちを届けたい。」そんな小さな目標が見えてくると、不思議ともう一度、音楽に向き合う勇気が湧いてきました。
この物語を読んでくださったあなたにも、もう一度、
「聴いてみたい」「歌ってみたい」「奏でてみたい」――そんな音楽との新しい出会いがあればうれしいです。
音楽は、言葉にできない想いを、誰かの心へ届けてくれるものだから。




