第34話 俺はドMじゃない!
拓也は、つい先ほどまで没頭していた恋愛ゲーム『告白~この想い、君に届け~』を名残惜しげに終了し、静かにパソコンの電源を落とした。画面が暗転するその瞬間まで、攻略しきれなかった妹キャラ・亜美の笑顔が脳裏にちらつく。未練はある。かなりある。だが――今はそれどころではない。
やるべきことがある。しかも、大急ぎで。
風呂を沸かし、晩飯の支度を整えなければならない。そうしなければ、待っているのはあの容赦ない叱責だ。夏香の鋭い言葉と、時には拳まで飛んでくるあの一連の流れ――。
いや、最近はあれにも少し慣れてきてしまっている自分がいる。むしろ、苦痛を通り越して、妙な感覚すら覚え始めているような――
「って、違うだろ俺!」
思わず自分にツッコミを入れる。
俺は断じてドMではない! 変態でもない!
……たぶん。
「はあ……」
小さく息を吐き、気持ちを切り替える。
「さっさと下に降りて、片付けるか」
一階に降りると、手際よく風呂の準備を整え、続けて台所に立つ。慣れた動きで食材を扱い、調理を進めるうちに、気づけば三〇分ほどが経っていた。風呂も沸き、食卓の準備もほぼ整っている。
拓也はその報告のため、再び階段を上がり、妹たちの部屋の前に立った。
「おーい、夏香、冬香。入るぞー。いいかー?」
扉越しに声をかけると、すぐに返事が返ってくる。
「いいわよ」
夏香の気だるげな声だった。
遠慮なく扉を開けると、目に入ったのは少し珍しい光景だった。夏香が机に向かい、真剣な顔つきでノートに何かを書き写している。普段の彼女からは想像しづらい姿だ。
おそらく、冬香の宿題でも借りて写しているのだろう。そんな推測が自然と浮かぶ。
「何? 晩御飯できたの?」
「ああ。飯もできたし、風呂も沸いてるぞ」
「そう。じゃあ、あたし先にお風呂入るから」
「了解。じゃあ飯は、風呂上がってから一緒に食うか」
「別に先に食べててもいいのに」
「いや、どうせなら三人で食おうぜ」
その言葉に、夏香はペンを止め、ちらりとこちらを見る。
「……兄貴がそう言うなら、別にいいけど」
「決まりだな」
「はいはい」
そこでふと、拓也は違和感に気づいた。
いつもなら机の椅子に座って本を読んでいるはずの冬香の姿が見当たらない。
「なあ、夏香。冬香は?」
「え? いるよ、そこに」
夏香が指差した先――二段ベッドの下段に目をやる。
そこには、部屋着姿の冬香が、静かな寝息を立てながら眠っていた。穏やかな表情で、まるで時間そのものから切り離されたように。
なるほど、と拓也は納得する。今日は夏香の帰宅が遅くなるという連絡がなかったが、きっとその前から眠ってしまっていたのだろう。
「あたしが帰ってきた時には、もう寝てた」
「そっか。たぶん本読みすぎて、そのまま寝落ちしたんだな」
冬香らしい、と苦笑がこぼれる。
「今起こすのも可哀想だな。飯の時でいいか」
「うん。あたしがお風呂出たら起こしとく」
「頼む」
「オッケー」
短いやり取りを終え、拓也は部屋を後にした。
再び一階へ降り、リビングで用意した料理にラップをかける。静かな家の中、時計の針の音だけが微かに響く。
やるべきことは、ひとまず終わった。
拓也はそのまま、自分の部屋へと戻っていった。




