第二十七話 夜の出来事②
わたくしがブリオッシュをちぎると、レオン様は満足げに微笑まれます。
一口サイズにちぎったパンをレオン様の口元へ運びます。
扉をノックするように下唇に触れたブリオッシュ。合図を受け取ってくれて、レオン様の口が大きく開きます。
見えた赤い舌に鼻にかかったような吐息が漏れてしまいました。
藍色の瞳は薄く開いたまま。わたくしのすることを一瞬でも逃さないように見ています。
わけもわからない興奮で指先は小刻みに震え、緊張のあまりブリオッシュを落としてしまいそうです。それでも、なんとか舌の上にそっとのせました。
指を離すと同時に口が閉じられ、じっくりと味わうような動きに魅入ってしまいます。
わたくしが作ったものがレオン様の喉を通る瞬間、たとえようのないものがこみ上げてきました。
飲み干したレオン様は微笑まれます。
「んっ……美味しい。甘いね」
甘いの言葉が特別なもののように感じてしまいました。
レオン様から切羽詰まったような暗い雰囲気は消え、目尻が下がった瞳は安堵した子供のようで可愛らしくさえ感じます。
かいがいしく雛鳥にパンを食べさせているような不思議な気持ち。わたくしは嬉しくてまたパンをちぎります。
「もっと、食べてください……」
食べたいですか?……ではなく、食べてとお願いしたのは、わたくしの欲です。
この一時をもっと続けたいと願っているのですから。
レオン様はくすりと笑うと、ちぎったパンを持った手首を柔らかく掴み、わたくしの口元まで運びます。
食べてほしいのに、これではわたくしがパンを食べろと言われているようです。
わたくしは惚けたままレオン様を見つめます。藍色の瞳が熱を帯びてわたくしを捕らえました。
「……鳥が食べさせる時ってさ、くちばしで食べさせるよね。親鳥が愛情を込めて、雛鳥に食べさせる。それって、献身的な愛情だよね?」
献身的な愛情……キーワードのような言葉を耳にしながら、わたくしの唇にブリオッシュが触れます。
「病を治すのは、献身的な愛情だよ……ねぇ、エリアル。僕にそれを捧げてよ」
どきりと心臓が跳ねました。いけないことをしてしまう高揚感が背骨を伝います。
それなのに、あぁ、わたくしは浅ましいです。口を開いてしまうのですから。
「噛んで」の一言に抗えず、わたくしは歯を立ててブリオッシュをくわえます。
レオン様の顔が近づいてきます。食べさせているだけなのに、口づけをするような緊張感で体が跳ねてしまい、わたくしは腰を引きました。正面を見ていられず、自然と視線は下に。
「恥ずかしい?」
問われて、素直に頷きました。ブリオッシュをくわえたままなので声がでません。口の中はブリオッシュを飲み干したいのか自然と潤んでしまいます。
「……たまんないな……」
ポツリと呟かれた言葉。それを合図にレオン様がすっと動き、わたくしの顔を覗き込むように近づきました。
一瞬の出来事。わたくしの唇を掠めるように触れながら、レオン様はブリオッシュに歯を立てました。
体が大きく震え、のけ反る形になってしまいます。さらりとしたドレスがソファの上で滑り、わたくしはそのまま仰向けに倒れてしまいます。
──お皿……!
こんな時に手に持ったままのお皿を気にするなんて。自分でもどうかしていると思います。
投げ出せなかったお皿をしっかりとつかみ、わたくしは無様にソファの肘掛けに頭をぶつけました。
投げ出される片方の足。スカートの生地が足らず、はみ出してしまった素足。自分がしている格好が信じられなくて、体は強ばります。
視界の先に見えたのは、ブリオッシュを飲み干すレオン様の顔。
その瞳がいつになく輝いて見えました。
「やっぱり美味しい……さらに甘く感じるよ。エリアルが愛情を込めてくれたせいかな?」
くすりと笑われて、わたくしはいたたまれなくなります。恥ずかしいです……と言いたいのに、半分になったブリオッシュが邪魔をして声がでません。
顔が紅潮しすぎて、瞳が潤んでいるのがわかります。
──レオン様……これ以上は羞恥に耐えられません。おやめになって。
そう目で訴えましたのに、レオン様はわたくしを囲うように、ソファの背もたれに手をつけて近づいてきます。
乱れた足の間にレオン様の片膝が進んできます。逃れられないように膝で押さえられたスカート。それに羞恥は深まり、わたくしは目を伏せました。
「ほら、エリアル。まだ口の中にブリオッシュが残っているでしょ? それも食べさせて」
耳のすぐ近くで囁かれた言葉にぶるりと震えます。ちらりと視線だけを送ると、すぐ目の前にはレオン様の顔がありました。
「こっちを向いて。もっと僕に献身的な愛を捧げて」
愛を捧げてと言われたら、わたくしは顔を上げるしかありません。震えながら正面を向くと、口の中で溢れたものが端からこぼれそうです。
レオン様の顔は仄かに紅色となっていて、目は蕩けきっています。
「ほら、舌で押し上げて。差し出してくれないと君の口の中に僕が入ってしまう」
きゅっと心臓が痛みます。それをレオン様は見逃してくれません。
「それとも、君のなかに入ることを許してくれるの?」
ドキッと心臓が軋み 、トランプゲームのことが頭を過ります。それを叶えたいと思ってしまったわたくしの心も。
近づいた顔は吐息がかかりそうな距離です。レオン様は口を開きます。
「エリアル、食べさせて。舌が渇いてしまう。ほら、早く……」
掠れた声に従い、わたくしは口の力をゆるめ小刻みに震える舌で、ブリオッシュを前へ差し出します。
「もっと出して。噛みつけない」
壊れそうなほど高鳴る心臓にわたくしは耐えきれなくぎゅっと目をつぶり、舌でブリオッシュを押しました。
唇に軽く触れながら奪い取られたブリオッシュ。歯がひっかかり欠片が喉へと落ちていきます。潤んだそこはあっけなく、甘さを飲みました。
ごくっと喉を鳴らす音がして、うっすらと瞳を開けます。生理的な涙が瞳の中でたゆたいレオン様の表情が見えません。
「……あまっ……」
いつもより乱暴な口調。それなのに声色はどこまでも楽しげでした。
「すごっい満たされた。どうも、ありがとう」
そう言って、レオン様はわたくしの背中に手をあてて起こしてくれます。
ボーッとしたまま、わたくしはレオン様を見つめました。
レオン様は満足したのか懸命に抱えていたブリオッシュの皿をわたくしから取ります。
そして、自らの手で食べ出しました。
──魔法がとけた……の?
嬉々とブリオッシュを頬張るレオン様を見ていると悲しくなってきます。
名残惜しくて、わたくしはつい心の枷を外します。
「レオン様……」
熱い息で声をかけ、こちらを向いたレオン様に静かに欲を口にします。
「また、夜に……トランプをしてください」
ねだるような声をだすと、レオン様の瞳が大きく開きました。動揺が見えたのに、わたくしの口は止まりません。
「……わたくしに賭け事を教えてください」
意図が伝わったのか、レオン様の瞳が恍惚と光りだしました。
「……いいよ」
悪い道を咎めない言葉。
わたくしの口元は歪み、うっとりと微笑んでいることでしょう。
それを隠そうとは、もう思いませんでした。




