第二十八話 レオン視点①
少し前にレオンの元にはジャクリーヌから手紙が届いていた。内容は簡単に言うと「エリアルを泣かせていないでしょうね?」という警告文だ。
エリアルは侯爵家に来てから、サロンへは行っていない。つまり、ジャクリーヌに会う機会も失われている。
彼女がここに来てから一ヶ月が経つので、じれて手紙をよこしてきたのだろう。
だが、手紙とは意外なアプローチだ。大股で闊歩してきた彼女ならば様子を見に来ると思ったが、彼女も自身の出方をはかりかねているのだろうか。
──手紙なんて、いくらでも嘘が取り繕えるのになぁ。
本気で心配しているなら、ぬるいやり方だ。そう考えると、ジャクリーヌもエリアルと自分のことは本人たちに任せるしかないと諦めているのかもしれない。
返事は何にしようか。「まだ本気で泣かせてはいませんよ?」とでも言えばよいのか。
その返事を見て顔面を蒼白させるジャクリーヌを想像し、レオンはくつくつと喉の奥を震わせた。
***
今日のレオンは帰ってくるなり不機嫌になった。
いつものようにエリアルが出迎えてくれて、それまでは彼はご機嫌だった。
不機嫌になったのは軍服を脱ごうと自室に戻った時。彼の部屋に料理長のジョスが来たときだった。
ジョスはレオンを見るなり直角に頭を下げてきた。
「レオン様、申し訳ありません。エリアル様の作られたブリオッシュを食べてしまいました」
真摯に頭を下げるジョスにレオンは面食らったが、すぐに表情から笑みを消した。
「……どういうこと? 詳しく話して」
蒼白するジョスは今日のキッチンで起きた出来事を洗いざらい吐いた。
彼はエリアルの為とはいえ、ブリオッシュを食べた。レオンが怒ることを知っていながら、食べたのだ。
──気に入らないな。
話を聞いて思ったのはそんなこと。エリアルと過ごす時間が増えて彼女の心がこちらに向いてきたというのに、余計なことをしてくれたものだ。
レオンが気に入らないのは、知っていて尚、食べたということだ。
何も知らなくてやったのならまだ許す。これから教え込めばいいのだから。
だが、ジョスはレオンの狂気を知っていてやった。
それは、レオンの嫉妬に火を付けて、内に秘めた狂気を表に出させる行為だ。
──本当に余計なことを……せっかく我慢してきたっていうのに……
レオンの中で最大の敵は自分自身に他ならない。
いつこの狂気に内から食い破られるのか。その危険性を理解しているので、ぐらつく思考を理性で止めていただけだ。
それをあっさり破ろうとする行為は、レオンにとって憎々しかった。
レオンはけだるそうにソファに腰かけると「解雇するなら私だけにしてください」と懇願するジョスに冷えた視線を送る。
──嫌な気分だ……本当に消したくなる……
それをやったら、エリアルは泣くだろうか。なぜとうろたえ、涙を流すだろうか。
──やだなぁ。エリアルが他人の為に泣くなんて……
その涙の一滴も自分の為であれと、願ってしまう。真っ黒な感情に飲まれそうになりながら、レオンは気持ちを殺して爽やかに微笑む。
「バカだなぁ、そんなことを考えるなんて」
うつむいていたジョスににこりと微笑みかける。彼はレオンの言葉が信じられないのか目を見開いて動揺を隠さない。
「僕がそんなことで君を解雇するわけないでしょ? エリアルはパンを焼きたがっていたし、これからも教えてあげてよ。それと、ブリオッシュは後で部屋で食べるから持ってきておいて」
そう言うと、ジョスは神妙な顔をしてまた頭を下げた。
「……寛大な処置に感謝します」
その一言にレオンは目を細める。
ここでジョスを消しても自分の描く未来から遠退くだけだ。そう判断した結果だった。
それに……
エリアルを慕う者が増えるのはいいことだろう。
優しい彼女は慕われれば慕われるほど、情が沸いてここから離れがたくなる。
──使用人も、君を捕らえる為の枷だよ。
そう言ったら、エリアルはどんな顔をするだろうか。
たまらない気持ちになり、レオンの唇の端は自然と持ち上がっていた。
その後、ジュリーはいつものように報告をした際に土下座までしてきた。
「消すのはどうかわたしだけにしてください!」と訴えてきたので、レオンはやはり笑って許した。
彼女は咎めないレオンを不思議がっていたが、ここで許したのは彼女は監視役として機能しているからだ。
ただ、少々、エリアルに心を寄せすぎなのは気になるところだ。
「ジュリー、これからの君の働きに期待しているよ。エリアルをよく見てあげてね。君と君の家族のためにも」
苛立って語気を低くしたのは、余計なことだっただろうか。
ジュリーは可哀想なくらい震えて青ざめていたから。
そんな出来事があって、レオンは不機嫌だった。今日はエリアルを呼ぶ予定ではなかったのに、彼女に無性に触れたくなった。
熟睡させた後の観賞だけじゃ物足りない。嫉妬で頭がいかれて、眠る彼女にむごいことをしそうだ。
それにしたところで彼女は何一つ覚えていない。余計に飢えるだけだろう。
チリチリと嫉妬に身を焦がしながら、レオンはジョスが持ってきたブリオッシュに白いナプキンをかけて、彼女を待っていた。
──コンコン。
控えめに叩かれたノック。それにごくりと喉が鳴る。鏡でちらりと自分を見ると、ごちそうを前にした獣の目をしていた。
レオンは大きく息を吐き出し、理性を取り戻そうと足掻く。
それなのに、エリアルの紅潮した頬、恥じらった潤んだ瞳、同じチューベローズの香りを感じたらもうダメだった。か細い線のような理性はプツンと切れる。
気がつけば、存在を確かめるように抱きしめていた。
──もう、いっそのこと。エリアルしかいない世界になればいいのに……
思考が危ういところまで落ちていて、レオンはエリアルの見えないところで昏く笑う。
彼女がしたことは優しさ故で何もおかしなことはない。それは分かっている。こんな行動をするのは、すべてエリアルを愛しすぎているせい。
今ここで彼女の全てを貪れば自分の飢えは満たされるのだろうか。
いや……きっと、満たされない。
彼女の〝バッドエンド〟を迎えるか、仮想の〝ハッピーエンド〟を迎えるまでは。自分はずっと彼女への欲を募らせるのだろう。
──本当に厄介な病だな……
自覚しつつも彼女から香る快楽の匂いがレオンを深淵と引きずり込もうとする。
レオンは狂気に身を焦がしながら、目の前の愛くるしい人に本心をぶつけた。
「エリアルが作るものを最初に食べるのは僕がいい」
その時、彼女の笑みが一瞬だけ〝悪役令嬢〟のものになった。
それをレオンは見逃さなかった。
どくり。どくり。
心臓が奇妙な興奮で高鳴っていく。
──もしかして、エリアルはもう〝悪役令嬢〟になっているの……?
レオンは笑いかけた口を引き締め、確かめるように懇願した。
「ねぇ、エリアル……僕を助けてよ。病が深くなりそうなんだ。じゃないと、僕は無意味に誰かを傷つけてしまう。止められるのは君だけだ。だから、今夜は僕を癒して」
その後は語るまでもないだろう。エリアルはレオンの想像を越えて彼を喜ばせ、すっかりタガは外れていた。
***
エリアルと別れ、私室に戻ったレオンはソファにしなだれかかった。
「ははっ……」
乾いた笑みがでるのはしかたない。
──ゆっくりこじ開けてきてきたかいがあったな。やっぱり彼女を攻略するなら、シナリオをなぞるのが一番か。
燻っていた一年が嘘のように順調だ。
エリアルがゲームをしたいと言ったときの笑み。
「あなたが欲しい」と訴える情熱的な眼差しは彼女が〝悪役令嬢〟になりつつある証拠だ。
背筋がゾクゾクしてたまらない。その狂気を存分に見せてほしくなる。
はぁ、と漏らす吐息は熱く、己の高揚感をあらわしていた。
「早く僕だけの悪役令嬢になって……病を止めてよ、エリアル」
その瞬間をもう三年も待っているのだから。
身にあまる熱におかされながら、レオンは体を動かし天井を仰いだ。
レオンの天井には美しい絵が描かれている。赤いハートを抱いて眠る少年の絵。近くには天使が微笑みかけていた。
エリアルの部屋と対になるそれをじっと見つめていると、私室の部屋がノックされる。
こんな夜更けに部屋を訪れる人なんて誰だろう? 思いつくのは一人しかいなく、レオンは小さく息を吐き出して、姿勢を正した。
「どうぞ。母上」




