第1話:決死のダイブ
「朱雀ーー! いけーッ!! 飛べぇーーッ!!!」
地鳴りのような歓声と、鼓膜を破らんばかりの怒号が、会場中に吹き荒れていた。
息が苦しい。全身が焼けるように熱い。口の中に広がる血を、唾と一緒に吐き捨てる。
ここは、日本の女子プロレス界の頂点を決めるビッグマッチのリング。そして、そのリングを高さ四メートルの鋼鉄の金網が囲んでいる。
朱雀セラは、金網にしがみつき、その最上部を目指して、ぼろぼろの体で登っていた。
視線の先、リングの中央には、この団体の絶対王者たる『女帝』が倒れている。ここまでの死闘で、お互いの体力は限界を迎えていた。
セラが今日ここへたどり着いたのは、単なる偶然でも、筋書き通りでもない。誰もが「無謀だ」と笑った。持たざる者による、絶対王者への下克上。歴史が動く、まさにその瞬間に、彼女はいた。
「ハァ、ハァ……ナメんじゃ、ねえぞ……。やるぜ、やってやる……」
金網の最上段、幅わずか数センチメートルの鋼鉄のフレームの上に、セラは両足で立った。
超のつく負けず嫌いのセラにとって、無難で安全な勝ち方など、最初から選択肢にない。
この大詰めの局面で、最も危険で最も華麗な空中殺法を決め、完全なスリーカウントを奪う。それだけが、彼女の目指す『強くて美しいプロレス』だった。
セラは、肺いっぱいに熱狂を吸い込む。
「……これで、終わりだあぁぁーーーッ!」
全身のバネを絞り込み、金網のてっぺんから、リング中央に向けてその身を投げ出す。
意地と、魂と、身体が、宙を舞う。
その瞬間、視界のすべてを、会場の照明の光が白く染め上げた。
網膜を焼くような強烈な光。そして、全身を強打したような、あるいは身体がそのまま溶けていくような、奇妙な感覚。
歓声が、遠ざかる。
心臓の鼓動すらも消え去り、セラは深い静寂の底へと落ちていった。
*
「――っ、は!?」
セラは跳ね起きるようにして、上体を起こした。
反射的に両手を前方に突き出し、ガードの姿勢を取る。だが、拳が触れたのは鉄の金網でも、キャンバスのマットでもなかった。
カサリ、と乾いた木の葉が擦れる音が響く。
「……? ここ、どこ?」
立ち上がり、辺りを見回す。
周囲に広がっていたのは、巨木が立ち並び、草木が鬱蒼と生い茂る、見たこともない深い森だった。木々の隙間から差し込む光は、どこか薄紫色を帯びているように見える。
静かだった。歓声も、ゴングの音も、セコンドの声も、一切聞こえない。
「アタシ……あのダイブ、失敗した……!?」
冷や汗が背中を伝う。
あの高さから脳天、あるいは背中から落ちたのだとしたら、即死していてもおかしくない。よくて全身打撲、内臓破裂で意識不明の重体か……。
ではここは、夢の中か、はたまた、死後の世界か。少なくとも、ここは明らかに病院でもなければ、プロレス会場でもない。
セラは慌てて自分の体を触った。
腕、足、首、腰。どこにも痛む箇所はない。
着ているのは、あの試合の時と全く同じ、赤とオレンジのメッシュが入ったきらびやかなオリジナルのリングコスチュームだ。不思議なことに、擦り傷ひとつなく、汚れひとつ付いていない。
「嘘……。骨折どころか、体の調子も完璧なんだけど。っていうか、むしろ力がみなぎってるっていうか……」
試しに、その場で軽くステップを踏んでみる。
地面を蹴る感覚が、信じられないほど軽い。体の軸が、芯が通ったようにピタリと安定している。
手首と足首を回し、股関節を割り、前屈して柔軟性を確かめる。元の世界ではどれだけストレッチをしても届かなかった領域まで、関節が滑らかに動く。まるで、肉体そのものが超一流のアスリートとして最適化され、再構築されたかのような感覚だった。
草を踏めば音がするし、風が吹けば森の匂いがする。どれも本物なのに、どこか違和感がある。何かが嚙み合わない。
腕を伸ばして空を見上げると、青空の向こうに、うっすらと赤い月のような天体が浮かんでいるのが見えた。それも、ふたつ。
「……え? 月が、ふたつ……って、マジ!? これって、もしかして……『異世界』ってやつ!?」
セラはプロレス以外の娯楽には疎かったが、子どもの頃に兄と遊んだゲームや、同期のレスラーが好きだと言っていたライトノベルの知識くらいはあった。
死後の魂や肉体が異世界に送られる。そういう超常現象が、今まさに自分の身に起きているのだと理解せざるを得なかった。
「……いやいや、待って待って! アタシの下克上は、どうなったんだよ! あの試合、カウントは!? せっかく『女帝』を引きずり下ろせるところだったのに……!」
じわじわと転生前の記憶がよみがえり、血が頭に上ってくる。
死んでしまったかもしれないショックよりも、試合を最後までやり遂げられなかったこと、勝敗がうやむやになったことへの悔しさが勝っていた。
「くそ……信じられない。やっとつかんだチャンスだったのに……!」
誰に向けるでもない怒りを吐き出し、セラは強く拳を握りしめた。
その時。ガサガサ、と近くの茂みが大きく揺れた。
「――っ!」
セラは素早く身構え、音のした方向を睨みつける。
獣か、と思ったが、現れたのは、犬でも熊でもなかった。
身長は一メートルそこそこ。ひょろりと細長い手足に、ぼてりと突き出た醜悪な太鼓腹。肌は濁った黄緑色で、尖った耳に歪んだ角、そして、悪意に満ちた濁った目を持つ、小鬼のような異形の生物だった。
「ギ、ギギッ、ギギャア!」
小鬼は、両手をだらりと体の前に垂らし、セラを見て不気味な笑みを浮かべている。
その視線には「獲物」に対する剥きだしの敵意が込められている。
「おお? こいつは……『ゴブリン』ってやつ……!?」
ゴブリンはファンタジー世界の定番モンスターだが、いま目の前にいるのは、生々しい獣臭を放ち、本気でこちらを殺そうとしている、生身の化け物だ。
ゴブリンは甲高い叫び声を上げると、地面を蹴ってセラへと突進してきた。さきほどまでの鈍重な動作からは想像できない俊敏な動きだ。
(――避けるか?)
否、セラの脚は一歩も動かなかった。
武器もない。防具もない。あるのは自分の肉体だけ。
だが、朱雀セラはプロレスラーだ。
「おぉい、チビ鬼!」
セラは不敵に口角を釣り上げ、逃げるどころか、むしろ両手を広げてファイティングポーズをとった。
プロレスの基本は「受ける」こと。相手の攻撃を正面から受け止め、耐えてこそプロレスラーだ。
「上等だ。こっちは大事な試合からほっぽり出されてムシャクシャしてんだ……。やってみろ、オラーーッ!!」
襲いかかるゴブリンを真っ正面に見据え、セラは力強く足を踏ん張った。
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