10-4 その後
数学オリンピック。私は金メダルを見ながら思い出に浸る。結果は優勝。みんな結果に喜んでくれた。だけどーー
「えっ? 飛び級ですか?」
「うん。君の頭脳なら飛び級で大学に入学できるだろう。高校より大学のほうが君には合っていると思う」
担任の教師に言われたのが夏休み中の登校日。呼び出されたのは飛び級についての話だった。
私自身、飛び級なんて考えたことがなかった。でも、大学ならあまり性別の関係なく自由に勉強できるのではないかとも思う。だけどもその代わりに数学オリンピックには出られなくなる。そういう規定があるのだ。
私は最初に翡翠くんに相談した。一緒に数学オリンピックに出ようなんて話をしていたから。彼の言葉はあっさりとしていた。
「いいんじゃない?」
「えっ、でも来年数学オリンピックで勝負しようって話だったじゃない?」
私が聞くと翡翠くんは笑った。
「勝負はいつでもできるじゃん。飛び級するって話のほうが真珠の将来に関係するでしょ」
「それはそうだけど……」
私は口ごもった。翡翠くんが同じ舞台に立ってくれる。一緒に勝負したいと思っていた。でも、それは夢でしかないのだろうか。
滝瀬兄弟と同居していた夏休み。さすがに正体が翡翠くんにバレたので、数学オリンピックの終了とともに私は自分の家に帰ることになった。それでも琥珀さんのご飯目当てでカフェには入り浸っているのだが。
「真珠ちゃん、今日のオーダーは?」
水晶さんに聞かれ、アイスコーヒーを注文する。琥珀さんが焙煎しているので、味に期待だ。今まで『くん呼び』だったのが『ちゃん呼び』になったのは変化だけど、それ以外に私とモモンガーの関係性はあまり変わっていない。
今日は放課後にカフェに遊びに来た。あと1年、性別を隠して男子高校生として生きるか、大学に飛び級して、女の子に戻るか……。
「真珠が一緒だと楽しいけど、やっぱ性別を偽っていたら本人も大変だからね」
翡翠くんの言葉は至極もっともだ。
アイスコーヒーが運ばれてくる。飛び級となると秋入学がある。9月、10月までに入学するなら、高校をやめなくてはならない。そうなると必然翡翠くんとは離ればなれになってしまうーーそこまで考えた私は、首をかしげた。ん? なんで私の進路に翡翠くんが関係するの? 確かに一緒に数学オリンピックに出ようとは約束したけど……。私は正面に座っている翡翠くんを見つめる。頬杖をついていた彼は、看板に目をやった。
「『暗号解きます』の看板、これはまだ飾ってていい?」
私が高校をやめても、滝瀬兄弟との縁が切れるわけではない。ドルフィンにだって遊びに来ればいいだけだ。アイスコーヒーにミルクとガムシロを入れて混ぜる。氷のカラン、という音が涼しげだ。
「モモンガーの活動は?」
「相変わらずだよ。真珠が見てないところでも動いてる。これ、見て」
翡翠くんは腕時計を見せる。アナログではなく、流行りのメッセージなどを受信、発信できるものだ。そのガジェットを使うことで緊急の事件が起きたとき、現場に直行できるという。モモンガーへの連絡は、意外にデジタルだった。
……モモンガーの話でふと思い出す。もし、飛び級で大学に入学しても、モモンガーが目付役ってことは変わらない。それだったら一緒に暮らすほうが利便性が高いのか? でも、紅一点になるのも少し危険だ。……いや、私が女だってわかっていたら、その辺の配慮もあるのだろうか。とはいえ私は男子高校にいた期間が長かったから、そんな色恋沙汰になるとは思えないのだが。
飛び級しても、多分私たちの関係性は変わらない。自分で言うのもなんだけど、天才と暴走しないように見守るお目付役。
「ところで、飛び級するとして、どこの大学に入るの?」
「多分、水晶さんと御影さんと同じ大学かな」
「なら安心だね」
「……翡翠くんと離れるのは少し残念だけど」
「っ! ーー真珠はうまいね」
「何が?」
「そーいうとこだよ」
翡翠くんがそっぽを向く。私、何か変なこと言ったかな。私がじっと見つめると、視線に気づいて見つめ合う。
「……」
どうしよう。なかなかそらせない。私はふいと翡翠くんが見ていた方向に目を向ける。すると、翡翠くんは笑った。
「今のにらめっこは僕の勝ち、だね」
「勝負してたの? 負けかぁ」
翡翠くんは、今日学校で配られたお知らせを取り出す。9月に文化祭があるのだ。
「飛び級前、最後のイベントだね」
「……うん」
そう言われるとしんみりしてしまう。秋高での最後のイベント。私は翡翠くんに提案した。
「クラスの出し物、喫茶店はどうかな」
「ドルフィンの競合になるじゃん。それなら数学関係の他の出し物がいいよ。真珠がいる最後のイベントなんだから」
「……ありがと」
翡翠くんの言葉に照れると、私はアイスコーヒーを口にする。酸味が効いていておいしい。
「熱いねぇ~」
鐘くんが冷やかして、水晶さんがひゅーっと口笛を吹くと、御影さんがふたりをいさめる。
「茶化すなよ」
「甘酸っぱいじゃん?」
「はいはい、そろそろ夕方だし、真珠ちゃんも帰宅するでしょう? 翡翠、送っておいで」
琥珀さんに言われて時計を見ると5時だ。そろそろお暇する時間だ。
「ーーじゃ、行こうか、真珠」
「うん、ごちそうさまでした」
カバンを持つと、翡翠くんにエスコートされてカフェを出る。ようやくお日様も暮れてきて、秋らしくなった。
翡翠くんは自転車を出すと、私のカバンをかごに入れてくれた。
秋の夕暮れ、ふたりで私の家まで。言葉数は少ない。なんだかんだ言って、いつも兄弟の誰かがいたからな。
「しっかし、飛び級かぁ。大学ってどんなところだろ?」
「地元だから、そんなに変わらないんじゃない?」
「だといいけど。でも私ーー男のフリが長かったじゃない? 女の子に戻れるかなぁ」
私がぼやくと、翡翠くんは笑った。
「なーに言ってるの。髪は短いけど、女子じゃん」
「あのね、私的には翡翠くんのほうがよっぽど美少女だからね?」
「……ふうん、言ったね?」
翡翠くんは少しムッとしたのか、歩みを止める。私も止まると、自転車を引いていた翡翠くんの顔が近くなる。
「ごめん、不愉快だった?」
たずねると、翡翠くんは私の腕をつかんだ。
「……どっちが男かわからせないとダメ?」
「い、いや……」
ずいっと私のほうに体を向けるとーー。
柔らかな唇が、私に触れる。私は硬直した。
「女の子からキスは迫らない。僕はキミが好きになったみたいだ」
「ーーえぇっ!」
素っ頓狂な声を上げると、翡翠くんは噴き出した。
「キミが大学に行くなら、今度は女の子らしい服装も見られるってことだよね? ははっ、すっごい楽しみ!」
翡翠くんは満面の笑みを浮かべる。私はどんな表情をすればいいか戸惑って、赤面する。
私たちの夏休みは終わった。でも、私たちの青春はーー多分これからまた始まるんだ。私の胸は、とくんとくんと脈打っている。秋の風が私たちをなでる。
私は翡翠くんに向き合うと、お互い確かめるようにもう一度キスした。




